月光⑤ 二人のためのソナタ
激闘を終えてお腹も満たして頭ハッピーだった所に、
「今夜、一人で私の部屋に来て。二人きりで話したいことがあるの」
なんて甘い台詞を渋谷真姫菜先輩に囁かれてさらに浮かれちゃいたいぐらいだったんだけど、悲しいことにあたしはおそらく恋のライバルで、そんでもって勝負で負かしてしまった後なのでした。
何を言われるのかビビりまくってぶるぶる震えながら、あたしは館の薄暗く長ーい廊下をひとり歩き、目的の部屋へと異常にゆっくりと進んでいた。
「……先輩相手じゃ、かなわないもんなあ」
渋谷先輩は綺麗だ。それだけじゃなくて、きっととても優しい。今日会ったばかりだけどそれはよく分かる。
先輩が月ならあたしはスッポン。百合とペンペン草。人魚姫とおたまじゃくし。タラバガニとカニカマ。男の子ならどっちを選ぶかなんて、火を見るよりも明らかだ。
勝負の前、釣り合わないから諦めた方がいい、って言われた時、悲しいことにあんまりショックじゃなかった。そんなことはあたしが一番よーく分かってる。
あたしと高遠くんはどうしたって交わらない正反対の人だ。本当はただのクラスメイトのまま、話すこともできずに終わっていくはずだった。神さまに頼み込んでずるをしてそばにいるんだから、ここで怒られるのはむしろ遅すぎることなのかもしれない。
廊下の端、指定された部屋の前に立つと、あたしはすーっと深呼吸をしてから、意を決してドアをノックした。程なく「どうぞ」と凛とした声が返り、恐る恐るその扉を開ける。
「ごめんね、疲れてるのに遅くに呼び出しりして。……来てくれてありがとう。こっちにおいでよ、師匠の秘蔵の棚からこっそりお菓子くすねて来たから一緒に食べよう」
ふわふわのベッドの上に腰掛けていた渋谷先輩はあたしを見ると、人差し指を唇に当てて、花がほころぶように微笑む。大きな窓から見える月の光だけが照らす、薄明るい室内に佇むその姿は、天使か女神様みたいに幻想的だった。
先輩の自室はそれほど広くなく、半分をベッド、もう半分を大きな鍵盤楽器が占めていた。それは形が多少違っているけど、元の世界で言うピアノによく似ている。この部屋はもともとこの楽器を置くための場所で、後から無理やりベッドを押し込んだんじゃないかなって印象を受けた。
ベッドを軋ませておずおず隣に座ったあたしに、先輩はサイドテーブルに置いていたカップを手渡してくれる。ホットミルク。ほんのりと立つ湯気が鼻先を掠めて、ちょっとだけほっとした。
テーブルの上にはクッキーの山がお皿に盛られていて、あたしはドキドキしてたのも忘れて目を輝かせてしまう。しかし「こんな時間にバターと砂糖と小麦粉の塊食べるなんて、濃厚な罪の味がしそうだよね」と先輩が楽しげに笑ったので、遠慮なく食べようと伸ばした手を引っ込めてあたしは唇を噛んだ。なにしろさっきビーフシチューを三杯もおかわりしていたものでして……。
「あの、先輩。お話って……」
「うん。……あのねアリアちゃん、深くんのことなんだけど」
き、来た! いきなりとどめを刺しに来たーー!
まずい、正論で諭されたらバカだからうっかり頷いてしまいそう、いやいやがんばれ雨宮アリア、この恋は何度か死にかけたけど地獄の底から這い上がって来たしぶとさだけが取り柄のアンデッド系片思い! 意地を見せなきゃ、恋は殺られる前にとりあえず先手必勝──!
「あの子のことよろ……」
「あの、あたし、自分に望みがちっとも無いの分かるし、諦めた方が楽になれるのかなって思ったこともあるけど……それでもやっぱり大好きだから、一生懸命頑張るつもりなので! だからえっと……? そ、そっとしておいてください、いつか当たって砕けるまで!!」
ホットミルクを保護するべく献杯っぽく天井に掲げつつ、あたしは器用にベッドの上で土下座をした。
渋谷先輩はだいぶ引いて目をぱちくりさせそれを見下ろしていたけど、やがてぷっと吹き出して、両手でカップを押さえながらくすくすと楽しそうに笑った。
「…………な、なんで笑うんですかっ? これが勝者の余裕……?」
「ふ、ふふ、ごめんね、一生懸命なのが可愛くてつい……。あのねアリアちゃん、諦めなくっていいよ。あと砕けないよ当たっても。深くんのこと、これからもどうかよろしくね」
先輩は目を細め、ぺこりと可愛らしくお辞儀してそう言った。
………………。
「…………だ、」
「だ?」
「だめですよそういうの! 先輩が優しいのは分かってましたけど、恋愛で自己犠牲なんてクソ喰らえです、自分の気持ちに嘘ついちゃダメっ!!」
「アリアちゃん?」
「あたしも同じ穴のナズナだから分かるけど、高遠くんのこと好きになるのは自然の摂理、宇宙の法則ですもんっ! あんな素敵な人がそばにいたら自然に好きになっちゃうの分かりますよ、うんうん、被っちゃってもしょうがないです! でもいくらあたしが無謀で可哀想だからって、自分の好きな人のこと譲ったりしちゃ絶対ダメ! あたしは誰がいようといなかろうとただ頑張るだけです! ……高遠くんがどっちを選ぶのかは、分かりきってる気もしますけど……それでも一緒に正々堂々と戦いましょう! ねっ!?」
「あ……えっと……アリアちゃん? 何か勘違いしてない? あと同じ穴の狢、ナズナはペンペン草……」
必死に捲し立てていたら、いつの間にか先輩はベッドに仰向けになりあたしを見上げていた。あれ。どうも熱弁しすぎてうっかり押し倒しちゃってたらしい。赤くなりながら困惑する先輩を見下ろして、とりあえず上がったボルテージを落ち着かせようとホットミルクに口をつける。おいしーい。
先輩は長い亜麻色の髪を絵画的美しさでシーツの上に散らしながら、両手で支えたカップにきゅっと力を込めて、不服そうに眉根を寄せている。
「……あの、私。深くんと付き合うのとか、死んでもイヤなんだけど……」
…………………エ゛ッ!?
そ、それは沈まない太陽、溶けない雪、落ちないリンゴと同じぐらいあり得ないお話では!?
高遠くんと付き合うのが死んでもイヤ……!? あたしなんて実った直後に死んでも良いから付き合いたいぐらいなのに!!
「な、なんでですか!? そんなにお似合いなのにっ! あたしと高遠くんじゃ釣り合わないって先輩も言ってたじゃないですか!」
カップをテーブルに叩きつけ、両手を先輩の顔の横について詰問するあたしに、彼女は「……あ!?」と目を見開いて焦ったように首を振った。
「ち、違う違う! 釣り合わないっていうのはアリアちゃんがじゃなくて、深くんがってこと!」
言っている意味が分からないでぽかんとしていると、先輩はゆっくり身を起こし乱れた髪を整え、ちょっと怒ったようにあたしに向き直る。
「アリアちゃんみたいな良い子と、深くんみたいなポンコツダメ男じゃ釣り合わないって言ったんだよ。ああ本当に勿体無い! アリアちゃんなら他にもっと良い男腐るほどいるよ次いこ?」
「それ失恋した人に言うセリフです、せんぱい」
ぷりぷり怒る先輩はとっても可愛らしかったけれど、それにしても予想外の展開に頭がぽーっとする。
「だーれがあんなダメダメさらにダメな、三乗駄目人間を好きになるもんですか。あんなの神様から無駄に整った顔と人並み以上の器用さ頭の良さ運動神経の良さをたまたま授かって生まれただけで、中身はまるで駄目なお子さまじゃない! あんなのを好きになる女の子の気が知れないね、うん、そんな女子は全くもって度し難い大バカだよ!」
「目の前にその度し難い大バカがいるんですけど……」
呆然とするあたしをそっちのけで渋谷先輩はつり上がっていた眉を下げると、胸に手を当ててどこか痛切な面持ちで俯く。感情が忙しそうだ。
「でも、あの子があんな紛らわしいことになったのも元を正せば私のせいなんだ……本当にごめんねアリアちゃん、落ち着いて聞いてね」
「はあ……?」
「──あの王子様風爽やか優等生の顔は全部後付け。私プロデュースの大幅なキャラ変の結果なんだよ」
きゅっと眉根を寄せ、一世一代の罪の告白のような懸命さでもって、渋谷先輩は厳かに告げた。
…………。え、ええ?
「どゆことです……?」
「アリアちゃん、深くんとはクラスメイトだったんでしょ? 『高遠深也』は社会的に見てどんな人間だった?」
「しゃ、社会的……? えっと、学内で知らない人はいないくらいかっこよくて有名で、いつも友達に囲まれてて、勉強も部活も真面目に頑張ってて、なのに誰の劣等感も刺激せず優しくて穏やかでみんなに慕われてる人気者、って感じでしたけど……?」
「ああっ、指示に忠実っ、私ってば齢7歳にして名プロデューサーだったんだわ……!」
くらっと眩暈を覚えたようによろめいた先輩はすぐさま立ち直ると、キリッとした表情を作りあたしに向き直った。
「私たちが血の繋がらない双子のように過ごしていた7歳の頃。深くんはアリアちゃんが見ていたのとは正反対の人間だったんだよ。──それこそ、そのままにしては離れられないぐらいにね」
古い本の頁をめくるように静かに、先輩は言葉を紡ぐ。
「頭が良すぎるせいなのか……無駄に冷めてるというか達観してる子で。超が付くほど人付き合いが下手くそでね、良く言えば自分に嘘がつけないともいうのかな。正義感が強すぎるせいでしょっちゅう喧嘩を買ってたんだけど、本当のことなら何でもハッキリ言うせいで相手の痛い所を的確に刺すから泣かせて逆に悪者扱いされたり……。何でも出来る才能があるのに簡単そうな顔して人並み異常に努力もするから、周りが勝手に挫折して逆ギレされたり……。せめて愛想が良ければマシだったんだけど媚びるという機能が欠落していて一人称は2歳から『俺』で何の可愛げもなかったし、面白くなければにこりとも笑わない仏頂面。深くんが素直に笑った顔なんて、私、数える程しか見たことなかったんだから」
先輩の話を、どこかおとぎ話のようにぼんやりと聞く。あの高遠くんが?
「そんなんだから、あの顔に惹かれて寄ってきた人に『思ってたのと違う』とか勝手に幻滅されて……仲の良い友達なんかゼロだったし、遊び相手すら私ぐらいしかいない悲しい子供だったんだから」
見たこともないちいさな頃の高遠くんの、寂しそうな後ろ姿が脳裏に浮かぶ。あたしは身動きもせず先輩の声にただ耳を傾けていた。
「そんな中で向こうの引っ越しが決まったから、私もさすがに心配で……つい言っちゃったんだよね、『そんなんじゃいつか一人ぼっちになっちゃうよ』って。そしたら珍しく言い返さずに不安そうな顔なんてされたもんだからさ、不憫に思ってアドバイスしたの。そつなく平和に生きるための、上手な自分の殺し方ってやつを」
処世術とも言うのかな、と付け加えて、ぴっと背筋を伸ばすと。先輩はかつて幼い高遠くんにそうしたようにだろう、切々と説き伏せるように淀みなく言った。
「不機嫌な表情をするなそんなつもりがなくても周りは嫌な気分になる、嘘でもいいからにこにこ笑っとけ、本当のことでもよっぽど親しい仲でもない限り相手にとってマイナスなことは口が裂けても言うな。口調は優しく物腰は柔らかに、集団の中で角が立つようなことは死んでもするな言うな、喧嘩なんてもってのほか。全力を尽くして周囲の理想に添ってあげて、せめて大人になるまでなるべく穏やかに過ごせるようにがんばりなさい。そうすれば、楽しいかは分からないけど少なくとも生きるのは楽だから」
とても7歳の女の子が言うことには思えず戦慄するあたしの前で、先輩は苦々しげに眉根を寄せた。
「あの子根は律儀で真面目でしょう、『わかった』って言ってそれきり会ってなくて、今ごろ失敗して孤高の高校生になってるんじゃないかと思ってたけど……どうやら成功したみたいだね。でもその代わり、アリアちゃんみたいな犠牲者を出してしまったわけだ。……本当にごめんなさい」
しゅんと肩を落とし、申し訳なさそうに先輩は頭を下げた。狼狽えるあたしに構わず、顔を上げた彼女はつらそうに続ける。
「アリアちゃんは、優しくて王子様みたいな深くんを追いかけてこんな危険な世界について来ちゃったんでしょう? 私分かるんだ、アリアちゃんは普通の女の子で、異世界召喚なんてものに巻き込まれるような特異な思考も戦う意思なんてものも無い。あんなふざけた神さまに選ばれるはずがないって」
ああ、それで妖刀を返したくないとか戦うべきじゃないって言ってたのか……。渋谷先輩、やっぱり優しい人だ。うれしくて、悲しそうな彼女には悪いけどへへっと笑ってしまう。
「私のせいでこんなことに巻き込んでごめんね。……どうにか元の世界に無事に帰る方法を見つけるから、私が必ず君を……」
「大丈夫ですよ先輩。多分プロデュースは大失敗です」
きょとんとする先輩を見つめながら思う。
元の高遠くん、ってのがどんなのか知らないし、よく分かんないけど。でも、
「この世界に来てからの高遠くんは、敵と見るとあたしなんかそっちのけで全力で戦っちゃうし、すぐムキになるし、拗ねるしいじけるし、怒ると口調が崩れちゃうし……意見がぶつかって喧嘩になったことも何回もありました。泣かされたことも、そういえばいっぱいあった……全然、王子様みたいな人じゃなかったです。でもね、この世界に来る前も後も、ずっと変わらず優しかった」
思い出しながら、笑ってしまう。怒った顔、泣いた顔、笑った顔────いつだって高遠くんは一生懸命だった。たとえ格好良くなくても、そんな高遠くんだったからあたしは……
「高遠くんといて、これまですごく楽しかった。前よりもっと好きになっちゃいました。だから心配しなくて大丈夫ですよ」
心からそう思い、えへへと頰を掻く。本人にじゃなくても、こういうのって照れちゃうなあ。
そんなあたしをどこか眩しそうに見つめながら、先輩は静かに呟く。
「……私は深くんに、こうも言ったんだ。でも本当に心を許して、仲良くなりたいと思う人が現れたら、その時は怖がらずに素の自分を見てもらいなさい、って」
胸に手を当て、先輩は頷く。
「よかった、深くん、ちゃんと見つけたんだね。……アリアちゃん、あんなのだけど、深くんのことこれからもよろしくね」
月の光を背に穏やかに微笑む渋谷先輩は、見とれるくらいにとっても綺麗だった。
* * * * * *
「あ、ところであれってピアノですか? もしかして先輩弾けます?」
二人で仲良くベッドの淵に座り、すっかりぬるくなったミルクを飲みながら。あたしは「あれ」とピアノによく似た鍵盤楽器を指差した。
「うん、物心つくより前からずっと習ってたから。私が師匠に弟子入りしたのはね、あの物騒な二つ名を幾つも持つ大魔女から、どうにかスキルに代わる攻撃の術を得られないかと思ったから。でもそれ以上に、この館からピアノの音が聞こえたからなんだ。……一応今年は受験生だし、一日でも触らないと取り返しが付かないくらい指が鈍っちゃうからね」
先輩は静かに立ち上がり、ピアノに歩み寄ると、指で鍵盤の一つをトンと叩いた。高い音が静かな部屋に響くと、それはきっと先輩にとって何よりも安心できるものなんだろう、嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ先輩、音大に行くんですか? すごーい!」
鍵盤ハーモニカもろくに鳴らせないあたしとしては大尊敬してしまう。あの長くて綺麗な指は、ピアノを弾く指だったのだ。
「希望だけどね。……人には戦う意思がとか言っておきながら、私も結局は臆病者なんだ。これが最弱の愛読書を選んだ理由。どうしても、指に怪我をして使い物にならなくなるのだけは怖かった。だから武器を取って戦わなくてもなんとか生きていけそうなスキルに逃げた……勇者なんて名ばかりのずるい奴でしょう」
手の平をじっと見つめ、先輩は自嘲気味に言う。
「だから私、みんなの足を引っ張ると思う。どうにか戦う方法を見つけたいとは思ってるから、申し訳ないけどそれまでは……」
「いいんですよ先輩は戦わなくて。あたしの愛読書は結構無駄に強いので! でも結構な確率でヘマするので、サポートよろしくお願いしますね」
ぶい、とピースで答えるあたしに、先輩は目を丸くしながら、「ほんとに深くんにはもったいないな」と笑った。
「ねえ先輩、よかったら一曲弾いてくれませんか?」
「うん、いいよ。いろいろ騒がせたお詫び。何がいいかな?」
自分でリクエストしておきながら、はてと困ってしまう。あたしはクラシックなんて全く聴かないし、もっぱらチカちゃん達おすすめの流行りの曲を横でふんふん聴いてるだけなのだ。ちっちゃい時はアイスクリームの歌とかおべんとうばこの歌とかを狂ったように歌ってたけど、さすがにピアノ専攻の人に弾いてもらうにはちょっと……。
「そうだ、深くんも小さい頃たまに、こんな風にピアノをねだったことがあったんだ。あの子の好きだった曲にしようか?」
「え! はい、聴きたいです、ぜひ!」
先輩の名案にあたしはぱあっと顔をほころばせて大きく頷いた。ベッドの上で膝を抱え、たった一人のための贅沢なリサイタルに胸を踊らせる。
革張りのチェアに腰掛けた先輩は、白い指を鍵盤に乗せると、静かに息を吸って目を閉じる。
──緩やかに響き始める、ちょっと悲しげな三連符。
その音に聴き入りながら、あたしは窓から覗く月の光に、今ここにはいない、この曲を好きだという人のことをただ想った。
* * * * * *
先輩の部屋を出て廊下に出ると、扉の横に立っていた、お化けを見るように驚いた顔をした彼と目があったもので、あたしはうれしくてついつい笑ってしまう。
「こんばんは、高遠くん」
「…………こんばん、は。雨宮さん」
駄目の三乗男こと高遠深也くんは、暗い廊下でもなお輝く王子様みたいな顔で、実にぎこちなく会釈した。




