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16話 勘違い令嬢の暴走

ソフィア・フォン・ラングフォード公爵令嬢という、強力すぎる味方を得た結果、俺を取り巻く状況は、さらにカオスを極めていた。


ソフィア様が提唱した『アラン=神の器』説は、彼女の絶大な影響力によって、あっという間に学園の上流階級へと浸透したのだ。


俺を見る生徒たちの目は、もはや「聖女のペット」を見るそれではない。「歩くパワースポット」「生ける聖遺物」を見るような、畏敬と信仰の眼差しへと変わっていた。


「アラン様、どうかこのハンカチに、一筆……いえ、一度お触りください!」


「うちの家門の悩みについて、ご神託を……!」


廊下を歩けば、生徒たちが寄ってくる。

俺は笑顔で曖昧に頷きながら通り過ぎるだけの胡散臭い教祖様だ。


まずい。非常にまずい。


俺の『大脱走計画』は、「誰にも知られず、ひっそりと消えること」が絶対条件なのだ。

このままでは、俺が消えたら、ただの失踪事件では済まなくなる。王国中を揺るがす「聖遺物盗難事件」として、国を挙げた大捜索が始まってしまうだろう。


「アラン様。あなた様は、あまりにご自身を酷使なさりすぎですわ」


そんなある日、ソフィア様が憂いを帯びた顔で俺に言った。


「神の器といえど、その肉体は人の子。休息も必要です。本日は、私が主催するささやかなお茶会で、心をお休めくださいませ」


断れるはずもなかった。

何よりその茶会には、リリシア様も「アラン様の守護者として」招待されていた。俺が行かなければ、どうなるかは火を見るより明らかだ。



ラングフォード公爵家の管理する美しい庭園の一角。そこに用意されたテーブルで、俺は人生で最も胃が痛くなるであろう、地獄のティーパーティーに参加していた。


メンバーは、俺、リリシア様、そしてソフィア様の三人。


「さあ、アラン様、リリシア様。どうぞ、お召し上がりください。私の特製のスコーンですの」


ソフィア様が、にこやかに差し出した銀の皿には、完璧な焼き色のスコーンが並んでいた。

添えられたクリームとジャムも見るからに一級品だ。


俺は、恐る恐る一つを口に運んだ。


「……! 美味しい……!」


思わず心の声が漏れた。

外はサクッと、中はふんわりと温かい。小麦の豊かな香りと上品なバターの風味が口いっぱいに広がる。


日頃、俺の食生活はリリシア様の監視下で出される「栄養バランスは完璧だが、味は無機質」な食事と隠れて食べる「乾いたパン」で構成されている。

こんなに「まとも」で美味しいものを食べたのは、いつ以来だろうか。


「ソフィア様、これは本当に素晴らしいです! いくらでも食べられます!」


「まあ、お口に合って何よりですわ」


俺の素直な賞賛にソフィア様は嬉しそうに微笑んだ。


――その、穏やかな空気を、切り裂いたのは。


「ええ、美味しいですわね」


にこやかな表情のリリシア様だった。

彼女は優雅にスコーンを一口食べると、こう続けた。


「少し、甘さが庶民的かしら。ですが、素朴でよろしいんじゃなくて?」


チリッ、と。

その場に、見えない火花が散った。


完璧な淑女であるソフィア様の眉がほんのわずかに、ピクリと動く。


そしてリリシア様は、とどめの一撃を放った。

彼女はどこからともなく、小さな豪奢な箱を取り出したのだ。


「私もアランくんのために心を込めてお菓子を焼いてまいりましたの。ソフィア様もよろしければどうぞ」


箱が開けられる。

中に入っていたのは、クッキー……と思われるものだった。

だが、その色は、黒。焦げているというレベルではない。まるで木炭をそのまま押し固めたかのような、漆黒の物体。表面からは、なぜか微かに紫色のオーラが立ち上っている。


「さあ、アランくん。私の愛、受け取ってくださるわよね?」


リリシア様が、その漆黒の物体Xを俺に差し出す。逃げられない。

ソフィア様が見ている前で、これを拒否することは、リリシア様の顔に泥を塗る行為だ。

俺は殉教者の覚悟でそれを受け取った。


カリッ……ゴリッ!


硬っ! 歯が折れる! そして苦っ! これ、絶対ただの炭だろ!


もはや味という概念すらない。

ただただ、硬くて苦い。口の中の水分が、全て奪われていく。


だが、俺は世界最高の俳優になったつもりで、このクッキーに心を奪われたであろう表情を浮かべた。


「……お、美味しいです、リリシア様……。とても、こう……大地の力強さを感じるような……独創的なお味で……」


「まあ、嬉しいわ!」


俺の迷演技にリリシア様は満面の笑みだ。

そして、その魔の手はソフィア様にも伸びる。


「さあ、ソフィア様も。遠慮なさらずに」


「……ええ、いただきますわ」


完璧な淑女であるソリフィア様は、笑顔を崩さず、その物体Xを口に運んだ。


そして、その動きが完全に停止した。

彼女の紫色の瞳が、大きく見開かれ、焦点が合っていない。


「ソ、ソフィア様……?」


「……まあ……。これが……聖なる……試練の……お味……」


彼女は、公爵令嬢としての驚異的な精神力で、その致死性の物体を飲み込むと、ふらりと立ち上がった。


「わたくし……少々、神の啓示で目眩が……。本日は、これにて……」


そう言うと、彼女は侍女に支えられながら、ふらふらと退場していった。

後に残されたのは、ご満悦なリリシア様と口の中に広がる炭の味に耐える俺だけ。


だが、俺の脳内は別の衝撃で満たされていた。


――この人……料理、壊滅的に下手だ……!


――そして、全く自覚がない!


それは、神聖な力で全てをねじ伏せる彼女が持つ、あまりにも人間的で、あまりにも致命的な弱点だった。


これ、何かに使えるんじゃないか……!?


俺の『大脱走計画』に、初めて予想外の光明が差し込んだ瞬間だった。

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