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25話 祭りの朝

学園祭の朝が来た。

空は俺の心とは裏腹に憎らしいほどに晴れ渡っている。開会を告げるファンファーレが遠くから聞こえてきた。


俺は、まだ寮の部屋にいた。

窓の外では、生徒たちの楽しげな喧騒が始まっている。そして俺の足元には、全ての準備が整った逃亡用の鞄が置かれていた。


今だ。

今、この部屋を飛び出せば、計画は成功する。

開会式の混乱に紛れて裏門から脱出する。追っ手が俺の失踪に気づく頃には、俺はもう王都のはるか彼方だ。


頭では、わかっている。

これが、最善の選択なのだと。


俺の自由のため。そして、これ以上、誰も巻き込まないため。


だが、足が動かない。


昨夜リリシア様がくれた、あの不格好なクッキーの優しい甘さが、まだ舌の奥に残っている。

彼女の、あの恋する乙女のような無防備な笑顔が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。


俺は、あの笑顔を裏切れない。

あの純粋な、そして致命的に歪んだ好意を踏みにじることができないのだ。


……馬鹿か、俺は。


自嘲の笑みが漏れた。

あれほど彼女から逃げ出すことばかりを考えていたのに。いざ、その瞬間を目の前にして、彼女に情が移ってしまっている自分に気づかされた。


ストーカーに情を移す被害者。

これほど滑稽な話があるだろうか。


だが、理由はそれだけじゃない。


エマさんの屈託のない笑顔。


ジュリアス様の不器用な激励。


ソフィア様の致命的な勘違い。


そして、喫茶店の準備で笑い合ったクラスメイトたちの顔。


俺はいつの間にか、この場所に、この日々にたくさんの「捨てられないもの」を作ってしまっていた。


どうすればいい……。


鞄を取るか。

それとも、この部屋のドアを開けて祭りの喧騒の中へ戻るか。

自由か、それとも罪悪感に満ちた日常か。


俺が答えの出ない問いにただ立ち尽くしていた、その時だった。


ドンドンッ! と、部屋のドアが乱暴に叩かれた。


「アランくん! 大変だよ!」


聞こえてきたのは、エマさんの切羽詰まった声だった。


俺は慌てて鞄をベッドの下に隠し、ドアを開ける。


「エマさん!? どうしたんだ、そんなに慌てて!」


「どうしたもこうしたもないよ! 早く来て! ジュリアス様が……!」



俺は、エマさんに腕を引かれるまま、学園の武術大会の会場へと走った。闘技場を囲む観客席は、すでに満員で熱気に包まれている。

その中央の舞台で、今、まさに試合が行われようとしていたのだ。


片方に立っているのは、ジュリアス様。


そして、その対戦相手を見て俺は息を呑んだ。

相手はクレインという名の、騎士団長の息子だった。粗暴で腕っぷしが強いことで有名な男だ。そして、彼は以前からリリシア様に言い寄っては、冷たくあしらわれている、数少ない男の一人でもあった。


クレインはジュリアス様を睨みつけ、観客席にまで聞こえるような大声で言い放った。


「おい、ジュリアス! てめえ、最近あの聖女様の『お気に入り』と、つるんでるらしいじゃねえか!」


ジュリアス様は眉一つ動かさない。

だが、クレインの言葉は、明らかに俺に向けられたものだった。


「気に食わねえんだよ! 聖女様は、俺のもんだ! あの、アランとかいう、ひょろひょろの貧乏貴族が馴れ馴れしくしてんのも、それを庇うてめえもな!」


クレインは下卑た笑みを浮かべた。


「だから、ここで、てめえを叩きのめして、証明してやる! 聖女様に相応しいのは、俺様だけだってな! あの貧乏貴族は、俺の靴でも舐めてりゃいいんだよ!」


観客席がどよめく。


エマさんも悔しそうに唇を噛んだ。


俺は、ただ拳を握りしめることしかできなかった。これも、俺のせいだからだ。

俺がリリシア様との関係を曖昧にし続けたせいで、ジュリアス様がこんな屈辱を受けることになった。


審判の試合開始の合図が響く。


クレインは、雄叫びを上げてジュリアス様へと突進した。

その剣筋は、荒々しいが重たく見える。まともに受ければ、ただでは済まないだろう。


俺は目を逸らすことができなかった。


友が俺のために戦っている。

その一方で、俺は、一人で、全てを捨てて逃げ出そうとしていた。


――俺は、本当に、それでいいのか?


ベッドの下に隠した、あの鞄の重みが今、俺の心にずしりとのしかかってくる。


逃げるか。


それとも戦うか。


俺の人生を賭けた選択の時が始まろうとしていた。

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