24話 学園祭前夜
学園祭を明日に控え、校内は一種の祝祭的な狂騒に包まれていた。
俺たちの教室も、その例外ではない。
喫茶店の飾り付けは完成し、テーブルクロスがかけられ、壁には手作りのメニューが貼られている。
隅には、リリシア様印の『奇跡のクッキー』が入った木箱が誇らしげに鎮座していた。
「よし、完璧! これなら絶対、今年の最優秀クラス賞もらえるよ!」
エマさんが、満足げに手を叩く。
クラスメイトたちの顔にも、期待と達成感が満ち溢れている。その輪の中で、俺だけが作り物の笑顔を浮かべていた。
明日の朝。
開会式の喧騒に紛れて、俺はこの学園から姿を消す。
『大脱走計画』の決行日だ。
この楽しい空間も、笑い合う友人たちも、全て今夜限り。
そう思うと、胸の奥がずきりと痛んだ。
◇
その夜、俺は、寮の自室で最後の準備確認を行っていた。
ベッドの下から革の鞄を引きずり出す。
中身を、一つ一つ、指でなぞるように確認していく。着替え、なけなしの全財産、手書きの地図、火打石、干し肉、水袋……。
完璧だ。準備に抜かりはない。
俺は鞄の口を固く締めながら、窓の外を見つめた。明日、俺はこの部屋に戻らない。この景色を見ることも、もうない。
家族同然に育った、辺境の領地のことも、もう二度とその土を踏むことはないだろう。
全てを捨てて、俺は、自由を手に入れる。
そのはずなのに。
胸を満たすのは、期待ではなく、鉛を飲み込んだような、重苦しい罪悪感だけだった。
リリシア様の、あの、心の底から嬉しそうだった笑顔が脳裏に浮かんで消えない。
俺は、あの笑顔を裏切るのだ。
コン、コン。
不意に静かな部屋にドアをノックする音が響いた。
俺の心臓が、大きく跳ね上がる。
こんな時間に、誰だ?
俺は慌てて鞄をベッドの下に蹴り込み、平静を装ってドアを開けた。
「……リリシア様」
そこに立っていたのは、夜着の上にそっとカーディガンを羽織ったリリシア様だった。
いつもの、威圧的なオーラはない。ただ一人の女の子が立っていたのだ。
「こんな夜分にごめんなさい。でも、どうしても、これをあなたに渡しておきたくって」
彼女が、そっと差し出したのは一枚のクッキーだった。
俺たちが厨房で一緒に焼いたものだ。
だが、それは少しだけ形が不格好で手作り感に溢れていた。
「これは……チャリティー用ではなくて。あなたと私の、二人だけで食べるために、さっき特別に焼いたものですわ」
リリシア様は、少しだけ頬を赤らめながら言った。
「その……明日は、学園祭でしょう? だから、その……頑張りましょうね、って、言いたかったの」
俺は、何も言えなかった。
差し出されたクッキーと彼女の顔を交互に見つめることしかできない。その瞳には、嘘も、計算も狂気もなかった。
ただ、好きな男の子に手作りの贈り物を渡す、一途な恋する乙女の瞳、俺にはそう見えた。
俺は震える手で、そのクッキーを受け取った。
そして彼女の目の前で、それをゆっくりと口に運ぶ。
サクッ、という軽い食感と共に優しい甘さが口の中に広がる。美味しかった。
今まで食べた、どんなお菓子よりも、ずっと美味しく感じた。
「ふふっ……」
それを見てリリシア様は、心の底から幸せそうに微笑んだ。
「明日は、きっと、人生で最高の一日になりますわね。……おやすみなさい、私の、アランくん」
彼女は、そう言い残すと、名残惜しそうに自室へと帰って行った。
バタン、とドアが閉まる。
後に残された静寂の部屋。
俺はその場に立ち尽くしていた。
『人生で最高の一日』。
彼女にとっては、俺との愛の勝利を祝う輝かしい一日。
俺にとっては、全てを捨てて未来へと逃げ出す、決別の一日。
口の中に残るクッキーの甘い味。
それとは裏腹に、俺の心は罪悪感で張り裂けそうだった。
俺は、ベッドの下に隠した逃亡用の鞄に視線を落とす。その革の取っ手が、まるで俺を責めるように鈍く光っていた。
俺は……本当に、明日この手で、あの笑顔を裏切れるのか……?
決行前夜。
自分でも優柔不断だと心底嫌になる。しかし、やっぱり俺の決意は激しく揺らいでいた。




