12話 聖なるドーピング
学園祭まで、あと一ヶ月。
その前哨戦ともいえるイベントが先に開催されることになった。
――体育祭だ。
「アランくん。もちろん全ての競技に出場なさいますよね?」
「いや、無理です! 物理的に不可能です!」
「あら、そう? では、せめて花形競技である『障害物競走』と最終種目の『選抜リレー』には出ていただかなくては」
リリシア様は俺の意見など聞く気もない。
彼女は俺を、この体育祭で「聖女の寵愛を受けし英雄」として華々しくデビューさせるつもりなのだ。
俺の『大脱走計画』にとって、これ以上ない目障りな舞台。
だが、ジュリアス様の言葉を思い出す。
『祭りは、物事をひっくり返す絶好の舞台だ』。
そうだ。この体育祭も、使い方次第では、俺の計画の助けになるかもしれない。
例えば、体力をつければ逃亡生活の役に立つ。
例えば、目立たないように「そこそこ」活躍すれば、リリシア様を満足させつつ、俺への注目を逸らすことができるかもしれない。
「わかりました。出ますよ、それ」
俺が殊勝な態度で頷くと、リリシア様はうっとりと微笑んだ。
「よろしい子ですわ。もちろん私が特別コーチとして、あなたのトレーニングを徹底的に管理してさしあげます」
……余計なことを言ってしまった。
こうして地獄の個人レッスンが始まった。
◇
早朝。まだ夜が明けきらぬ薄闇の中、俺は学園のグラウンドを走っていた。その隣には、なぜか修道服を軽やかに翻し、息一つ切らさずに並走するリリシア様の姿があった。
「さあ、アランくん! 足が止まっていますわ! 神の祝福を受けたいのなら、その肉体を極限までいじめ抜きなさい!」
「はぁ……はぁ……む、り……」
この人、聖女じゃなくて軍曹なんじゃないだろうか。
俺がへばるたびに、どこからともなく取り出した聖水を頭からザバーッとかけてくる。
「これは、私が聖なる泉で汲み、三日三晩祈りを捧げた特別な聖水。飲むだけで、常人の三倍の活力が湧いてきますわ。さあ、一気にお飲みなさい」
「ごふっ!? これ、本当にただの聖水ですか!? なんか、こう……体が内側から発光するような……!」
明らかにヤバい効果だ。
これはもうドーピングの領域だ。
聖なるドーピング、略して聖ピングだ。
トレーニングは、ランニングだけでは終わらない。
剣の素振りをすれば、「その太刀筋では、私の心を射抜けませんわ」と神聖なオーラをまとった木の枝でビシバシと尻を叩かれる。
弓を引けば、「その矢では、愛のキューピッドにはなれませんことよ」と的のど真ん中にどこからか飛んできた光の矢が突き刺さる。
リリシア様のスパルタ(物理&神聖)教育のおかげで俺の身体能力は、わずか数日で人間離れしたレベルへと引き上げられていった。
これは逃亡計画にとっては、間違いなくプラスだ。だが、同時に、俺の心は別の恐怖に支配されつつあった。
――このままじゃ、体育祭で、絶対に目立ちすぎる。
◇
そして、体育祭当日。
快晴の空の下、生徒たちの熱気がグラウンドに渦巻いていた。
俺は胃の痛みを堪えながら、障害物競走のスタートラインに立っていた。
「アラン様、頑張ってー!」
「聖女様のお気に入りだろ! 見せてやれよ!」
観客席からは、野次とも声援ともつかない声が飛んでくる。そして貴賓席の中央では、リリシア様が一人、優雅に扇を仰ぎながら、俺にだけ分かるように、にっこりと微笑んでいた。
パンッ!
号砲が鳴り響く。
俺は意図的に少しだけ出遅れた。目立ちすぎず、かといって無様でもない。
五位くらいをキープするのが理想だ。
最初の障害は網くぐり。
よし、ここで少しだけ手間取るフリを……。
その瞬間、俺の体が勝手にありえないほどの俊敏さで網を抜けていた。
リリシア様の聖ピングの効果が、今になって爆発したのだ。
「なっ!?」
自分でも驚くほどのスピードで、俺はトップに躍り出てしまった。
次の障害は平均台。
ここでバランスを崩して……と思いきや、俺の足は、まるで吸い付くように台の上を駆け抜けていく。
まずい。まずいまずい!
俺は必死にスピードを落とそうとする。
だが、体が言うことを聞かない。
リリシア様の過剰な祝福が俺の肉体を支配しているのだ。
最後の障害は、パン食い競争。
ぶら下がったパンを、口でキャッチする、あの和やかな競技だ。
ここで時間をかければ……!
俺がパンに狙いを定めた、その時。
「――アランくん。あなたに神の恵みを」
貴賓席からリリシア様の囁きが聞こえた気がした。次の瞬間、俺が狙っていたパンがひとりでに、ふわりと宙に浮いた。
そして、まるで意思を持っているかのように、俺の口元へと寸分の狂いもなく吸い込まれてきたのだ。
パクッ。
俺は何もしていない。
ただ、口を開けていただけだ。それなのに、完璧なタイミングでパンをゲットしてしまった。
観客席がどよめき、そして爆笑に包まれる。
「なんだ今の!?」
「パンが、アランの口に自爆しにいったぞ!」
「奇跡だ! 聖女様の奇跡だ!」
俺は口にパンを咥えたまま、一位でゴールテープを切ってしまった。最悪の形で。
最も屈辱的で、最も目立つ形で。
貴賓席でリリシア様が満足げに頷いているのが見えた。
その目は、こう語っているようだった。
『私の英雄は、これくらいできて当然ですわ』
俺のささやかな抵抗は、聖女様の掌の上で一人芝居として完結したのだ。
この体育祭、もはや俺に逃げ場はない。




