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12話 聖なるドーピング

学園祭まで、あと一ヶ月。

その前哨戦ともいえるイベントが先に開催されることになった。


――体育祭だ。


「アランくん。もちろん全ての競技に出場なさいますよね?」


「いや、無理です! 物理的に不可能です!」


「あら、そう? では、せめて花形競技である『障害物競走』と最終種目の『選抜リレー』には出ていただかなくては」


リリシア様は俺の意見など聞く気もない。

彼女は俺を、この体育祭で「聖女の寵愛を受けし英雄」として華々しくデビューさせるつもりなのだ。


俺の『大脱走計画』にとって、これ以上ない目障りな舞台。

だが、ジュリアス様の言葉を思い出す。


『祭りは、物事をひっくり返す絶好の舞台だ』。


そうだ。この体育祭も、使い方次第では、俺の計画の助けになるかもしれない。


例えば、体力をつければ逃亡生活の役に立つ。


例えば、目立たないように「そこそこ」活躍すれば、リリシア様を満足させつつ、俺への注目を逸らすことができるかもしれない。


「わかりました。出ますよ、それ」


俺が殊勝な態度で頷くと、リリシア様はうっとりと微笑んだ。


「よろしい子ですわ。もちろん私が特別コーチとして、あなたのトレーニングを徹底的に管理してさしあげます」


……余計なことを言ってしまった。


こうして地獄の個人レッスンが始まった。



早朝。まだ夜が明けきらぬ薄闇の中、俺は学園のグラウンドを走っていた。その隣には、なぜか修道服を軽やかに翻し、息一つ切らさずに並走するリリシア様の姿があった。


「さあ、アランくん! 足が止まっていますわ! 神の祝福を受けたいのなら、その肉体を極限までいじめ抜きなさい!」


「はぁ……はぁ……む、り……」


この人、聖女じゃなくて軍曹なんじゃないだろうか。


俺がへばるたびに、どこからともなく取り出した聖水を頭からザバーッとかけてくる。


「これは、私が聖なる泉で汲み、三日三晩祈りを捧げた特別な聖水。飲むだけで、常人の三倍の活力が湧いてきますわ。さあ、一気にお飲みなさい」


「ごふっ!? これ、本当にただの聖水ですか!? なんか、こう……体が内側から発光するような……!」


明らかにヤバい効果だ。

これはもうドーピングの領域だ。


聖なるドーピング、略して聖ピングだ。


トレーニングは、ランニングだけでは終わらない。


剣の素振りをすれば、「その太刀筋では、私の心を射抜けませんわ」と神聖なオーラをまとった木の枝でビシバシと尻を叩かれる。


弓を引けば、「その矢では、愛のキューピッドにはなれませんことよ」と的のど真ん中にどこからか飛んできた光の矢が突き刺さる。


リリシア様のスパルタ(物理&神聖)教育のおかげで俺の身体能力は、わずか数日で人間離れしたレベルへと引き上げられていった。


これは逃亡計画にとっては、間違いなくプラスだ。だが、同時に、俺の心は別の恐怖に支配されつつあった。


――このままじゃ、体育祭で、絶対に目立ちすぎる。



そして、体育祭当日。

快晴の空の下、生徒たちの熱気がグラウンドに渦巻いていた。


俺は胃の痛みを堪えながら、障害物競走のスタートラインに立っていた。


「アラン様、頑張ってー!」


「聖女様のお気に入りだろ! 見せてやれよ!」


観客席からは、野次とも声援ともつかない声が飛んでくる。そして貴賓席の中央では、リリシア様が一人、優雅に扇を仰ぎながら、俺にだけ分かるように、にっこりと微笑んでいた。


パンッ!


号砲が鳴り響く。


俺は意図的に少しだけ出遅れた。目立ちすぎず、かといって無様でもない。

五位くらいをキープするのが理想だ。


最初の障害は網くぐり。


よし、ここで少しだけ手間取るフリを……。


その瞬間、俺の体が勝手にありえないほどの俊敏さで網を抜けていた。

リリシア様の聖ピングの効果が、今になって爆発したのだ。


「なっ!?」


自分でも驚くほどのスピードで、俺はトップに躍り出てしまった。


次の障害は平均台。

ここでバランスを崩して……と思いきや、俺の足は、まるで吸い付くように台の上を駆け抜けていく。


まずい。まずいまずい!


俺は必死にスピードを落とそうとする。

だが、体が言うことを聞かない。


リリシア様の過剰な祝福が俺の肉体を支配しているのだ。


最後の障害は、パン食い競争。

ぶら下がったパンを、口でキャッチする、あの和やかな競技だ。


ここで時間をかければ……!


俺がパンに狙いを定めた、その時。


「――アランくん。あなたに神の恵みを」


貴賓席からリリシア様の囁きが聞こえた気がした。次の瞬間、俺が狙っていたパンがひとりでに、ふわりと宙に浮いた。

そして、まるで意思を持っているかのように、俺の口元へと寸分の狂いもなく吸い込まれてきたのだ。


パクッ。


俺は何もしていない。

ただ、口を開けていただけだ。それなのに、完璧なタイミングでパンをゲットしてしまった。


観客席がどよめき、そして爆笑に包まれる。


「なんだ今の!?」


「パンが、アランの口に自爆しにいったぞ!」


「奇跡だ! 聖女様の奇跡だ!」


俺は口にパンを咥えたまま、一位でゴールテープを切ってしまった。最悪の形で。

最も屈辱的で、最も目立つ形で。


貴賓席でリリシア様が満足げに頷いているのが見えた。

その目は、こう語っているようだった。


『私の英雄おもちゃは、これくらいできて当然ですわ』


俺のささやかな抵抗は、聖女様の掌の上で一人芝居として完結したのだ。

この体育祭、もはや俺に逃げ場はない。

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