16.silver clip
夜を歩くのは珍しいことではないけれど、長閑さが先にたつ小道となれば話は別だ。カウントを目減りさせて、記憶を遡る。
--兎に角、
珍しい事態だと、三津は右手をちらと見た。
--手なんか繋いじゃってるしね。
こういった距離の近しいときは、空を見上げるに限る。自らに掲げた方針に逆らうことなく、彼女は顎を上げた。
「ぉぉ、」
藍色の夜空が黒色の葉陰で、ぎざざぎざに噛み獲られていた。人から遠い歯型は、手を引く男の無駄に鋭い犬歯を思い出させる。首筋に蘇った鋭い痛みが、彼女の目蓋をぱたんと降ろした。
「三津、」
利人の低い声音は、鼓膜をじんとさせた。野暮ったい翅音のこそばゆさだ。
目蓋裏で斑になっている、赤や白や黄色や青のざらざらした点滅を認識しながら、けれど彼女は、嗅覚の刺激に対して素早く、かつ重要そうに反応した。
「蜜柑の匂いがするの。」
「季節じゃないだろ。」
「蜜柑の木、だからでしょ。」
だから嫌よ。
「何で。」
「引っ付いたら、利人の匂いしかしなくなるじゃない。」
「……蜜、」
不穏な音域だったから、彼女は慌てて目蓋を跳ね上げた。
「わっ、」
真正面、大分近い位置に、色素の薄い虹彩の波型。後ろに飛びのく暇も与えられず、鋭く尖った犬歯のエナメル質の感触を、上下下上上下の順番で感じるのと殆んど同時に、
--ほら!
三津の嗅覚は、彼の皮膚の匂いを捉えた。そうして、
--やっぱり。
今までの統計通りに絆されて、流されて、溺れる様に息も絶え絶え。
「目ぇ、瞑るな。転ぶぞ。」
「見えてるの?」
「お前よりはな。」
相変わらず、人であることが疑わしい男だ。
「地面にぶっつく前に、」
助けてくれるから、
「このまんまでいい。」
「他力本願だな、おい。」
「助けてくれないの?」
「……抱き上げて歩くぞ。」
「嫌よ。」