27話 貧乏貴族の剣、そして聖女の沈黙
闘技場に俺とクレインが対峙する。
観客席の喧騒が嘘のように遠のいていく。
俺の耳に聞こえるのは、自分の心臓の音と荒々しい呼吸だけだ。
「死ねや、貧乏人がぁっ!」
クレインが獣のような雄叫びと共に大上段から剣を振り下ろしてきた。
体育祭の時のような、聖なるドーピングはない。今の俺の身体能力は、ただの学生レベルだ。まともに受ければ腕ごと弾き飛ばされるだろう。
俺は、剣で受け止めなかった。
半身になり、その一撃を紙一重でかわす。
そして、クレインの体勢が崩れた、その一瞬を見逃さなかった。
「ここだ!」
俺は、彼の体幹の軸となっている踏み込んだ方の足首を剣の腹で思い切り打ち付けた。
「ぐっ!?」
重い一撃を空振りさせられたクレインは、体勢を立て直そうとしたところに予期せぬ衝撃を受け、大きくバランスを崩す。
観客席から、どよめきが起こった。
「おい、見たか? 今の動き」
「偶然か? いや、クレインの動きを完全に見切っていたぞ……」
偶然じゃない。
これは、俺が来る日も来る日も図書館で『サバイバル術入門』を読みふけり、頭の中で森の獣との戦いをシミュレーションし続けた、その成果だった。
巨大な猪の突進をどうかわすか。
俊敏な狼の牙をどう避けるか。
相手の力を利用し、最小の力で最大の効果を得る。それは貧乏貴族の三男坊が、一人で生き抜くために考え抜いた泥臭い生存術。
「てめえ……!」
体勢を立て直したクレインが怒りに顔を歪ませ、再び斬りかかってくる。
その剣筋は、先ほどよりも、さらに荒々しく、そして単調になっていた。
俺は冷静にその動きを見つめる。
彼の肩の動き、足の運び、視線の先。
全てが俺に次の攻撃の軌道を教えてくれていた。かわす。いなす。そして、的確に相手の体勢を崩す一点だけを打ち据える。
俺の戦い方は騎士のそれとは全く違っていた。
それは、まるで熟練の狩人のようだった。
貴賓席でリリシア様が俺の戦いを見つめていた。彼女の指先が何度も聖なる光を帯びては、消える。助けたい。今すぐにでも神の力で、俺を勝利させたい。
だが、彼女は動けなかった。
俺の必死さが彼女の介入を拒んでいたからだ。
『手を、出すな』
『これは、俺の戦いだ』
その無言の、しかし、あまりにも強い意志がリリシア様の聖なる力を初めて縛り付けていた。
彼女は、ただ祈ることしかできなかった。
自らの寵愛する英雄が、初めて、自分の意志で未知の敵へと立ち向かう姿を、ただ見守ることしか。
試合は持久戦の様相を呈してきた。
クレインの体力は、底なしに見える。だが、その攻撃は、確実に焦りと怒りで精度を欠いてきていた。
……そろそろ、だ。
俺は、勝負をかけることにした。
クレインが大きく息を吸い込み、最大の一撃を放とうと剣を振りかぶる。
その予備動作。
俺はその瞬間を待っていた。
彼の懐へと一直線に飛び込んだ。あまりにも無謀な自殺行為。観客席から悲鳴が上がる。
「死ねぇっ!」
クレインの剣が俺の頭上へと振り下ろされる。
だが、その刃が俺に届くよりも一秒でも早く。
俺の足が、闘技場の床に落ちていた小さな石ころを思い切り蹴り上げた。
石は完璧な軌道を描きクレインの利き目のすぐ下へとクリーンヒットしたのだ。
「ぐあっ!?」
一瞬の、しかし致命的な視界の遮断。
クレインの剣がわずかに狙いを逸らす。
その隙を、俺は見逃さない。
俺は、彼の体勢が完全に崩れたその懐で、剣の柄をみぞおちへと全力で叩き込んだ。
「ごふっ……!」
カラン、と。
クレインの手から剣が滑り落ちる。
彼は、そのまま膝から崩れ落ち、闘技場の土の上に大の字に倒れ込んだ。
歓声ばかりだったはずが静寂に変わった。
闘技場を一瞬の完全な静寂が支配したのだ。
そして、次の瞬間。
「うおおおおおおおおおっ!!」
割れんばかりの大歓声が闘技場を揺るがした。
勝者、アラン・ウォルトン。
貧乏貴族の三男坊が騎士団長の息子を破ったのだ。聖女の奇跡ではない。
ただ己の知恵と勇気だけで。
俺は肩で息をしながら天を仰いだ。
これが勝利の味か。
これが自分の足で未来を掴み取ることの味か。
もう俺は逃げない。




