40話 最後の欠片(ピース)
査問会という名の嵐が過ぎ去った後、俺とリリシア様の関係は、奇妙なぎこちない平穏の時期を迎えていた。
彼女は、もう俺をストーキングすることも過剰な干渉をすることもない。
だが、その代わり彼女は、俺の前でどう振る舞えばいいのか、分からなくなってしまったようだった。その変化が最も顕著に現れたのが食事の時間だった。
あの日以来、リリシア様は、俺の前に手料理を差し出すことを、ぴたりとやめてしまったのだ。それは俺にとって喜ばしいことのはずだった。
だが、俺は気づいてしまった。
彼女が厨房に立つこと自体をやめてしまったことに。あの独創的すぎる『祝福の炭塊』を生み出していた時でさえ、彼女は料理をすることに純粋な喜びを感じていたはずだ。
俺の言葉が、俺の行動が、彼女から、そのささやかな喜びすらも奪ってしまったのかもしれない。その事実に気づいた時、俺は居ても立ってもいられなくなった。
その日の放課後、俺はなけなしの小遣いをはたいて市場でたくさんの食材を買い込むと、学園の家庭科実習室の扉を叩いた。
◇
「……どうして、私を、ここに?」
リリシア様は戸惑ったように清潔な調理台の前に立っていた。
俺は彼女を半ば強引にここに連れてきたのだ。
「あんた最近、ちゃんと飯食ってますか」
俺のぶっきらぼうな問いに彼女は、びくりと肩を揺らした。
その反応だけで、答えは分かった。
俺は買ってきた食材を手際よく調理台の上に広げた。
「あんたが作らないなら俺が作る。ただ、それだけです」
俺はエプロンを締めると手慣れた手つきで野菜を刻み始める。貧乏貴族の三男坊にとって、料理は、生きるための必須スキルだ。
リリシア様は、その様子を眺めているだけだった。
俺が作ったのは、何の変哲もない家庭料理。
具沢山の野菜スープと、こんがりと焼いた鶏肉、そして温かいパン。
出来上がった料理を二つの皿に盛り付け、彼女の前にその一つを差し出した。
「さあ、冷めないうちに」
俺たちが向かい合って食卓につく。
二人きりの食事。
だが、その意味合いは、今までとは全く違っていた。支配する者とされる者、ではない。
腹を空かせた二人の人間が同じテーブルで同じものを食べる。そのあまりにも当たり前の光景が、ひどく、新鮮に感じられた。
リリシア様は、おそるおそる、スプーンを手に取った。そして、スープを一口、口に運ぶ。
そ、翠色の瞳が驚いたように大きく見開かれた。
「……温かい」
ぽつり、と。彼女が呟いた。
「……美味しい、です」
その言葉を聞いて、俺は心の底から、ほっとした。彼女は、それから夢中になるように料理を食べ進めた。
その姿は聖女様でもヤンデレでもない。
お腹を空かせた一人の女の子の姿だった。
食事が終わる頃。
俺は意を決して切り出した。
「リリシア様。俺はあんたの過去を全て知りたい」
彼女の食べる手がぴたりと止まる。
「エルム村で何があったのか。そして……あんたが救えなかったっていう、『俺に似た誰か』が、誰なのか」
俺のまっすぐな視線に、彼女は苦しそうに顔を歪めた。だが、もう彼女は逃げなかった。
「……その方の名前は、レオ、と、言いました」
初めて彼女自身の口から語られた、その名前。
「彼は、村の、孤児でした。いつも、私の後をついて回って……本当に、あなたのように、少し生意気で、でも根は、とても、優しい子で……」
彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「灰肺病が、村を襲った時、私は、彼だけでも助けたかった。でも……彼は、最後まで、私のそばを離れようとはしなかった。他の病人の看病をする、私を手伝うと言って……そして、最後に、私の腕の中で……」
彼女は、それ以上言葉を続けることができなかった。ただ、嗚咽を漏らすだけ。
レオ。
俺に似ていたという少年。彼こそが、彼女の十年間にわたる悪夢の中心。
俺は、静かに席を立った。
そして彼女の隣に行くと、その震える肩をそっと抱き寄せた。
彼女は驚いたように身を固くする。
しかし、俺はその体を離さなかった。
「もう、いいんです。もう、一人で、抱え込まなくて、いいんです」
俺の腕の中でリリシア様は声を上げて泣きじゃくった。まるで十年間、ずっと溜め込んできた全ての悲しみを吐き出すかのように。
俺は黙って、彼女が泣き止むまで、その背中を優しくさすり続けていた。
最後の欠片は見つかった。
ここからが本当の始まりなのだ。
俺が彼女をその、長い長い悪夢から救い出すための。




