13話 英雄(ピエロ)の凱旋
障害物競走のゴール地点で、俺はパンを咥えたまま立ち尽くしていた。
周囲の爆笑と、「奇跡の子だ!」「聖女様の愛の力だ!」という歓声が、まるで遠い世界の出来事のように聞こえる。
俺のささやかな計画――「そこそこに活躍して、リリシア様を満足させつつ目立たない」というのは、パンが自ら俺の口に飛び込んでくるという、前代未聞の珍事によって、木っ端微塵に砕け散ったのだ。
「アランくん、見事でしたわ! まるで、神に選ばれし英雄のようでした!」
貴賓席から降りてきたリリシア様が、ハンカチで俺の額の汗を優雅に拭う。その行為が、さらに周囲の注目を集めていることに、この人は気づいているのだろうか。
いや、気づいた上で、これ見よがしにやっているのだ。
「い、いえ、これはその、偶然で……」
「謙遜してはだめよ。さあ、胸を張りなさい。あなたは、私の誇りなのですから」
リリシア様は、俺の腕をがっちりと掴むと、観客席に向かって高々と掲げさせた。
うおおおぉぉぉ!という歓声。
俺は晒し者にされた罪人のような気分だった。英雄ではなく、道化だ。聖女様専属の笑われ者の道化。
もうダメだ。
午後の選抜リレーは、絶対に出るものか。
俺は、昼休みの時間を使って保健室に駆け込んだ。
「先生! 急に、腹部に激痛が……! うっ、これはもう、リレーなんてとても……!」
「あら、大変。少しベッドで休みますか?」
人の良さそうな保健の先生が心配そうに俺をベッドへ促す。
よし、このまま仮病で乗り切る!
俺がベッドに横になった、その時だった。
「――まあ、アランくん。こんな所でどうかなさいましたか?」
カーテンがシャッと開けられ、そこに立っていたのは、もちろんリリシア様だった。
彼女は、俺の腹部にそっと手を置くと、悲しそうに眉を寄せた。
「なんてことでしょう。邪悪な気が、あなたの体を蝕んでいますわ。日頃の疲れと私の愛を受け止めきれない、あなたの器の小ささが原因ですわね」
後半は余計だ!
「ですが、ご安心を。この私が聖なる力で、あなたの邪気を祓ってさしあげます」
リリシア様の手がふわりと暖かな光を放つ。
その光が、俺の腹部にすーっと吸い込まれていく。
次の瞬間、俺の体には、先ほどの聖ピングを遥かに凌駕する、凄まじいエネルギーが満ち溢れた。腹痛など、跡形もない。
それどころか、今ならドラゴンでも素手で倒せそうなほどの万能感だ。
「さあ、これで大丈夫。むしろ以前より元気になったはずですわ。リレー、楽しみにしておりますね」
リリシア様は完璧な聖女の笑みを浮かべて、保健室を去って行った。
後に残された俺と、一部始終を見ていた保健の先生。
「……アランくん。君、本当に人間?」
「……俺にも、もうよく分かりません」
俺のリレー欠場作戦は、聖なる力によって無慈悲に打ち砕かれた。
◇
そして、体育祭の最終種目、選抜リレー。
俺は、アンカーとして、スタートラインに立たされていた。俺が所属する赤組は、現在三位。トップの白組とは絶望的な差が開いている。
「アラン! 頼んだぞ!」
「奇跡を見せてくれ!」
チームメイトの悲痛な声援が飛ぶ。
無理だ。これ以上、奇跡という名の公開処刑を起こしてたまるか。
俺は、ごく普通に全力を出し、そして名誉ある三位でゴールすることを心に固く誓った。
バトンが渡される。俺は走り出した。
風が心地よい。体も軽い。だが、俺は必死に溢れ出る力を抑え込む。
前の走者との差は、縮まらない。それでいい。それがいいんだ。
――その時だった。
「――アランくん。私の英雄。今こそ翼を広げる時ですわ」
まただ。貴賓席からの悪魔の囁き。
次の瞬間、俺の背中に、まるで本当に翼が生えたかのような強烈な追い風が吹いた。
俺の足は地面を蹴っていない。まるで風に乗って滑空しているようだ。
「な、なんだぁぁぁ!?」
俺の意思とは無関係に体は猛烈なスピードで加速していく。
二人、抜いた。
そして、トップを走っていた白組のアンカーの背中が、あっという間に目の前に迫る。
「ま、待て! 待ってくれ俺の体!」
俺は必死にブレーキをかけようとする。
だが聖なる風は、俺をゴールへと強制的に運んでいく。ゴールまであと数メートルというところで、トップの選手が、何もない場所で見事に、派手にすっ転んだ。
まるで、見えないバナナの皮でも踏んだかのように。
俺は、その横を風のように駆け抜けた。
一位だった。
またしても、一位になってしまった。
グラウンドは今日一番の歓声に包まれた。
「すげえええ! アランのやつ、風を操ったぞ!」
「いや、最後のやつ、絶対聖女様が足引っ掛けたろ!」
「まさに神業! 聖女と英雄の愛の共同作業だ!」
もう、誰も俺を普通の人間として見ていない。
俺は、聖女リリシアの寵愛を受け、奇跡を振りまく伝説の存在になってしまった。
全ての競技が終わり、閉会式。
MVPとして表彰台に立たされた俺の顔からは、表情というものが完全に消え失せていた。
貴賓席でリリシア様だけが、我がことのように誇らしげに、涙ぐみながら拍手を送っている。
体育祭は終わった。
だが、俺の心に残ったのは、達成感ではなく、絶望的な徒労感だけだった。
目立ってしまった。
最悪の形で、伝説になってしまったのだ。
この名声は、俺の『大脱走計画』にとって、あまりにも重い足枷となるだろう。
俺は、聖女の掌の上で、さらにがんじがらめにされていく自分を感じていた。




