8話 大脱走計画
レオ先輩が蒼白な顔で逃げ去っていく残像が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
リリシア様が放った『穢れ』という言葉。
それは聖女が口にするからこそ、物理的な暴力よりも遥かに重く、おぞましい響きを持っていた。
あの人は本気だ。
俺という存在を蝶の標本にするためなら、その羽に触れただけの無関係な人間を躊躇なく叩き落とす。
罪悪感が鉛のように胃の底に溜まっていく。
俺がこの学園にいる限り、俺がリリシア様に付きまとわれている限り、第二、第三のレオ先輩が現れるだろう。俺は、歩く厄災なのだ。
もう、ごまかしは効かない。
『ハッピー・プリズナー作戦』も限界だ。
幸福なフリをすればするほど、リリシア様は、
「アランくんは学園がお気に入りなのね。ならば、余計な虫は一匹残らず駆除しませんと」
と、その神聖なる殺虫スプレーを振りまくだろう。あくまで俺のイメージではあるが……。
寮の自室。
俺は、まるで檻の中の熊のように狭い部屋をぐるぐると歩き回っていた。
どうする?
どうすれば、この状況を打開できる?
選択肢を一つずつ吟味していく。
選択肢A:『退学』。
ダメだ。これはリリシア様が仕掛けた最大の罠。選んだ瞬間にチェックメイト。教会の私室に監禁され、永遠に「お世話」される未来しか待っていない。論外だ。
選択肢B:『権力への直訴』。
誰に? 教会本部の偉い人に? それとも王族に?
貧乏貴族の三男坊である俺の言葉と民衆から絶大な人気を誇る聖女様の言葉。どちらが信じられるかなんて、考えるまでもない。
最悪の場合、聖女様を貶めようとした不届き者として、俺が異端審問にかけられる。これもダメだ。
ならば――残された道は、一つしかない。
選択肢C:『逃亡』。
物理的に、この王都からリリシア様の手が届かない場所まで逃げる。
あまりに無謀な最後の手段。
だが、これしか俺が人間としての尊厳を保ち、そして他人を巻き込まないための唯一の方法だった。
「やるしかない……!」
俺は覚悟を決めた。
問題は、どうやって逃げるかだ。
金も、コネも、特別なスキルもない。ただの学生が聖女という名の国家権力の一部から逃げ切れるのか?
いや、闇雲に逃げてもすぐに捕まる。
計画が必要だ。
長期的な視点に立った、緻密な計画が。
俺は机の上に一枚の羊皮紙を広げ、震える手でペンを握った。
【極秘】大脱走計画。
第一段階:準備フェーズ(期間:次の長期休暇まで)
* 資金調達
* なけなしの仕送りを切り詰める。昼食は一日おきに抜く。
* 貴族の端くれとしてのプライドは捨てる。放課後、裏で皿洗いや掃除などの日雇い仕事を探す。
* 不要な教科書や私物は市場で全て売り払う。
* スキル習得
* 図書館に入り浸り、『王国の地理』『サバイバル術入門』『薬草学の基礎』などを読破する。逃亡先の知識と、生き抜くための技術を頭に叩き込む。
* 学園の実習授業(測量術、野外活動など)を意図的に選択する。
これも全て逃げるための訓練だ。
* 目的地選定
* リリシア様がいる中央教会の影響力が、極めて弱い土地。
* 未開拓の辺境、鉱山町、あるいは国境付近の無法地帯。身分を隠して日雇い労働者として紛れ込める場所を探す。
第二段階:実行フェーズ(長期休暇、初日未明)
* 夜明け前に宿舎を抜け出し、最低限の荷物で王都を脱出。
* 街道は使わず、森や山を抜けながら目的地を目指す。
* 追っ手(絶対にいる)を警戒し、決して一つの村に長居しない。
……あまりに壮大で、あまりに無謀な計画。
成功する確率は、限りなく低いだろう。
一瞬、心がくじけそうになる。
実家で平凡に暮らしていた頃が、ひどく懐かしく思えた。だが、脳裏にレオ先輩の怯えた顔とリリシア様の恍惚とした笑みがよぎる。
――そうだ。俺は、逃げるんだ。
自分の自由のためだけじゃない。
これ以上、誰も俺のせいで不幸にしないために。
俺は羊皮紙をきつく握りしめた。
今まで何となく流されるままに生きてきた。貧乏貴族の三男という立場に不貞腐れ、誰かが道を指し示してくれるのを待っていた。
だが、今は違う。
初めて、自分の意志で自分の人生を切り開こうとしている。
たとえその先が、いばらの道だったとしても。
俺は窓の外を見た。遥か遠く、夕日に染まる山脈が広がっている。あの向こうに、俺の求める自由はあるのだろうか。
「待ってろよ、自由……今度こそ、この手で掴んでやる!」
人生を賭けた大脱走計画が、今、静かに幕を開けた。