ある男の罪
裁判等についてはあやふやなので心を広くもってお読みください。
1
とある男の裁判が開かれるにあたって、斉島里香という女性弁護士が弁護人として起用された。
里香は男の待つ拘置所の前に立ち、深いため息を吐いた。
「どうして私がこんな事件を……」
里香が担当する事件は傷害事件だ。金融関係の四十代の男が、五十代の男が刃渡り十数センチの果物ナイフで刺されたという。四十代の男は命に別状はなかったものの、腹部に全治二か月の傷を負った。
被告の男には被害者が運営する金融会社に借金があったという。その返済に困っていて、期限を延ばすように男の頼んだのを断られたことに腹を立て、その場にあった果物ナイフで刺したと供述している。
検察の主張もほとんど変わらず、世間の注目度は低かった。
(裁判で被告人が無罪を主張してくれれば、少しはやりがいのある裁判になるのに)
事件の概要を調べた手帳を見て、里香はがっくりとした。こんな単純な弁護をするために、死にそうになりながら勉強し、弁護士になったわけじゃないのよーー!と被告に言ってやりたい気分だ。
彼女は面会室でこの事件にあたった不幸を呪った。弱い者の味方になるために弁護士になったはずなのに。
どれほど恨み言を言っても何も変わらないのは司法試験に落ちた時に知っている。彼女は来るであろう借金を重ねるダメダメおじさんを待つことにした。
やはり弁護したくないらしい。
2
里香の前に現れた容疑者はどこか疲れたような、何か芯が抜けたような老人だった。
いや、この男は老人ではない。彼女の記録では男は五二歳。しかし、それにしてはこの男は老い過ぎている。どう見ても六十代後半の顔をしていた。
しかし、彼女の仕事には関係のないことだった。
「はじめまして。私は斉島里香。あなたの事件を担当することになった弁護士です」
どうも、と男は短く返した。
おやっ、と里香は思う。彼女の経験では、女性の弁護士が担当になったときの反応は悪いものばかりだった。こんな女が本当に弁護できるのか、弁護士を変えろと怒鳴られたこともある。
正直こんな反応が返ってくるとは思ていなかった。
それから事件についての簡単な話をした。具体的には裁判での主張、裁判の前例からどれほどの刑が適切かなど基本的なことだ。
それで一日目の面会は終わった。
3
次の面会日まで2,3日日が空く。里香にはこの間に調べておくことがあった。
それは男の情報を手に入れることだ。近所の評判、金銭面での問題、職場での評判などだ。場合によっては証人として法廷に来てもらうように頼まなければならない。これは今回やるべきことではないので優先順位は低いことだ。
それが、
4
「あなたはどんなことをやってきたんですか?」
二度目の面会日、里香は男が席に着くなりだしぬけに聞いた。
男は困ったように俯く。
「話を聞いた人のほとんどが『何かできることはないか?』って聞いてきましたよ。おかげさまで必要な証人がこんなに早く集まりました」
とげとげしく里香は言う。
男はうれしそうでいてつらそうな複雑な笑みを浮かべた。何だそれは、どっちかにしてくださいと里香は口の中で言った。彼女にとっては男を慕う人が多くいたのことは気に入らないことだったらしい。
(そもそもこの男は借金に困って罪を犯すような最低野郎なのに。……どうしてあんなにこの男のことを心配する人がいるのよ)
里香が男の家の近所に聞き込みをしていた時、誰もがこの男を心配した。女性というだけで疎まれたことがある弁護士の里香にとっては腹立たしいことだった。真っ当に生きて弱い人を助けるために弁護士になった自分よりも、借金をして罪を犯した人間の方が人に思われるとはどういうことなのだ。
しかしよく調べるとこの事件はおかしいことだらけだった。
まず男の金銭事情だが、この男には借金をする必要性がなかった。
男は無職ではあったが貯蓄が多かった。その理由は男の実家が裕福だったことにあるらしい。
男はいくつかの土地を持っていて、それを大手の企業に貸しているという。その企業は近年不況の中でも急成長した稀有な企業だ。その土地の使用料をもらい、男は実質働かなくても余生を過ごせるという。
そんな恵まれた環境でなぜ借金をする必要があるのか。これは検察も困っている問題らしい。
何せ動機である借金をする必要がないはずなのだ。男が相当な奇人とでも言わなければ説明のしようがないことだ。さらに男はその理由については黙秘しているため、検察はこの件は特に問題にしないようだ。
里香が訊ねても男は話せないと語るため、当分の間彼女も気にしないことにした。
5
近所の人たちの男に対する評価は異様といってもいいほどの結果だった。話を聞いた多くの人が証人になると申し出たことからも分かるかもしれないが(その大半は有効な証言ができない人だった)、彼らの評価は高かった。皆、男を助けたいがために里香に申し出ていた。中には過剰なもてなしをして、男の刑を軽くしてくれと頼む者もいたくらいだ。
それぞれが男に恩があったり、日ごろから世話になっていたりしたと熱心に話してくれた。
『男が騒音を出す家に周辺住民の代表として話してくれた』や、『商店街にたむろする不良少年たちを改心させた』などそのエピソードは挙げれば限がなかった。
だが、それで罪は軽くならない。情状酌量の対象にはなりそうにない話がほとんどだったのだ。
(これじゃ、刑の軽減は望めない。もっと事件の核心に関係する人の話を聞きたいわね)
先日の近所の住民の話が変えたものは、男への里香の評価だった。
彼はまれにみる善人だ。
これが今の里香の評価だった。
被害者の金融関係の男との面会が許された。里香は早速被害者の元へと訪れた。
「あのじいさんはそんなに借金してなかったんだ」
白い病院の個室を借り切った男はやれやれと首を振る。
「それなのにどうしてあんなことをしたのかね~。別に滞納さえしなければすぐに返せる金額だったはずなのにな」
心底理解できないといった表情で被害者の男はベッドに横たわり、一言だけ呟いた。
「怖い世の中になったね。もう足を洗おうかな……」
被害者との接触は里香をさらなる混乱に陥れた。
やはり男は借金をする理由がないのだ。その気になれば利子もまとめて返すことだってできたのずなのだ。どうしてそんな男が借金をするのか。分からないことは増える一方だった。
裁判の初公判まで一カ月を切った日、里香が所属する法律事務所にとある大企業の社長から直々に連絡があった。里香に話したいことがあるということだった。
急ぎその企業を訪れた里香は社長室で待たされることになった。
接待用のソファーに座り社長を待っていると、高級そうな額縁入れられた写真が壁に飾られていることに気がついた。
写真には三人の男性が肩を組んで写っている。真ん中の一人はおよそ三十代の男性で、両端の二人は二十代前半の男だ。左の男は少し太っていて、右の男は鋭い鷲鼻が特徴的だった。真ん中の男性に見覚えがあるような気がして、里香は壁際に近づいてじっと写真を見た。
「それはこの会社を立ち上げた時の写真だよ」
突然の声は社長室の入口から聞こえた。里香が振り向くとそこには鉤爪のように先端の曲がった鷲鼻の四十代の男性が立っていた。
その男こそ、不景気の中この会社を日本有数の大企業にの仕上げた社長だった。
「真ん中の人が高校時代の恩師。向かって右が私、左が唯一無二の親友だよ」
社長は写真の人物を紹介した後、里香に頭を下げた。
「その恩師とはあなたが担当する事件の被疑者です。私はあの人を助けたい」
「よしてください。あなたが頭を下げたところで、彼の罪が軽くなるわけではありません」
その社長は男が教師をしていたころの教え子だという。
男が教師をしていたというのにも驚いたが、それ以上にこの社長が男のために必死に話すことの方が驚きだった。それほどの恩が彼にはあるのだろうか。
「あの人がどれだけいいことをして、どれだけの人を助けて、笑顔にしてきたか知ってもらいたいんです」
社長は熱心にそう語った。
「…でも、それが彼の罪を帳消しにすることはありませんよ」
そういうと社長は悔しそうに顔を伏せた。
こんなことしか言えない自分に里香は耐え難い憤りを覚えた。
「あんなにいい人がどうして……」
社長の言葉はガラス片のような鋭さを持っていた。
彼は善人だ。
どうしようもない善人。救いようのない善人。自分の利益を考えない善人だ。
どうにかして救えないだろうか。
里香はそこまで考えて、ふと気付く。
そんな善人が人を傷つけるだろうか?
面会室は暗い。
拘置所の中で唯一外とつながる場所だというのに、こんなに暗いのはどういうわけだと里香は思う。
再三男に借金の理由を聞いているのだが、彼はそのことに関してだけは全く語ってくれなかった。社長がそのことを話してほしいと彼に会って話したらしいが、それでも話さなかったようだ。同じように近所の住民や、彼の教え子が次々に面会していたが、決してそのことだけは語らなかった。
そんなことをしているうちに、裁判まで二週間と迫ったある日、
里香の事務所を一人の男が訪ねた。
里香が直接対応したその男は、あの社長部屋にあった写真の左側にいた男だった。
最初にその姿を見たときに里香はその事実に気付けなかった。
男は写真に写っていたころに比べて劇的に痩せていてたのだ。
「私はあの社長と一緒に会社を起こしました。彼の才覚はとても優れたもので、あっという間に会社を大きくしたのです」
男は細々とした声で語り始めた。
「私も彼の会社でそれなりに働いていたのですがね。彼と違って私は凡人です。すぐに彼の理想通りの仕事ができなくなりました。それに彼が苛立っていたのは薄々わかっていたんです。だから私は会社を辞めました。それで、新しい会社を立ち上げたのですよ。でも、凡人の私には荷が重すぎたのです。
借金を重ねてまで会社を存続させようと努力しました。まあ、結局倒産して私のもとには借金だけが残ったのですが」
その借金をした会社が今回の事件の被害者が運営する小さな貸金業者だった。
「私は先生に相談しました。あの人には会社の設立の時から力を貸していてもらっていたんです。先生は私に金を貸してくれました。ですが、そんな微々たる金額では私の借金はとても返せませんでした。先生はそれを見越していたのでしょう。あの業者から借金をして私の返済を手伝ってくれました」
それが借金の理由。しかし、あの人ならそんなことだけで人を刺したりしない。その気になれば返せるほどの金額だと、被害者も言っていた。
「あの人はそれが原因で事件を起こしたのだと思いますか?」
「いいえ」
それまでのか細い声とは打って変わった大きな声で、男ははっきりと否定した。
「あの業者が闇金まがいのことをやっていたんですよ。ひどい取り立てに、法外な利息を付けて、私みたいな貧乏人に金を貸していたんです。返済を手伝う内にあの人はそのことに気づいたんだと思います」
その男はそれ以上はわかりませんと語った。
これだけ情報がそろえば十分だと里香は思った。
6
面会室にて里香と罪を起こした男は向き合っていた。
ひどい話だ。
彼の見方であるはずの弁護人が、彼の必死で隠そうと、守ろうとしたことを暴くのだから。
「あなたが隠そうとしている動機ですが、実は先ほど✕✕さんという方が私の事務所に来てくださいました」
疲れた表情をしていた男がほんの一瞬、それを硬くした。
「彼は被害者の金融会社に借金をしていました。その返済をあなたに手伝っていただいたと話されていました」
ガラス越しの男の姿は小さく、弱い。
「あなたはあの会社の実態を、闇金のような弱いものから搾取していることに気がついたのですね?」
どれほど問いかけても男は黙ったままだ。
「そしてそれをどうにかできないかと考えました」
里香の気分は犯罪者を追い詰める刑事のようだった。
たぶん酔っているのだろうなと彼女は自分を冷静に見つめていた。弱いものを追い詰めていくのは気分がいいものだ。
「被害者はとても気の弱い人です。何せあなたに刺されて以来、足を洗うことだけを考えていたようですし。あなたは彼がそんな人間だと見抜いたんですよね。自分が彼を刺せば、もう✕✕さんのように苦しむ人がいなくなると。自分さえ汚れればみんなが幸せになると。被害者さえも」
被害者は気の小さい男だ。ゆえにいずれ闇金まがいのことはできなくなったはずだ。そんなことをしていれば、罪悪感で被害者は押しつぶされていただろう。被害者は平気で人を傷つけられるような悪人ではなかったのだから。
「被害者は今まで行っていた高額な利子の取り立てを止めたようです。現在も彼に借金をしている人のもとにも期限を延ばすという旨の連絡があったようです。またあなたのような人が自分を刺しに来るかもしれないとおびえているようでした」
これがハッピーエンド。男以外のすべての人物が幸せになるチャンスを得た。少なくともすぐに不幸にはならないはずだ。この結末はいずれ関係者すべてに幸運と思われるだろう。
「全てあなたの思惑どおりですよ」
里香は恨みのような感情を込めた視線を男に送る。
「……いえ、あなたに気づかれるとは思っていませんでした」
男は語り始める。
「どうして自分のことを後回しで考えられるんですか。あなたが幸せになる結末だってあったはずです」
「少なくとも私には思いつきませんでした。それに、私はわからないんですよ」
じっと、弱々しい眼光を里香に向け、
「どうして自分の利益を一番に考えられるのか」
「どうしてって……」
それが人間である。なんだかんだ言っても自分の身が大切であるはずなのだ。
この男は狂っている。
自分が大切だと思っていないのだ。人間として、生物として致命的な欠陥だと里香は震えながら思った。
「あなたがこのことを全て話せば裁判で有利になるかもしれません。うまくいけば刑を減らすことだって……」
「それで私の罪が消えるわけではないでしょう?」
「ツッ!」
今まで里香が言ったその言葉が、男の口から放たれる。
「ならばそれは無意味なことです。私が刺したあの方が少し不幸になるだけですよ」
なんて、
なんて残酷な善人なのだろう。
自分を助けてほしいと言った人の気も知らないで。
自分が不幸になると悲しむ人がいると気付かないで。
この男は自分が刺した男の不幸を嫌う。
腹立たしかった。
弱々しく笑うこの男が。
いや、こんな男が生きている世界が。
考えてみたらそうだ。
五十代の男性であるはずのこの男が、どうしてこんなに老いて見えるのか。
それはきっと生きていくのが辛かったからだ。
この優しい男にこの世界で生きていくのは辛すぎる。
そんなことないと里香は信じたかった。
優しい男がただ苦しむだけの世界に自分が生きていると考えたくもなかった。
だから見せてやろう。
そう、恨み言で世界は変えられないのなら、
「あなたが生きているこの世界はもっと優しいものだと教えてあげますよ」
優しすぎる善人のために、
それだけのためにたくさんの人が立ち上がってくれるはずだ。
里香はそう確信して、携帯を取り出し、頼んでもいないのにくれた連絡先の番号を押し始めた。