2.色めいた扉
やっぱり雨が降っていた、と利人は落ちてくる水滴を見上げておもう。
ざあざあと降り注ぐ雨に難儀していた。現れたのは凶相を怖がる風でもなく見上げる女で、だから不意をつかれたのだと、今なら思う。
『入れてくれないか?』
今まで生きてきて、一度しか口にしたことが無い。
柔らかに伸びた背筋は、尾羽のようにしゃんとしていた。目だけで捉えているのは矜持からに、他ならない。顔全体を向けてしまったなら、そこは勝者の位置ではないのだ。具体的な理由が言葉では欠片も現れていないけれども、百戦した彼の本能がそう告げていた。
「天気予報、夜は100%だったのに、」
眇めるようにして、三津は笑んだ。
見えるのはこれで二度目であるが、前回よりずっと機嫌が良いようだ。ふわふわとした足取りで歩いているから、いつかまろぶのではないかと実は気が気ではない。幸いな事に、面の皮だけは必要以上に厚いので、彼女は欠片も気付いちゃいないけれど。
--おかしい。
利人と彼女の身体の丁度真ん中で、傘を握る手指。
斜めに切りあがるような頤のライン。真っ直ぐな首だとか、白玉みたいな耳朶だとか。雨で薄く伸ばしたような闇に仄白く浮かんでいる部位は、取り立てて目新しいものでは決して無い。
--おかしい。
ひとつびとつが筋肉の動きを見せる度に、纏まりの付かない、非常に据わりの悪い心持になるのだ。
明らかに、平素の彼の状態とは異なる。彼女を希薄な存在に出来ない。
「大概手ぶらだ。」
彼は彼自身を欺く最後の抵抗を試みた、が、しかし。
「……本当、」
目縁を真円にして驚いた彼女が、一瞬の後にそりゃあ賢しげに笑んだから、
「--っ、」
逆巻く騒つきは、牙城を打ち砕いた。微塵になった、嘗て強固だった一枚壁がおもいの他甘ったるい。彼が久しく舌に乗せていない味である。
彼女の傘の外に広がる雨足の強い外界に視線を投げてみた。水気で歪んだネオンでも見れば、世知辛い現実によって多少なりとも客観的に見ることが出来よう。
降りしきる水の酸度が高いとか、排水溝から溢れるのは生活排水であるとか、野良の生き物がビルの陰に蹲っているとか。
決して良い町ではない証ならば事欠かない。
--しかし、けれども、
彼の二度目の逃走も失敗に終わった。
傘を支えていない左の手指。柔らかく曲げた間接で、三津はピアスに触れる様を。
利人は見ていた。外そうとしていた視線はもとより、顔を、首ごと向けて。
傾げられた小首。伏せられた睫毛。小指の爪にぽちんと乗った雨粒。耳朶に触れるだけなのに、無駄に上品な仕草。
そうして、酷く狼狽した。
「濡れて、」
「平気よ。」
考えてみるでもない。利人の上体は殆んど濡れていない。彼女が支えていた、薄いセロファンのような傘の庇護下に在ったからだ。
「あたし、ここだから。」
彼らの背後を指して、彼女は言った。
「だから、傘、」
持って行って。
囁く音量。ことり、と、傾げられた首元。
それから名前も知らない水の匂いによって、ばらばらと勢いを増す雨と音を立てる傘が、現実から乖離していく。だってどうしたって、前者に比べれば些事なのだ。
--この女の、
匂いを誰かが吸い込むことが有るのか。唯一点によって、退化した尾骨の辺りに熱が蟠る。
許せる事態ではない。
「借りていくよ。有り難く。」
ほんのり発光するような手指から木製の柄を受け取る。
「どうぞ。」
「明日、今日会ったところで、」
返す。
「明日?」
「その時に聞く。」
「聞く?」
何を。
雨より瑞々しい口唇が、緩く問いかける。
「俺は手を繋ぎたい。」
「手?」
え?
「口を付けたい。」
「口?」
え?
「お前の匂いを嗅ぎたい。」
「……え?」
あの、
「何がなにやら、もう、」
「痛い。」
「……は?」
「明日だ、蜜。」
彼女を覗き込んで笑う。
「触るのは、明日だ。」
気が付くのはいつだろうか。彼女はきっと呆けたまま、利人に会う。そうして付け入るのだ。
く、
彼は更に小賢しく笑って見せるも、
「利人?」
呼ばわれて。
--畜生、
「明日、だ。」
無理に立ち去った。三度目の正直。漸うの逃走である。
--いくらなんでも、
「駄目だろう。」
情けなくも。反射で生きている証明を、口説いている最中に。
--そりゃあ、
「駄目だな。」
--疼え、
痺れる身体を、
「は、」
とにかく彼は笑うのだった。一夜を乗り切る手段として。
「利人?」
あの時の傘は壊れてしまった。代わりに、まるでマーキングみたいに彼はやたらと高い傘を贈った。
「利人って結構雨男よね。」
「その傘、」
「酷使に耐えてくれてるわ。」
流石ね。
「流石だろ?」
あの日、彼が選んだだけのことはある。
「は、」
あの日乗り越えた一夜のように、利人は笑った。
とんだ変態になってしまった。