12.誘蛾灯
発端がどうであったのかと言えば、それは不可抗力としか言いようがない。
三津は優しくされてしまう女だった。儚いわけでは決してない。むしろ勇ましい。利人だとて、彼女に完全に勝利したと言い切れるような場面に巡り会ったことが終ぞ無い。
唯、時折。誰と言う特定は無く、優しくされる。頻繁であれば、もう少し心易いだろう。
そうではなくて、時折。
明らかに派手派手しい、声掛けに慣れた男であったら話は簡単であったろう。
そうではなくて、
--おいおい、
拳を握って人を殴ったことなど一度も無いような。
--まぁた、善良そうな、
彼らが彼女の何に惹かれてしまうのか、分かるようで分からない。三津本人してみれば、それこそ言いがかりである。
利人への色目と言うのは三津へのものとは種類が異なる。明らかに。秋波には正直に煩わしげに対応しているが、三津が傍らにいれば8000倍は疎ましそうにしている、と木内は統計を取っていた。
それこそ、意趣返しにしか使い道が無いとでも思ったのだろうか。
--安直だろう。
いくらなんでも。
木内の左手から二人分離れただけの、同じベンチに腰掛けた彼女に見えるように。
腰やら肩やら。
小学生の徒競走ほど離れて別の女の秋波を受けて見せているのが、件の利人である。
--へえ。
ぴちっと目線が合った瞬間に、三津はぷちんと頬を張らせた。非常に甘い上に端的過ぎて如何なものかと言われようが、
--かわいいとか何とか、
表情を幾許か変えた利人はそう思っているに違いないのだ。
--莫迦だな。
彼は忘れているのだろう。彼女が勇ましいことを。
ずり、
ず、
彼女は利人から視線をつんと離すと、ベンチ上の距離の二人分を半人分までに距離を縮め、
つうっと、音がするように顎を上げて、木内を見上げた。
ぉぃ、
遠くで黒ずくめの男の口が、そう動くのを認めた。
つうぅぅ、
我関せず他でやってくれ巻き込まれたくない、心中絶叫の木内に三津は尚も顔を寄せる。非常に近い。尋常じゃない。
--よけるか?
否。
人のものであることと、かわいい娘さんであることと、向こうからのアクションであることはあまり関係しない。
ちぅ、
一旦離れて。
ち、
ち、
計三回。
「三津!」
あろうことか、意趣返しへカウンターを強烈に頂いてしまった男は、明らかに横に何かがいたということは意識の外で、彼は外灯の間を抜けて向かってくる。
途中で酔っ払いを地面に撃沈しているのはご愛嬌だ。
「木内、」
「俺か。」
矛先は。
グラスやらフードやらで非常にいかがわしい男の露な口唇に、見慣れた紅の色が三つ認めて、利人は頬を引きつらせるように左の口角を上げた。
口唇に。そう、口唇に。三つ。
「三津、」
「なぁに。」
にやぁと小賢しく笑う彼女は、今なお利人の目前で違う男の手をとって頬に当てている始末だ。
--どう出る、
見世物だ。余興ののりである。ほんの五秒の沈黙は、やおら立ち上がった彼女によって破られた。
「きうちさん、」
音と同じ速度で傍寄って、
ふっと、触れたと思ったら、
--吸われた、
言い換えれば。
--奪われた?
「木内っ、」
だから、
「俺なのか?」
矛先は。
「当たり前だ。」
--殴られるか?
「……他でやってくれよ、」
「いいえ。今日は打ち止めなので。」
帰るわ。
「三津、」
気分良さげに立ち上がった彼女は、謀ったみたいにふらっと揺らいで、
「ありがとう。」
「……どういたしまして。」
順当に木内に横抱きにされた。
「……おい、」
彼女は優しくされてしまう女だった。彼の目前で、多々。これこそ言いがかりである。
やきもち焼き。