9話 監視下の準備活動
『大脱走計画』が始動してから、俺の生活は一変した。
もう、リリシア様から逃げ回るだけの日々じゃない。
俺は今、明確な目的を持った一人の革命家(亡命希望者)なのだ。
まず着手したのは、スキル習得。
俺は放課後になると図書館の最も薄暗い一角に陣取った。
「ふむ……王都から北東のアルトス山脈を越えるには、最低でも三日は見ておくべきか。この時期、山には毒を持つ蛇も多い、と。解毒作用のある薬草は……これか」
俺が睨めっこしているのは、学業とは何の関係もない『辺境の歩き方』や『実践・サバイバル植物図鑑』といった類の本だ。
その真剣な表情は、傍から見れば、期末試験を控えた優等生そのもの、と俺は思う。
「まあ、アランくん。最近、本当に勉強熱心ですわね」
案の定、背後から《《あの聖女様》》の声がした。
もはや俺は驚かない。気配を完全に消して現れるのは、彼女の標準スキルだからだ。
「リリシア様……。ええ、まあ。将来のために少しでも知識を蓄えておこうかと」
俺は完璧なポーカーフェイスで答える。
リリシア様は、俺が開いている本のタイトルには気づかないまま、うっとりと目を細めた。
「素晴らしい志ですわ。あなたが将来、立派な騎士や王国の役人になるというのなら、私が全面的に支援いたします。さあ、どんなことでも私に聞きなさい。帝国の歴史でも、古代魔法語の文法でも、なんでも教えてさしあげますわ」
(違う! 俺がなりたいのは、騎士でも役人でもない! 無職の逃亡者だ!)
俺は内心で絶叫しながら、聖女様のありがたい的外れな申し出を笑顔で受け流した。
「ありがとうございます、心強いです」
◇
次なるは資金調達。
俺は貴族のプライドをドブに捨て、王都の裏通りにある酒場に飛び込んだ。
少し汚れた帽子を目深に被り、変装も完璧だ。
「よし……今日こそ稼いでやる!」
皿洗いの仕事は想像以上に過酷だった。
油と残飯の匂いに吐き気を催しながら、俺は必死に手を動かす。だが、稼いだ銀貨一枚一枚が自由への切符なのだと思えば、不思議と力も湧いてくる。
そんな時だった。
ガヤガヤと騒がしかった酒場の入り口が水を打ったように静かになったのだ。
そこに立っていたのは、場違いなほどに神々しいオーラを放つ一人の女性。
「皆様にご加護を。神の愛は、どのような場所にいる民にも、等しく注がれるべきですわ」
リリシア様だった。
なぜ!? なぜこんな薄汚い酒場に!?
彼女は貧しい人々にパンと祝福を分け与えるという、聖女として完璧なチャリティー活動の最中だったらしい。その言い分は、あまりに正論で一点の曇りもない。
リリシア様は、にこやかに店内を進む。
そして、厨房の入り口で皿を洗う俺と、一瞬だけ目が合ってしまった。
しかし彼女は何も言わなかった。
ただ、ほんのわずかに口の端を上げ、優しく、そして慈しむように小さく頷いてみせた。
その目は、こう語っているようだった。
――『こんな場所で一生懸命働いて……えらい子ですわ』
俺は背筋が凍るのを感じた。
案の定、リリシア様が去った後、酒場の親父が俺の元へすっ飛んできた。
「お、おい、小僧! お前、一体何者だ!? なんで聖女様がお前を知ってるような素振りをするんだ!?」
「い、いえ、人違いじゃ……」
「馬鹿野郎! あの聖女様が人違いなんざするもんか! 明日からもう来なくていいぞ! お前みたいなワケありを雇って、教会に睨まれたらたまんねえや!」
こうして俺の記念すべき初バイトは、わずか半日で終わりを告げた。
寮への帰り道、俺は完全に打ちのめされていた。
ダメだ。
何もかも、あの人にはお見通しなんだ。
俺がスキルを学ぼうとすれば、「勉強熱心」と勘違いして応援してくる。
金を稼ごうとすれば、「健気な苦労」と勘違いして、結果的に邪魔をしてくる。
俺の必死の計画は、リリシア様にとっては、ただの微笑ましい子供のお遊戯に過ぎないのかもしれない。
その時、俺はある、最も恐ろしい可能性に思い至ってしまった。
――まさか。
あの人、俺が「逃げようとしていること」に、気づいているんじゃないか?
気づいた上で、あえて何も言わない。
必死に準備する俺の姿をまるで籠の中で必死に逃げ道を探す小鳥を眺めるように、楽しんでいるのでは……?
『アランくんの、可愛らしい家出ごっこ』。
そんな悪魔の囁きが聞こえた気がした。
だとしたら、あまりに、あまりに悪趣味すぎる。
俺が積み上げる自由への希望は、彼女にとっては、最高の娯楽でしかないというのか。
ぞわり、と全身に鳥肌が立った。
俺が戦っている相手は、ただのヤンデレ聖女ではなかった。人の心を弄び、その絶望すらも愛でる、本物の怪物なのかもしれない。
大脱走計画の行く先に、初めて暗雲が垂れ込めていた。