人体への知見を深めていただけなのに、夫が公王になりました
アデライン・ハーコートは、ハーコート公爵家の四女として、かなり奔放に育った。
長兄は公爵家を継ぐ。
次兄は軍務へ進んだ。
三人の姉も、それぞれ嫁ぎ、王都へ出て、神殿へ入った。
四女のアデラインには、家を背負えとも、政略結婚で王家を支えろとも、それほど強く求められなかった。
その結果。
「見たいのでしたら、お近くでどうぞ」
十八歳になったアデラインは、夜会の片隅でそんなことを言う令嬢になっていた。
「……よろしいのですか?」
「ええ。先ほどからずっとこちらをご覧になっているでしょう?」
「それは、その……」
声をかけた若い令息が、逆に困惑する。
アデラインは一歩近づいた。
豊かな金髪。
大きな青い瞳。
女性らしく丸みを帯びた身体。
胸元は礼儀の範囲で開いているだけなのに、なぜか視線を集める。
「遠くからでは見づらいでしょう?」
「いえ、そういうわけでは」
「見たいのでしたら、お近くでどうぞ。減るわけでもありませんし」
「アデライン」
低い声が飛んできた。
アデラインは振り返る。
「まあ、セドリック」
セドリック・エストン。
エストン伯爵家の次男であり、アデラインの婚約者だった。
二十一歳。
背が高く、顔立ちは端正。
穏やかな男だが、最近少々疲れている。
原因の大部分は婚約者だった。
「こちらへ」
「今、この方がわたくしをご覧になっていたので」
「それは見れば分かる」
「でしたら近くで見た方がよろしいかと」
「本人が勧めなくていい」
アデラインは不思議そうに首を傾げた。
若い令息は逃げるように去っていった。
「セドリック。皆様、どうしてあんなに遠くからご覧になるのでしょう?」
「近くで見ると理性に悪いからだろう」
「理性?」
「なんでもない」
「そうですの」
アデラインは胸元を見下ろした。
「胸の柔らかさは評判だそうですのよ」
「……誰の間で?」
「触れたことのある方々の間で?」
「なぜ疑問形なんだ」
「わたくし自身では比較できませんもの」
セドリックは額を押さえた。
「まず、なぜ触らせた」
「きちんと尋ねられましたわ」
「何を」
「触れてもよろしいですか、と」
「それで?」
「触れるくらい、よろしくてよ、と」
セドリックは黙った。
アデラインはその沈黙を、説明が足りないと解釈したらしい。
「ただし」
「まだあるのか」
「触れると揉むは違いますので、お気を付けくださいませ?」
「誰に対する注意なんだ、それは」
「皆様に?」
「頼むから広く周知しないでくれ」
アデラインは、ますます分からないという顔をした。
「それにしても」
嫌な予感がした。
「大きな脂肪の塊の、何がそれほどよろしいのでしょうね?」
「本人がそういう言い方をするな」
「事実ですもの」
「事実なら何でも口にしていいわけではない」
「騎士団で鍛えたら固くなるのかしら?」
「ならない」
「そうなのです?」
「少なくとも、君が想像している意味では」
「まあ。残念ですわ」
本気で残念そうだった。
セドリックは天井を仰いだ。
「臀部もそうですわ」
「続くのか」
「皆様、形がどうとか、丸みがどうとか、ずいぶんご覧になるでしょう?」
「……まあ」
「排泄物しか出ませんのに」
「アデライン」
「事実でしょう?」
少し考えたアデラインが、ぽんと手を打った。
「ああ」
「思い出さなくていい」
「入れられる部分もありましたわね」
「頼む」
セドリックは両手で顔を覆った。
アデラインは心配そうに覗き込む。
「具合がお悪い?」
「君のせいでな」
「まあ」
「頼むから、そういう話を他の男の前でするのは控えてくれ」
「なぜですの?」
「今の君には説明しても、おそらく実感できない」
「知識ならございますけれど」
「知識と実感は違う」
アデラインの目が輝いた。
セドリックは、その輝きを見て失言を悟った。
「まあ」
「結婚したら、ちゃんと教える」
「何を?」
「……君の身体の何が、そんなに目の毒なのか」
「実地で?」
長い沈黙。
「……そうなるな」
「楽しみにしておりますわ」
「だから、その顔で言うな」
婚約は破棄されなかった。
セドリックは疲弊していたが、アデラインを手放そうとは一度も思わなかった。
そして半年後。
二人は予定通り結婚した。
公爵家の四女とはいえ、アデラインには相応の財産と所領が与えられた。
王家の許可を得て、アデラインを当主とするハーコート公爵家の分家が立てられ、セドリックが婿としてそこへ入った。
大領地ではない。
だが、自分たちで暮らし、自分たちの子へ継がせるには十分だった。
セドリックとしては、アデラインと静かに暮らせればそれでよかった。
少なくとも、その時は。
結婚から三か月後。
アデラインは朝食の席で、紅茶を飲みながらしみじみと言った。
「わたくし、ずいぶん無知でしたのね」
「何についてだ」
「人体ですわ」
「嫌な予感しかしない」
「胸は授乳に使うものという認識が強かったのですけれど」
「うん」
「揉まれる、吸われる、挟む」
「待ってくれ」
「用途は思ったより多様でしたわ」
セドリックは目を閉じた。
「それに、自分がどう感じるかは、知識だけでは分からないものなのですね」
「頼むから、それを人前で言わないでくれ」
「今は二人きりですわ」
「そうだった」
「臀部についても認識を改めました」
「まだあるのか」
「どちらも、使おうと思えば使えるのでしたのね」
セドリックが盛大に咳き込んだ。
「まあ、大丈夫?」
「誰のせいだと思っている」
「新たな見地でしたわ」
「その見地を外で発表するな」
「以前のわたくしは不正確な発言をしておりましたので、訂正した方が」
「訂正しなくていい」
アデラインは少し不満そうに紅茶を飲んだ。
しばらくして、また口を開く。
「男性の生物学も、甚だ興味深くなりましたわ」
「もう嫌だ」
「あれが、あんなに――」
「それ以上はいい」
「知識としては存じておりましたけれど、実際に目の前で変化を観察すると」
「観察と言うな」
「触れた際の反応も興味深く」
「俺が悪かった」
「何が?」
「結婚したら教えるなどと言ったことだ」
アデラインは微笑んだ。
「とても勉強になっておりますわ」
そして、ふと思い出したように言う。
「それにしても、最初の痛み」
セドリックが固まった。
「もう再現できないのは残念ですわね」
「……残念なのか?」
「同じ条件で再検証できませんもの」
「二度と検証しなくていい」
「一度しか得られない感覚だったと思うと、貴重でしたのね」
「普通はそんな感想にならない」
「そうなのです?」
「そうだ」
アデラインは少し考えた。
「そうですわね。要約しますと」
紅茶を置く。
「大好きですのよ」
セドリックが瞬いた。
「……何が?」
「あなたが」
「人体ではなく?」
「あなたの人体も含めて」
「そこは分けてほしかった」
「無理ですわ。どちらもあなたでしょう?」
アデラインは席を立ち、夫の隣へ移った。
耳元へ顔を寄せる。
「それに、あの痛みに戻れない身体に、あなたがしてしまったのですもの」
「その言い方はものすごく誤解を招く」
「事実ではなくて?」
「事実だが」
「でしたら」
アデラインは楽しそうに笑った。
「今後も、より一層深めたいと思っております。今は」
セドリックは妻を見つめた。
それから、静かに立ち上がった。
「……寝室へ行こう」
「まだ昼ですわよ?」
「知っている」
そんな二人の前に、ヴィオラ・レグランド女侯爵が現れたのは、その翌年だった。
ヴィオラはアデラインより四つ年上。
二十三歳。
レグランド侯爵家の一人娘として生まれ、若くして家督を継いだ女当主だった。
結婚した夫は婿として彼女を支えていたが、馬車事故で亡くなった。
子はいない。
若い。
美しい。
金もある。
領地もある。
そして、かなり自由だった。
「セドリック様」
ある茶会で、ヴィオラが微笑んだ。
「お手をお貸しくださる?」
「ええ」
セドリックが差し出した手を、ヴィオラは掴んだ。
そのまま、自分の胸元へ押し当てた。
セドリックが硬直する。
アデラインは隣で紅茶を飲んでいた。
「ヴィオラ様」
「何かしら?」
「セドリック。あなたにはわたくしのがございますでしょう? 何かご不満でも?」
「ない」
即答だった。
「一切ない」
「では問題ございませんわね」
「そこまで分かって、なぜ俺の手はまだここにあるんだ」
ヴィオラが笑う。
「まあ。さすがですわね」
「何がです」
「手を振り払うより先に奥様へ答えるところ」
ヴィオラはようやく手を放した。
「アデライン様。よい殿方をお捕まえになりましたこと」
「ええ。わたくしもそう思っておりますわ」
「少し貸していただけない?」
セドリックがむせた。
アデラインは首を傾げる。
「わたくしに貸与権はございませんもの。本人にお尋ねになって?」
「アデライン」
「何でしょう?」
「そこで止めてくれ」
ヴィオラは愉快そうに笑った。
「でも、比較しながら致したら知見が増しますわよ?」
アデラインの目が輝いた。
「比較」
「ええ。一例だけでは一般化できませんでしょう?」
「確かに」
「確かにじゃない」
セドリックが即座に割って入った。
「アデライン様が別の男性をお試しになる必要はございませんわ」
ヴィオラが囁く。
「セドリック様が別の女性を知れば、その違いをご報告いただけるでしょう?」
アデラインは真剣に考え込んだ。
セドリックは嫌な予感しかしなかった。
その夜。
寝室の扉が叩かれた。
セドリックが本から顔を上げる。
「誰だ?」
扉が開いた。
ヴィオラがいた。
「こんばんは」
「……なぜあなたがここに?」
「奥様にお招きいただきましたの」
ゆっくりアデラインを見る。
寝台の上で、妻が当然のように微笑んでいる。
「ええ」
「アデライン」
「何でしょう?」
「説明してくれ」
「比較すると、より知見が増すそうですので」
「昼間の話を本当に持ち帰ったのか」
「ですが、わたくしが別の男性とする必要はないと気づきましたの」
「嫌な方向に賢くなるな」
「あなたが比較すればよろしいでしょう?」
ヴィオラが笑う。
「わたくしは大歓迎ですわ」
セドリックは額を押さえた。
「君は本当にそれでいいのか?」
「ええ」
「嫉妬は?」
「あなたにはわたくしがございますでしょう?」
「……あるな」
アデラインは少し考えてから、ヴィオラを見る。
「それに、わたくしも同席いたしますもの」
「そういう問題なのか?」
「比較条件を揃えられますわ」
「揃えなくていい」
「より知見が深まります」
ヴィオラが吹き出した。
「本当に面白い奥様ですこと」
セドリックはしばらく二人を見比べた。
「……最後に確認するが」
「はい?」
「君たちは二人とも、本当にこれでいいんだな?」
「もちろんですわ」
「ええ」
「……分かった」
深く息を吐く。
「俺も嫌というわけではない。だが、後で研究報告みたいに扱うのだけはやめてくれ」
「では、よろしいのですね?」
「その顔を見ると撤回したくなる」
その夜の詳細について、セドリックは生涯語らなかった。
翌朝。
セドリックは目を覚ました。
右腕には、全裸のアデライン。
左腕には、同じく全裸のヴィオラ。
自分も裸だった。
そして両腕が完全に痺れていた。
「……どうしてこうなった」
「おはようございます、あなた」
「……おはよう」
「おはようございます、セドリック様」
「……おはようございます」
しばらく天井を見る。
アデラインが先に起き上がった。
掛布が落ちても気にしない。
「それはそれとして」
ヴィオラも身体を起こした。
二人は目を合わせる。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
「なぜ君たちだけ研究会みたいな締め方なんだ」
アデラインが夫を見る。
「ちなみに」
「聞きたくない」
「わたくしとの違いはいかがでした?」
「朝一番で聞くな」
「わたくしも興味がありますわ」
「ヴィオラ様まで乗らないでください」
ヴィオラは楽しそうだった。
「では、時々これからも通いますわ」
「時々?」
「毎日ではアデライン様にも悪いでしょう?」
「そこじゃない」
「あなたも、わたくしの屋敷を別邸だと思ってお越しくださいな」
「別邸ではない。あなたの侯爵邸です」
「寝室は余っておりますもの」
「だからそういう問題では」
「便利ですわね」
「君まで賛成するな」
ヴィオラはレグランド侯爵家当主だった。
誰かに囲われる必要もない。金も領地も爵位も、自分のもの。
だから彼女は、セドリックの愛人という立場を欲しがったわけではなかった。
単純に。
アデラインが好きだった。
そしてセドリックも、かなり好きだった。
二年後。
ヴィオラは赤子を抱いていた。
「この子に、レグランド侯爵家を継がせますわね」
「……待ってください」
「何を?」
「今、さらっと重大なことを」
「わたくしの子で、あなたの子ですもの。何か問題が?」
この国では、当主本人の実子であれば、王家の承認を受けることで婚姻の有無にかかわらず後継者に指名することができた。
家を残すことを何より重んじる貴族社会なりの制度である。
つまり。
制度上は、何の問題もなかった。
アデラインが赤子を覗き込む。
「まあ。次期侯爵ですの?」
「ええ」
「ずいぶん早く決まりましたわね」
「跡継ぎは早めに決めた方が楽ですもの」
セドリックは額を押さえた。
「俺の意見は?」
「父親として聞いておりますわよ?」
「決定後に!」
ヴィオラは笑った。
その頃には、アデラインとセドリックの間にも子が生まれていた。
アデラインが当主を務める分家と所領を、いずれ継ぐ子である。
つまりセドリックにはもう、
アデラインの家。
ヴィオラの侯爵家。
二つの家に、自分の子がいた。
そして、その話は広まった。
未婚の女当主。
夫を亡くした女侯爵。
離婚した女伯爵。
家は継いだが、再婚して夫の一族へ介入されるのは御免だという女公爵。
彼女たちの間で、妙な評判が立った。
セドリック・エストン。
妻の自由を縛らない。
女当主の領地へ口を出さない。
財産も求めない。
子どもが生まれれば父親として責任を持つ。
だが、その家を自分のものにしようとはしない。
そして、健康な子が生まれた実績まである。
ある茶会で、女伯爵が言った。
「アデライン様」
「はい?」
「セドリック様を少々お借りできないかしら?」
「本人にお尋ねになって?」
セドリックが遠くで咳き込んだ。
ヴィオラが笑う。
「そうですわ。奥様に貸与権はございませんもの」
「欲しいなら本人を口説きなさいな」
「なぜ俺を巡る話が家畜市場のようになっているんだ」
アデラインは真顔だった。
「でも、世継ぎに困っていらっしゃるのでしょう?」
「だから俺で解決するな」
「わたくし同席ならば、よろしいでしょう?」
「何がどうしてそうなる」
「より知見が深まりますわ」
「深めなくていい」
「ですが、あなた一人では感想が主観に偏るでしょう?」
「夫婦生活を学術研究にするな」
「共同観察ですわ」
「言い換えても同じだ」
女伯爵が手を挙げる。
「わたくしは構いませんわよ?」
アデラインがセドリックを見る。
「ほら」
「『ほら』じゃない」
最初は三家だった。
次に四家。
五家。
六家。
七家。
そして八家。
アデライン自身の家と、七人の女当主たち。
八家すべてに、セドリックの子が生まれるようになった頃。
誰からともなく、彼らはこう呼ばれるようになっていた。
セドリック一門。
八家が揃った夜。
セドリックは寝室の前で立ち尽くしていた。
扉の向こうには、アデラインを含めて八人いる。
「……帰りたい」
背後からアデラインが顔を出した。
「ここがあなたのお家ですわよ?」
「そういう意味じゃない」
セドリックは閉じた扉を見つめた。
「……いや、やるけどな」
「まあ」
「やるけど、八人同日はおかしいだろう!」
「皆様、お待ちです」
「本当に八人同日なのか」
「条件を揃えた方が比較しやすいでしょう?」
「何の条件だ」
「いろいろ?」
「疑問形にするな」
アデラインは夫の手を取った。
「大丈夫ですわ」
「何を根拠に」
「器が大きいと評判ですもの」
「その器の意味が最近おかしくなっている」
扉が閉じた。
翌朝。
セドリックは長椅子に座っていた。
死んだ魚のような目をしている。
女当主たちは朝食を取っていた。
全員、妙に機嫌がいい。
アデラインが紅茶を飲みながら言う。
「八人を同日にこなされたところは、さすがでしたわね」
「その話はやめてくれ」
ヴィオラが笑う。
「わたくし、四人目でしたけれど、まだ余裕がおありでしたわよ?」
「報告しなくていい」
「六人目あたりから、少々興味深い変化が」
「分析するな」
アデラインは少し考えた。
「皆様、翌朝はずいぶん生々しい状態ではございましたけれど」
セドリックが顔を覆った。
「そこを記録事項のように言うな」
「でも八名すべて同様でしたのよ?」
「人数を添えるな!」
女当主たちは笑った。
誰もセドリックの金を必要としていなかった。
誰も彼の家へ入りたがっていなかった。
誰も他の女から彼を奪おうとはしなかった。
それぞれが、自分の家、自分の領地、自分の金、自分の人生を持っていた。
必要だったのは、後継者。
そして。
どうやら彼女たちは、セドリック本人もかなり気に入っていた。
ヴィオラに最初の子が生まれてから、およそ十五年。
八家には、それぞれ三人ほど、多い家では四人の子がいた。
長子は各家の後継者。その下に、二人か三人の弟妹。
セドリックの子どもは、総勢二十数人。
姓は違う。
家も違う。
育った領地も違う。
けれど、並べると妙に似ていた。
考え込む時の眉の寄せ方。
笑った時の目元。
腹が立った時に黙り込む癖。
アデラインは毎年の親族会で彼らを眺めるのが好きだった。
「こうして並べますと、あなたのお仕事がよく分かりますわね」
「仕事と言うな」
「八家すべてに形質が出ておりますもの」
「遺伝観察会にするな」
八人の長子たちは、十三歳から十六歳ほど。
それぞれ次期公爵、次期侯爵、次期伯爵など、各家の後継者として教育を受けている。
弟妹たちもまた、軍務、行政、商業、神殿、学術など、それぞれの適性に合わせた教育を受け始めていた。
最初はただの兄弟姉妹会だった。
だが、ある年。
「北街道の修繕費が足りません」
レグランド侯爵家の長女が資料を広げた。
「うちから石材を出せます」
「運搬は?」
「こちらの川を使えば早いですわ」
「通行税が」
「兄上のところでしょう?」
「ああ。なら免除する」
「代わりに港湾使用料を少し下げていただけます?」
「いいよ」
話が進んだ。
次の年には、治水。
その次は共同倉庫。
さらに領境を越える際の通行税。
やがて騎士団の相互防衛協定。
八家の後継者が兄弟姉妹であることは、思った以上に強かった。
普通なら領地の境界で揉めるところを、
「そこは姉上の領地ですもの」
「ならこちらが譲りますわ」
で済ませる。
王都への陳情も、八家がほぼ同じ内容を出す。
政策提言も似てくる。
子どもたちはまだ当主ではない。
だが、自分たちがいずれ継ぐ領地について話し、その内容を母親たちへ持ち帰る。
母親たちも合理的なら採用する。
それを何年も繰り返した。
王宮も、それぞれの協定自体は把握していた。
街道の共同整備。
治水。
倉庫。
領境税の減免。
軍事相互援助。
一つ一つは、有力貴族同士の協力として珍しいものではない。
だが。
それらすべてが繋がり、一つの巨大な経済圏と安全保障圏を形成している。
その意味するところに王宮が気づいた頃には、もう後戻りできる段階ではなかった。
「……これ、もう一つの国では?」
ある日の異母兄弟会合で、誰かが言った。
全員が黙った。
アデラインの長女が地図を見る。
八家の領地は、ほぼ連続している。
共同街道。
領境税の相互減免。
治水協定。
穀物備蓄。
軍事相互援助。
「そうですわ!」
彼女は立ち上がった。
「公国にしてしまいましょう」
「待て」
「何を待ちますの?」
「公国は思いつきで作るものじゃない」
「でも、もう領境税はほぼ共通ですわ」
「……そうだな」
「軍の指揮系統も共同化しています」
「したな」
「街道も一本の計画で整備しております」
「うん」
「では、公国ですわね」
「結論がおかしい」
だが。
母親たちに相談すると。
「面白そうですわね」
アデラインが言った。
ヴィオラも頷く。
「八家別々に王都へ申請するの、面倒でしたもの」
「軍制も一本化した方が早いですわ」
「領境税もなくしましょう」
セドリックは頭を抱えた。
「お前たち、昔から何も変わってないな」
「変わりましたわ」
「どこが」
「子どもが二十数人増えました」
「そこじゃない」
王家は当然、警戒した。
有力八家。
次期当主は全員、異母兄弟姉妹。
その弟妹たちも、それぞれ将来の軍務、行政、商業、神殿、学術を担うために育てられている。
血縁による巨大な横のネットワーク。
しかも、それを誰か一人が意図的に作ったわけではない。
八家の母親たちは、それぞれ独立した当主。
セドリックも命令していない。
子どもたちが勝手に仲良くなり。
勝手に協力し。
勝手に効率化した結果だった。
王家は最終的に、八家の統合を力で拒んで対立を深めるより、王国傘下の自治公国として認める方が安全だと判断した。
ただし、公王位を特定の一家による世襲とはしない。
八家の当主による合議で候補者を選び、王家が承認する。
公王となった者は、八家のいずれかの当主位を兼ねない。
一つの家だけを、他の七家より上に置かないためだった。
問題は。
その初代公王を誰にするかだった。
八家の当主の誰かを選べば、序列が生まれる。
長子八人の誰かを選んでも同じ。
会議は難航した。
そして。
八人の長子が、同時に父親を見た。
セドリックは嫌な予感がした。
「では、父上で」
「なぜそうなる」
「どの家の当主でもなく、八家すべての子の父だからです」
「俺はアデラインの家の人間だぞ」
「ですが、当主ではありません。そして残る七家の後継者たちの父でもあります」
「それを中立と呼ぶのか?」
「少なくとも、八家のうち一つを上に置く必要がありません」
「俺は公王になりたくない」
「母上たちも賛成です」
セドリックはアデラインを見る。
アデラインは満面の笑みだった。
「そうですわ!」
「君まで」
「あなたほど適任はいらっしゃらないでしょう?」
「俺は結婚した頃、君一人と静かに暮らす予定だったんだぞ」
アデラインは少し考えた。
「ずいぶん広がりましたわね」
「広げたのは君だ!」
「人体への知見を深めた結果ですわ」
「国家まで深めるな!」
その年。
セドリックは初代公王として即位した。
八家の女当主たちが並ぶ。
その前には、八人の後継者。
さらにその後ろには、大勢の弟妹たち。
いずれ公国の軍務。
行政。
商業。
外交。
学術。
様々な分野を担うよう育てられている、セドリックの子どもたちだった。
戴冠式を見た民衆の一人が言った。
「器の大きな方だ」
政治的な意味だった。
八家の女当主を支配しない。
子どもたちを平等に扱う。
権力を得ても、各家の自治を尊重する。
寛容で、懐が深い。
だが。
その横にいた男が言った。
「まあ、種馬としてもな」
その呼び名は。
驚くほど早く広まった。
初代公王セドリック一世。
公国の公式史では、寛容な統治姿勢と八家の協調を重んじたことから、
『大器公』
と記される。
だが民間では。
『器の大きい種馬公王』
の方が有名だった。
即位式の夜。
セドリックは王冠を外し、深く息を吐いた。
「……どうしてこうなった」
背後からアデラインが抱きつく。
「おめでとうございます、公王陛下」
「その呼び方をやめてくれ」
「では、あなた」
「それでいい」
アデラインは肩越しに夫を見る。
昔と変わらない。
少しだけ楽しそうな目。
「それにしても」
「何だ」
「人体への興味から始まって、公国までできるとは思いませんでしたわね」
「俺もだ」
「知見というものは、深めてみるものですわ」
「深めすぎた結果が国家だぞ」
アデラインは笑った。
「でも」
「ん?」
「わたくし、今でもまだ興味が尽きませんのよ?」
「何にだ」
「あなたに」
「……人体ではなく?」
「あなたの人体も含めて」
「何年経ってもそこは変わらないのか」
「だって」
アデラインは彼の首へ腕を回した。
「大好きですのよ」
セドリックはしばらく黙った。
それから妻を抱き寄せる。
「俺もだ」
「では」
アデラインが耳元で囁く。
「公王になって何か変化がございましたか、確認してみましょうか?」
「公王になって人体構造が変わるわけないだろう」
「実地で確認しなければ分かりませんわ」
「……何年経っても、ずっとそれだな」
「ええ」
満足そうに笑う。
「今後も、より一層深めたいと思っておりますもの」
その後。
セドリック公国は八家の結束を基盤として長く繁栄した。
後世の歴史家たちは、初代公王がなぜこれほど多くの有力家と強固な血縁関係を築くことができたのか、政治的意図を求めて議論を重ねたという。
外交戦略。
王家への牽制。
八家統合の長期計画。
公国樹立を見据えた血統政策。
様々な説が唱えられた。
だが。
すべての始まりは。
公爵家四女アデラインが、婚約者へ尋ねた一言だった。
「大きな脂肪の塊の、何がよろしいのでしょうね?」
歴史とは。
案外、そんなところから動くものである。
本当はですよ。
ちょっとズレた公爵令嬢が、人体についてあれこれ首を傾げるだけのショートショートの予定だったんです。
結婚して。
実地でいろいろ知って。
「要約しますと、大好きですのよ」
ここで終わる予定でした。
……どうして公国ができた?
なぜ女当主が増えた。
なぜ八家になった。
なぜ子供が二十数人いる。
なぜ異母兄弟姉妹で経済圏を作った。
なぜ軍事同盟まで結んだ。
そしてなぜセドリック、公王になった。
私にも分かりません。
お盆休みで書いていたら、
人体への知見
↓
比較
↓
女当主
↓
世継ぎ
↓
異母兄弟姉妹
↓
八家連携
↓
経済圏
↓
公国
と、妙に因果だけは繋がってしまいました。
本当にどうしてこうなった。
なお、公王になって何年経っても、アデラインが一番興味を持っているものは変わらなかったようです。
人体というか。
セドリックというか。
セドリックの人体というか。
まあ。
大好きなら仕方ありませんね。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




