知識
大学病院の呼吸器科の教授である男の口癖は「知識は絶対である。知識なき者は去れ」である。今日も学生に向かって、「何事も知識を持って、それを基に判断するんだ。知識がすべてだ」と甲高い声で言っていた。
そんなある日、男は乾いた咳が、続くのが気になり、教え子の病院で検査を受けた。結果を聞くために、教え子の前に座ったが、教え子は何も話さない。
「どうしたんだ。悪いのか? 気にせず言ってくれ」男は身体を前に乗り出した。
「分かりました。先生には隠せないと思いますので、はっきりと言います。肺がんです。かなり悪いと思います」
「やはり、そういうことか。自覚症状からそうだろうとは思っていたさ」男は無理やり笑った。
教え子は黙って頷いた。
「その写真を見せてくれ」男は写真を受け取り、蛍光灯に当てた。「こんなに進んでいるのか。確かに末期だ。君の判断は正しい。これだと手術も無理だな、抗がん剤が効いても、長くてあと半年だな」男は気丈に振舞った。
「今日から入院してください。明日から治療を始めましょう。希望を持って」教え子は沈んだ空気を払うように、元気よく言った。
「まあ、ここでよろしく頼むよ。頼むと言ってもどうしようもないし、君も困るよな」男は冷静を装い、薄ら笑みを浮かべ、立ち去った。
その日の夜、個室は寂しいからと、男は敢えて二人部屋に入院した。
抗がん剤治療をしても、半年後の自分がはっきりと見えていた。眠れず、笑うこともできない男は、一睡もせず朝を迎えた。
朝日が入る窓際のベッドには、男が最も嫌う、知識のなさそうな若者が微笑んで、こっちを見ていた。
「いつ入院したの?」若者が訊いてきた。
「昨日の夜だ。君は幸せそうに寝ていたよ」
「そう、こちらこそよろしく。しかし、おじさんは見るからに元気がないね。元気を出さないと、病気になるよ、なんちゃって」若者は笑った。
冗談を聞き流すことができる状況ではない、男は思わず声を荒げた。
「私は末期ガンで余命半年なんだ。元気が出るわけないじゃないか」
若者は一瞬、身を引いたが、「それじゃ、俺と一緒じゃん。治るに決まっているよ。抗がん剤と放射線治療も受けているもの」と言って、笑った。
「私は何十年間も呼吸器科の医者をやってきたんだ。ガンの知識はそこらへんの医者より上だ。私は本当に余命半年なんだよ」そう言うと、男は堪え切れずに、枕に顔を埋めた。
「人がそうでも、自分がそうなるとは限らないじゃないか」
「知識は絶対だ。間違いない」男の声は涙声だった。
「言い切ったね。でも、俺は、人とは違うから」若者は胸を張った。
(判断基準は何だ)男は何も応えなかった。
その日の夜も男は眠れずに泣き続けた。
次の朝、担当医が男の所にやって来た。「眠れましたか」
「ああ」男は起き上がらずに、小さな声で言った。
「相変わらず、元気がないね」その様子を見ていた若者が大きな声で言った。「俺もその先生に末期なにがしとか言われたが、考えてみてよ、俺が死ぬわけないじゃん。こんなに元気なんだから」若者はベッドから降りて、何度も飛び跳ねてみせた。
(君は何も知らないからだ)男は若者を横目で睨みつけるだけだった。
男は眠れない日が続いた。若者は、自分の体は少々じゃ、壊れない。病気なんかで死ぬわけはない。今までも何度も事故に遭ったが生き返っている。自分は不死身だと毎日のように見舞い客や看護師に自慢していた。
男は若者の無知さに腹が立っていた。
「何も知らないくせに、バカなことばかり言っている。ただ、自惚れが強いだけの男だ」
男は若者を無視するようになった。
若者は何も気にせず、平気の平左で毎日を過ごした。
「元気で明るいわね。あなたのような患者さんは見たことがないわ。不死身のスーパーマンかもね」看護師が若者をからかった。
「そう、俺はスーパーマンさ。ガンなんか、すぐ消えるさ。死ぬわけはないじゃん。君も俺が死ぬと思うの?」若者は胸を叩き、笑いながら答えた。
三ヶ月が経った。男は日に日に元気がなくなり、ますます涙もろくなっていた。
「また、泣いている。なぜ泣くんだよ」若者が声を掛けた。
「もう、私に話しかけないでくれ。お前を見ていると余りの無知さに腹が立つんだ」男は力なく言った。
「まだ、死んでないじゃん。今は生きているじゃないか。死ぬのが悲しいのなら、死んでから泣けばいいじゃないか」若者は声高に笑った。
「お前は知識がないからだ。毎日、毎日、死に近づいている症状が出てきている」
「どういう症状がでると、そうと言えるのか分からないから分からないよ」
「それを無知と言うんだ」男は思わず怒鳴り、(知識なき者は去れ)と心の中で叫んだ。
男は泣き続け、告知から半年が経った頃には、息が絶え絶えになっていた。
やはり、私の予想どおり、半年だったな。今思うに、知識は絶対ではない。無知でうぬぼれの強い人間の方が力強いこともある、男は若者の方へ向いて、静かに言った。
「少なくともこの半年の生き方は君の方が正解だったな、辛く当たってごめんな、許してくれよ」男の最後の言葉だった。
その後も若者は泰然と日々を過ごし、男の死から一ヵ月後に、「おかしいな」と笑いながら、逝った。
知識は絶対ではありません。邪魔になることもあります。絶望的な知識は生きる力を萎えさせます。知らない方が強く生きられる場合もあります。希望のある知識のみを得るようにしましょう。




