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10話 偽りの降伏

俺は怪物と戦っている。

人の心を玩具にし、その希望と絶望を眺めて楽しむ、聖女の皮を被った怪物が相手だ。


ならば、こちらもやり方を変えるしかない。


――怪物に勝つには、まず、その餌になってやらねばならない。


俺の『大脱走計画』は、新たなるフェーズへと移行した。


名付けて『作戦コード:偽りの降伏(スモークスクリーン)』。

リリシア様に、俺が完全に「骨抜きにされた」と信じ込ませる。彼女が勝利を確信し、その監視の目をわずかでも緩めた瞬間こそ、俺が自由を掴む唯一のチャンスなのだ。


翌日から、俺は完璧な「飼いならされた男」を演じ始めた。

図書館では、『辺境の歩き方』を棚の奥深くに隠し、代わりに『教会法概論』や『王国の紋章学』といった、いかにも真面目な本を机に広げた。


「リリシア様。この、第二期神聖暦における異端審問の判例についてなのですが……」


「まあ、アランくん! なんて難しい本を読んでいるの? えらいですわね! もちろん、私が教えてさしあげます!」


俺が殊勝な態度で質問すると、リリシア様は案の定、大喜びで俺の隣に座り、手取り足取り物理的に手と足が触れ合う距離で講義を始めてくれる。

その間、頭の中ではアルトス山脈の等高線を必死に暗唱していた。


昼休みには、あの地獄の「あーん」が待っている。以前の俺なら全力で抵抗した。


だが、今の俺は違う。


「さあ、アランくん。今日のお弁当は、あなたの好きな鳥の香草焼きですよ。あーん」


「……いただきます」


俺は死んだ差し出された香草焼きを口に運んだ。抵抗を止めた俺に、リリシア様は満足げに微笑む。

その光景を見ていたエマさんとジュリアス様がドン引きしているのが視界の端に映ったが、もはや構っていられない。


俺は壊れた人形を演じる。

魂を抜かれた抜け殻を。


リリシア様の庇護のもとで安穏と生きることを選んだ、哀れな男を。しかし、その作戦は皮肉なことに効果てきめんだった。



「ウォルトンくん。貴様、本当にあの聖女に魂を売ったのか?」


ある日の放課後、ジュリアス様が苦々しい表情で俺に話しかけてきた。


「見るに堪えないぞ。まるで意思のない操り人形だ。それでいいのか、君は」


「アランくん、元気出して! もし何かあるなら、私たちが……!」


隣では、エマさんが本気で心配そうな顔をしている。


二人の優しさが、胸に突き刺さる。

本当のことを叫びたかった。助けてくれ、と。俺は今、とんでもない怪物と戦っているんだ、と。


だが、言えない。

ここでボロを出せば、全てが水の泡だ。


その時だった。


「あら、皆様。アランくんとお話でしたの?」


俺たちの背後に音もなくリリシア様が現れた。

以前の彼女なら、ジュリアス様やエマさんに対して、あからさまな牽制をしてきただろう。


しかし今の彼女は違った。

リリシア様は、勝利者の余裕を湛え、ポンと俺の肩に手を置いた。

それはまるで自慢のトロフィーを皆に見せびらかすような仕草だった。


「皆様、ご心配には及びませんわ。アランくんは今、精神的にとても安定している時期なのです。ようやく、自分の本当の居場所が……私の隣が、一番幸福なのだと、わかってくれたのですよ」


その言葉は悪魔の宣告だった。


そして俺はその宣告を肯定しなければならない。


「……はい。リリシア様の仰る通りです」


俺は顔を上げずに、か細い声で答えた。

その瞬間、ジュリアス様は軽蔑するようにフンと鼻を鳴らし、エマさんは悲しそうに俯いた。

二人は、それ以上何も言わずに俺の元から去って行った。


味方がいなくなった。

俺が自ら最後の繋がりを断ち切ったのだ。


これでいい。

彼らをこれ以上、危険に晒すわけにはいかない。


俺は自ら選んだ孤独の檻の中で水面下の闘いを続ける。日中は聖女様のペットを演じ、人々が寝静まった深夜、ベッドの中で地図を広げ、なけなしの銀貨を数える。

リリシア様の勝ち誇った笑みの下で、俺の『大脱走計画』は、誰にも知られず静かに、しかし着実に進行していた。


――今は、これでいいんだ。


――自由のためなら、どんな屈辱にだって耐えてみせる。


俺は固く拳を握りしめ、暗い夜空にまだ見ぬ未来を誓った。


本当の戦いは、ここから始まるのだ。

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