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24話 学園祭前夜

学園祭を明日に控え、校内は一種の祝祭的な狂騒に包まれていた。


俺たちの教室も、その例外ではない。

喫茶店の飾り付けは完成し、テーブルクロスがかけられ、壁には手作りのメニューが貼られている。

隅には、リリシア様印の『奇跡のクッキー』が入った木箱が誇らしげに鎮座していた。


「よし、完璧! これなら絶対、今年の最優秀クラス賞もらえるよ!」


エマさんが、満足げに手を叩く。

クラスメイトたちの顔にも、期待と達成感が満ち溢れている。その輪の中で、俺だけが作り物の笑顔を浮かべていた。


明日の朝。

開会式の喧騒に紛れて、俺はこの学園から姿を消す。


『大脱走計画』の決行日だ。

この楽しい空間も、笑い合う友人たちも、全て今夜限り。

そう思うと、胸の奥がずきりと痛んだ。



その夜、俺は、寮の自室で最後の準備確認を行っていた。


ベッドの下から革の鞄を引きずり出す。

中身を、一つ一つ、指でなぞるように確認していく。着替え、なけなしの全財産、手書きの地図、火打石、干し肉、水袋……。


完璧だ。準備に抜かりはない。


俺は鞄の口を固く締めながら、窓の外を見つめた。明日、俺はこの部屋に戻らない。この景色を見ることも、もうない。

家族同然に育った、辺境の領地のことも、もう二度とその土を踏むことはないだろう。


全てを捨てて、俺は、自由を手に入れる。


そのはずなのに。


胸を満たすのは、期待ではなく、鉛を飲み込んだような、重苦しい罪悪感だけだった。

リリシア様の、あの、心の底から嬉しそうだった笑顔が脳裏に浮かんで消えない。

俺は、あの笑顔を裏切るのだ。


コン、コン。


不意に静かな部屋にドアをノックする音が響いた。


俺の心臓が、大きく跳ね上がる。


こんな時間に、誰だ? 


俺は慌てて鞄をベッドの下に蹴り込み、平静を装ってドアを開けた。


「……リリシア様」


そこに立っていたのは、夜着の上にそっとカーディガンを羽織ったリリシア様だった。

いつもの、威圧的なオーラはない。ただ一人の女の子が立っていたのだ。


「こんな夜分にごめんなさい。でも、どうしても、これをあなたに渡しておきたくって」


彼女が、そっと差し出したのは一枚のクッキーだった。


俺たちが厨房で一緒に焼いたものだ。

だが、それは少しだけ形が不格好で手作り感に溢れていた。


「これは……チャリティー用ではなくて。あなたと私の、二人だけで食べるために、さっき特別に焼いたものですわ」


リリシア様は、少しだけ頬を赤らめながら言った。


「その……明日は、学園祭でしょう? だから、その……頑張りましょうね、って、言いたかったの」


俺は、何も言えなかった。

差し出されたクッキーと彼女の顔を交互に見つめることしかできない。その瞳には、嘘も、計算も狂気もなかった。


ただ、好きな男の子に手作りの贈り物を渡す、一途な恋する乙女の瞳、俺にはそう見えた。


俺は震える手で、そのクッキーを受け取った。

そして彼女の目の前で、それをゆっくりと口に運ぶ。

サクッ、という軽い食感と共に優しい甘さが口の中に広がる。美味しかった。

今まで食べた、どんなお菓子よりも、ずっと美味しく感じた。


「ふふっ……」


それを見てリリシア様は、心の底から幸せそうに微笑んだ。


「明日は、きっと、人生で最高の一日になりますわね。……おやすみなさい、私の、アランくん」


彼女は、そう言い残すと、名残惜しそうに自室へと帰って行った。


バタン、とドアが閉まる。


後に残された静寂の部屋。

俺はその場に立ち尽くしていた。


『人生で最高の一日』。


彼女にとっては、俺との愛の勝利を祝う輝かしい一日。


俺にとっては、全てを捨てて未来へと逃げ出す、決別の一日。


口の中に残るクッキーの甘い味。

それとは裏腹に、俺の心は罪悪感で張り裂けそうだった。


俺は、ベッドの下に隠した逃亡用の鞄に視線を落とす。その革の取っ手が、まるで俺を責めるように鈍く光っていた。


俺は……本当に、明日この手で、あの笑顔を裏切れるのか……?


決行前夜。

自分でも優柔不断だと心底嫌になる。しかし、やっぱり俺の決意は激しく揺らいでいた。

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