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Lace Edge  作者: 一夏
20/36

20.hickey

 朝から出かけようか、なんて言ってしまった。ついつい口が滑ってしまった。冗談へ変換させようと狙っていたタイミングは、


「ほんと?」


 彼女が笑んだその時に、逃してしまった。


「早起きして迎えに来てね。」


 なんて言われてしまえば、頷くより他は無いのだった。


--全く。


 朝から無駄なほどに晴れている、と利人は眉を寄せた。あの時、三津に負けなければ、もう少し緩んだ頃に待ち合わせていた筈である。

 こうして歩いているだけで、幾人もの人間とすれ違った。どれくらいの確率かなんて気にしてはいないが、まあ凡そ半分は女である。

 この日差しにこの暑さ。皆一様に汗を光らせているのは仕方がないとしても。


--生臭い、


 もとより汗は血漿に近い。鉄のような臭いを彼が感じたって、まあ当然と言えた。そもそも嗅覚にまで文句をつける道理もない。

 しかし彼の脳は男と女の差まで、随分勝手に見出していた。


--女の方が生臭いな、


 如何にも「汗臭い」男とは、何かが違う。

 香水。オードトワレ。オーデコロン。濃度の違う香り立つ水と混ざり合う。

 時間。温度。体臭。それらで変化するから同じものは一つもない。

 彼にとってそんな細かなことはどうでも良く、唯何故か、


--いつからだ、


 呼吸についてまわるそれらに、我慢の利かない瞬間がとても増えた。

 溜め息をつこうにも、前を歩く知らない誰かの匂いの分子を吸い込みそうで、彼は上を向く。少しも隠れていない太陽は輪郭も暈かして、空にある。


「暑いな、」


 無駄に夏だと、そう思った。





 マキシ丈のスカートは風を孕まなくともふんわり揺れている。プリントといいカラーといい、すっかり上から下までシノワズリだ。彼の欲目を多分に引いて、三津は立っていた。

 本当に無駄に夏で、


『早起きして迎えに来てね。』


 の言葉通りにすれば良かった。ちらりと思う。

 燦としている夏の日差しがアスファルトの真上を揺らがせて、彼女の足元はちょうど逃げ水になっていた。


「おはよう。」


「おう。」


 どんな返事だろうか。近づいて真正面に立って、幻ではない固体を利人は眺めた。


「行きたいとこある?」


--血の匂いだ、


 騒ついた。

 他者であれば疎ましいだけの金属と生物の間の匂いであるが。


「血か、」


「地下?」


 水気を連想させる三津のような花と、彼女の血の匂い。他社と彼女では違う。臭気と香気の差だ。枠を別に設けている彼女からの血臭は、制御の困難なほど急激に利人を充血させた。予想外の彼女の仕掛けに、あっさりと嵌ったことは失点ではない。


「まあ、地下でも良い。」


 故に開き直りでもない、と彼は直情さを簡単に受け入れる。快楽に準じた易い心の動きだ。


 ひた、


 掴み取った手首は時計の上からでもか細い。知識に誤りはないのに、それがじんわりと喜ばしい。

 笑ってしまいそうな利人の指の下で、秒針が規則正しく脈打っていた。彼の感じる一秒はもっとずっと早くて、もっとずっと、


--惜しい、


「行くか。」


「どこに、」


「どこかだな。」


 彼が薄く笑うと、


「--っ、」


 彼女は漠然と拘束された。勝敗の別れ目は常に、とても些細である。

 三津の文句は縺れたまま、朝から、炎天下、引かれていく。どこかへ。


意味は愛咬の方で。

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