20.hickey
朝から出かけようか、なんて言ってしまった。ついつい口が滑ってしまった。冗談へ変換させようと狙っていたタイミングは、
「ほんと?」
彼女が笑んだその時に、逃してしまった。
「早起きして迎えに来てね。」
なんて言われてしまえば、頷くより他は無いのだった。
--全く。
朝から無駄なほどに晴れている、と利人は眉を寄せた。あの時、三津に負けなければ、もう少し緩んだ頃に待ち合わせていた筈である。
こうして歩いているだけで、幾人もの人間とすれ違った。どれくらいの確率かなんて気にしてはいないが、まあ凡そ半分は女である。
この日差しにこの暑さ。皆一様に汗を光らせているのは仕方がないとしても。
--生臭い、
もとより汗は血漿に近い。鉄のような臭いを彼が感じたって、まあ当然と言えた。そもそも嗅覚にまで文句をつける道理もない。
しかし彼の脳は男と女の差まで、随分勝手に見出していた。
--女の方が生臭いな、
如何にも「汗臭い」男とは、何かが違う。
香水。オードトワレ。オーデコロン。濃度の違う香り立つ水と混ざり合う。
時間。温度。体臭。それらで変化するから同じものは一つもない。
彼にとってそんな細かなことはどうでも良く、唯何故か、
--いつからだ、
呼吸についてまわるそれらに、我慢の利かない瞬間がとても増えた。
溜め息をつこうにも、前を歩く知らない誰かの匂いの分子を吸い込みそうで、彼は上を向く。少しも隠れていない太陽は輪郭も暈かして、空にある。
「暑いな、」
無駄に夏だと、そう思った。
マキシ丈のスカートは風を孕まなくともふんわり揺れている。プリントといいカラーといい、すっかり上から下までシノワズリだ。彼の欲目を多分に引いて、三津は立っていた。
本当に無駄に夏で、
『早起きして迎えに来てね。』
の言葉通りにすれば良かった。ちらりと思う。
燦としている夏の日差しがアスファルトの真上を揺らがせて、彼女の足元はちょうど逃げ水になっていた。
「おはよう。」
「おう。」
どんな返事だろうか。近づいて真正面に立って、幻ではない固体を利人は眺めた。
「行きたいとこある?」
--血の匂いだ、
騒ついた。
他者であれば疎ましいだけの金属と生物の間の匂いであるが。
「血か、」
「地下?」
水気を連想させる三津のような花と、彼女の血の匂い。他社と彼女では違う。臭気と香気の差だ。枠を別に設けている彼女からの血臭は、制御の困難なほど急激に利人を充血させた。予想外の彼女の仕掛けに、あっさりと嵌ったことは失点ではない。
「まあ、地下でも良い。」
故に開き直りでもない、と彼は直情さを簡単に受け入れる。快楽に準じた易い心の動きだ。
ひた、
掴み取った手首は時計の上からでもか細い。知識に誤りはないのに、それがじんわりと喜ばしい。
笑ってしまいそうな利人の指の下で、秒針が規則正しく脈打っていた。彼の感じる一秒はもっとずっと早くて、もっとずっと、
--惜しい、
「行くか。」
「どこに、」
「どこかだな。」
彼が薄く笑うと、
「--っ、」
彼女は漠然と拘束された。勝敗の別れ目は常に、とても些細である。
三津の文句は縺れたまま、朝から、炎天下、引かれていく。どこかへ。
意味は愛咬の方で。




