1.MIEL&CITRON
「なんでって、聞かなくても分かるけど。」
うふふ、
そう笑って千誉は三津を見た。目元の緩みは、全てお見通しだといっているようで、少しばかりいたたまれない。
「あたしの時、何でって聞かなかったでしょ?三津は。」
「……聞かなくても分かっちゃったから。」
歳で言えば3つほど離れている姉は、ほうらね、と、ストローを噛んだ。
姉と自分では、両親の対応が違う。けれど、千誉が愛情を知らずに育ったはずがないのだ。母などが顕著に嫌う水芝の家の百魚などは言葉を濁すけれども、三津は姉の宝物を知っていた。
白いアルバム。
彼女が家を出るまで、三津はその存在を知らなかった。姉妹揃って家をでて、やっと一息ついたときに教えてもらったのだ。
ぱきぱきと、古びた紙ならではの音を立てて開かれたページには、幸福の絵があった。
自分の知らない、真砂千誉。
家では見たことのない、幼い姿。
--ああ、そうか、
その時やっと得心が行った。何故家にはひとつも千誉の成長記録がないのかを。
--このひとに、
『10さい トキさんと』
拙い文字で書かれた注釈に、涙が溢れた。姉は世界中の誰よりも幸福だったのだと。百魚にそうなのだろうと詰め寄ったらば、あのマッドサイエンティストは渋い顔で頷いた。
三津は鴇という男が羨ましくてたまらなくなった。誰かを一途に思うことの重さを姉に教えた人間は、柔和な表情とは裏腹に、とてつもなく勘の鋭く、くせの強いひとだった。そして姉がいなければ身も世もなかったひとでもあった。だから先に逝ったのだろうと、三津は思う。残される千誉の事など何も考えず、唯唯、二人で幸福でありたかったと、それだけを望んだのだと思わせた。
身も世もない。
そんな風に、自分は彼に愛されているだろうか。
答えは否である。
「姉さんは、鴇さんじゃなくても幸せ?」
「トキさんの幸せと、柊一郎さんの幸せは、」
違うの。
からん、
氷が解ける。グラスをしたつる水滴が、姉の思い出のひとつびとつのようで、胸が痛い。
「百魚も別の意味でトキさんの次に好き。」
「別の意味?」
「二人とも、似てるでしょ?」
トキさんに。
「百魚は分かるけど、あのこが?」
「似てるんだもの。」
ふく、と頬を膨らました彼女は、血のつながりの贔屓目を抜きにしても、大層愛らしかった。きっと水芝鴇が植えつけた苗が、成長したものなのだろう。
--ああ、あのこは、
あのこは苗床ごと好きなのだ。千誉が。成長して花開き実を結んで、そしてまた芽吹いた千誉が好きなのだ。
妹として、ありがたいのと同時に、鴇同様、柊一郎さえ羨ましくなった。
何しろ姉は一途である。懸命である。
「あたし、三津も大好きよ。」
濁りのない笑顔に、自分も浄化されるから。どうしても、三津は千誉の傍に居たい。誰とどうとなろうとも、千誉は自分と切れない縁があるのだと、言いふらしたくてたまらない。
「そう、三津も好きだから、まあ、あの男でも我慢してあげる。」
少しばかり不服そうに、ガラガラと氷とアイスティーを混ぜ合わせる。
「……姉さん、ヤキモチ?」
「うん。」
だって、
「三津は、あたしの妹なのに。」
自分は絶対の幸福の恋愛をしているわけではない。むしろ、千誉のような恋愛が稀なのだ。
「姉さん、」
「なぁに?」
「あたし、最後は姉さんに泣き付くと思うわ。」
だって、多分、彼は、最低だ。
自分を好きなくせに、すぐに夜に溶けようとする。
だから、
「あたしには多分、姉さんしか残ってない気がするの。」
最後の最後には。
「良いよ。」
笑んで、千誉は三津の髪を撫でた。
「三津は思い切りぶつかって来れば良いよ。」
好き、の塊をもって。
「それが毀れたら、あたしがアイツを泣かすから。」
あの頑健な男をどうしたら泣かせることが出来るのか。こうなっては、悩むところはそこだけだ。なんといっても、落ちた先には姉というクッションが有る。三津が毀れる事なんてありえない。
「うん、そうする。」
良く似ている、と言われる面差しで、三津は姉に髪を梳かれる感触を味わった。