11.蒸発熱と融和熱の和に等しい。
ビニール傘だなんて、と三津は膨れた。折角の約束だというのに、気に入りの小物を使えないことが腹立たしい。空を見上げる。夜の暗闇に会っても曇天は曇天だ。分厚い雲はなんとも濃い灰色をしていた。
彼のことだから、とスニーカーにしておいて正解だった。ゴムのつま先で、すっかり出来上がってしまった水溜りの表面を叩く。
「濡れるぞ。」
「とっくです。」
--傘の似合わない男。
一見して思った。どこまでも黒っぽい出で立ちの男に対峙している彼女の装備は、裾の重たくなったジーンズと張り付いて気持ちの悪いシャツである。利人は心持眉根を寄せた。寒々しいとでも思っているに違いない。
「遅いよ。」
言いがかりである。
--遅くない。
時間通りだ。
自分はこんなに甘ったるい女だったのかと、三津は溜息をついた。
「寒いか、」
--やっぱり。
溜息と濡れた衣類に彼は騙されている。だって季節は夏に等しいのに。
「あー、違う、ちがくて。」
濡れそぼったビニール越しに見る彼は、水母のように暈けて見えた。
「三津、」
ばさ、と掛けられる上等な上着。
「うわぁ、」
身長差が二十センチは優にある男物だ。がちがちに硬い筋肉を有する彼のそれは、三津にしてみれば途方も無く大きい。
「利人も甘い男だったんだねぇ。」
水の隔たりが急速に縮まったことが嬉しくて、彼女は軽口を叩いた。
「喧嘩売ってるのか。」
「も、って、」
言ったでしょ。
笑みが漏れる。
「ね、ね、」
甘いついでにさ、
「相合傘しよう。」
素晴らしく似つかわしくない男は、極々軽く頷いた。
「同伴出勤か。」
「見せてくれるんでしょう。」
怖い夜。
「勝ってよね。」
彼相手でなければ、三津はきっと口にしなかった。
「望むところだ。」
不遜に肯く逞しい首。彼女の持つ両の手指でだって回りきるのにかつかつの、力強い腕。それを軽く叩いて、彼女は笑んだ。
--多分、
三津が彼に明け渡すように無責任に笑って見せることが、
--理由?否。
重要?否。
唯、求められていることだけは間違いない。雨が微かに前髪を揺らした。腕を暖めるように手の平でくるむ。
--利人を生かす熱になれば良いのに。
三津は滴から彼を庇って、こっそりと笑んだ。隔たりの水のため、昇華に必要な熱を与えるために。
こっそりと。