そして二人の物語
「ただいま」もそこそこに手を洗い、鼻歌交じりに冷蔵庫を開ける。
すぐさま視界に飛び込んで来たプリンにキラン! と目を輝かせた直後、カップにでかでかと油性ペンで書かれた「オレの。アリアさわるべからず」の文字に目から光が失われる。
しかーし。
「……ほお、良いこと言いますねぇ魔王さん。そうです、これは世界救済税です。兄も許してくれるでしょう」
心の中で響いた運命共同体の悪魔のささやきにフッフと同意し、スッとカップを手に取る。
私は何も見なかった。側面を手で覆うようにしてぼふっとソファに寝転んだ。
「おかえりー、おいアリア先に言っとくけど冷蔵庫のプリンはオレの……って遅かった!?」
スウェット姿で二階から降りて来たカノンお兄ちゃんが、甘美なるたまご的ぷるぷるをスプーンで口に運ぶあたしを見て絶叫する。
「ただいまお兄ちゃん、受験勉強おつかれです」
「バッカお前ついに日本語も読めなくなったのか!? くそ、返せ! 人の貴重な糖分を!」
「うるさいなー、もう8割はおなかの中ですぅー。大体いいじゃんこれぐらい」
「あぁ?」
「だってあたし、すーっごくがんばったんだから」
「……お前最近、よく言うよな、それ。一体何をそんなにがんばったってんだ?」
不思議そうな兄を見て、あたしは満足してにやりと笑う。うん、なんにも覚えてないようだ、魔王さんの記憶消去は今日も完璧だ。
「なんだろうね。世界でも救ったのかもよ?」
言われてお兄ちゃんは、「なんでバレた!?」的な焦った顔でうろたえ始めたので、あたしはあっはっはと笑って最後の一口にぱくついた。そう、それでいい。
実は世界を救った勇者の兄と、なんにも知らない普通の妹。あたしたちは、あたしと魔王さんが捏造したその平和な認識の中で、ずーっと仲良く生きていければ良いのだ。
あれから季節はゆるやかに巡って行った。
体育で測定した100m走の記録は18秒。お風呂で試した息止めは10秒でギブ、10kgのお米を持ち上げるのにも苦労し、1km先の景色なんてもちろん見えやしない。
愛読書を胸に冒険をくり広げたあの日々が嘘だったみたいに、帰ってきたあたしはあまりにも普通の女子高生に戻っていた。
魔王さんは本当にこの世界では無力だった。ほとんど眠っている状態で、生きてるのか心配でたまにうるさくあたしから話しかける程だ。
でも時々、授業中に当てられて絶体絶命の時にそっと助言してくれたり、不注意ですっ転びそうになった時にさり気なく教えてくれたりする。同居人としてはなかなか良い人だった。
それにこの人が健在ということは、あの神さまも健在で、あの異世界は今も確かに存在するってことだから、それが分かるだけであたしはとっても嬉しかった。
あたしの存在は、異世界召喚された6人の記憶からきれいに消え去っているはずだ。
帰ってきた日、再会したお兄ちゃんは表情一つ変えず「おかえり」と菓子パンを頬張っていた。ついでに悲しい大学受験の結果をあっさり告白して堂々と勉強に勤しんでいた。
何年も言い出しづらかったらしい事情をちゃんと話してあたしに向き合ってくれたのは、きっとたくさんの冒険が良い影響を与えた結果かなと思う。
あの異世界での経験が、みんなにとって力になってくれているなら嬉しいことだ。例えその中にあたしがいなくても。
そして、雲の上の人はまた雲の上に。
ただのクラスメイトに戻った高遠深也くんは、あたしと旅したことも両思いだったことも、ちゃんときれいに忘れてくれていた。
あの冒険の日々の名残を、高遠くんに見出すことは難しかった。相変わらず爽やかで、優しくて、誰にでも好かれて、何でも出来てしまう。あたしの前で子供のように拗ねたり、怒ったり、泣いたりしていたことがとても懐かしい。
いつかそんな表情をまた誰かに見せられる日が来れば良いなと願うけど、それが自分じゃないと思うと寂しくなってしまうのは、ただのエゴだ。
もともと接点が無さすぎてどうやって話しかけたら良いか苦悩するぐらいだったから、他人で居続けることは造作もないことだった。それはとても喜ばしいことで、でも、ちょっとだけ悲しい。
だけど春の内は胸に巣食っていた喪失感も、目まぐるしく夏が過ぎ、秋が来た頃には少し色褪せて、冬を迎えた今はそこそこ上手に付き合えるようになってきた。たぶん。
「…………さむ」
ずび、と鼻をすすりながら、カーディガンからはみ出る指をすり合わせる。
12月中旬、放課後の廊下は冷蔵庫みたいに冷たくて、あたしはコートの上から肩を抱き身震いした。あったかいものが食べたいな、シチューとかおでんとか。
先日の中間テストの点数について涙目で語る先生を逆になだめていたら随分遅い時間になってしまった。すっかり外は真っ暗だ。
そして窓の外、黒い景色の中に、ふとちらちらと白いものが紛れ込んでくるのに気づいて、あたしは目を見張った。
「…………あ、雪」
初雪だった。予報では降るなんて言ってなかったのに。雪は好きだ、ついつい心が弾んで口の端が上がる。
だけど降る雪の粒を見つめていると、ふとかつて見た街の風景を思い出さずにはいられない。
雪が嫌いだと顔をしかめた人のこと。
二人で歩いた雪山は死ぬほど寒かった。寄り添うようにして雪洞で話して、一緒に戦って、星を見上げて。
今でも鮮明に思い出せるのが苦々しくてしょうがなく、あたしは眉間にしわを寄せた。そんなことを思い起こせるのはもう自分だけなのに、悲しいだけだ。
「……帰ろ」
でもそこで不幸なことに、教室に忘れ物をしたことに気付いた。
手袋、なくても大丈夫だけど、なんだか泣きたい気分なのに手までかじかんではあまりに辛い。ほぼ下校が済んでしんと静かな校舎を早足に、あたしは二年A組の教室へ急いだ。
だけどドアを開けてすぐに後悔する。手なんて凍ってしまっても良かったのだ。こんな風に心臓を止めるぐらいなら。
「……………」
「あれ、雨宮さん。まだ残ってたんだ」
にこりと笑う、見慣れた懐かしい顔。
あたしのただのクラスメイト、高遠深也くんは、眺めていた窓の外の景色から振り返ると、あたしを見つけてそう言った。
「………………」
し、しまった……。誤算だった。
接点なんてない、会話することもない、だけどこうして二人きりなってしまえば、いくら他人でも言葉をかけないわけにはいかないのだった。
まずい、実に数ヶ月ぶりに呼ばれた名前に不覚にもうれしすぎて完全に動揺し、返事をするタイミングを逃してしまった。
クラスメイト女子に普通に話しかけたら、冷や汗をだらだら流して固まられてしまった高遠くんは、さすがに困ったように眉を下げた。
「えっと……一応、同じクラスだったんだけど……名前は」
「し、知ってる。知ってるよ、高遠くん、だよね?」
「あ、よかった。覚えててくれて」
「覚えててくれて」という彼の言葉は今のあたしにはあまりにも辛辣で、ズキンと痛んだ胸に嫌気がさした。早くここから出よう。これ以上話すと余計なボロが出かねない。
「雨宮さんも部活終わったところ?」
「あ、ううん、ちょっと先生と話してて……手袋忘れたから、取りに来ただけ」
「僕もこれを。困ったよね、予報じゃ雪なんて言ってなかったのに」
折りたたみ傘を片手に苦笑する高遠くんに眉を下げて頷く。手早く手袋を机から回収して踵を返し、
「それじゃあまた明日」
って、そう言って立ち去らなければいけなかったあたしの口は、だけど全然違うことを呟いていた。
「…………高遠くんは雪、嫌いだもんね」
それはささやかな反抗だったかもしれない。高いところが死ぬほど苦手なことも、本当は自分のこと俺って言うことも、負けず嫌いなことも、全部忘れてないよって、ちょっとでも伝えたかった。
不思議がるかなと思った高遠くんはでも、目を瞬いてあたしを見て、それから、ふっと笑ってこう言った。
「好きだよ」
思いがけない言葉に目を見張った。
高遠くんは少し遠い目をして雪を見つめながら、ちょっと首を傾げて言う。
「前は嫌いだったけど、いつの間にか好きになってた。なんでかは分からないんだけど」
かつて異世界で、高遠くんがあたしに言ったことばを思い出す。
────僕は雪が嫌いだ。
「たぶん雪が降ると、誰かが笑って……その顔を見るのが、好きだったのかな」
────でもいつか、好きになれるといいな。
ぽろぽろと一度こぼれてしまえば、止めることなんて出来ないものだ。
あたしは丸くした目から決壊して流れる涙の粒をぬぐうこともできず、ただ雪と高遠くんを見つめて立ち尽くしていた。
「え? あれ!? ご、ごめん、何か嫌なこと言ったなら謝る、ええと……」
大慌ての高遠くんが駆け寄ってきて、おろおろと心配される。
あたしは手で目を覆って、「違う、何でもないよ」と小さく首を振ることしかできなかった。
そうして泣きじゃくるあたしを困り果てたように見下ろしていた高遠くんの目が、ふと細められる。
「……僕は前にも、こんな風に雨宮さんを泣かせたことがある気がする」
痛むのかおでこを抑えながら、懸命に何かをたぐり寄せるように高遠くんはあたしを見つめる。
「……違う、ことがあるなんてもんじゃなく、そうだ、何回も……」
胸の奥で何かがパキン、と割れるような感覚があって、そこに住む同居人の身を案じかけた瞬間。
ガタン、と机の揺れる音がして、いつの間にか自分が抱きしめられていることに気づくとあたしは愕然と目を見開いた。
「……どうして」
「思い出した」
「う、うそ!? だ、ダメだよ、離して」
あまりのショックに気が動転して、涙も引っ込んで押し返そうとするけど、ぎゅっと回された腕の力は思いの外強くてそれもできず、仕方なくおでこを胸にくっつけてどうにか俯く。
「……わ、忘れて、もっかい忘れて」
「もう無理」
「うう……ばか、もうやだ、がんばったのに、今日までホントに、すごく……」
ほんとにすごく、そっか、本当はこうしたかったのか。
死ぬほどの努力が全部ムダになった絶望感よりも、うれしい気持ちの方がどうやら大きいことにあたしはほとほと呆れかえって、おとなしくおずおずと抱きつき返す。
「……高遠くんは、魔王がセットで付いてくる女の子でも嫌じゃない?」
「そんなことになってたのか……雨宮さんさえいれば俺は何でもいいよ」
おかしそうに笑う高遠くんを見上げて、あたしの決断は何だったんだとちょっと恨めしくて睨む。でもすぐにつられて笑ってしまった。
結末だけが物語じゃないって高遠くんは言ったけど、それでもやっぱり、最後は笑っていた方が良いに決まってる。
「ねえ高遠くん」
「何?」
「今の気持ち教えて?」
異世界で最後にした質問をくり返す。
あの時は悲しい気持ちで聞いていたけど、今はそうじゃないことがうれしかった。
高遠くんは、今度はためらわず、優しく笑って言った。
「好きだよ」
「あたしも!」
こうして遅ればせながら、あたしの異世界冒険譚はようやくハッピーエンドを迎えた。
あとはただ平凡でありふれた物語が、きっといつまでも幸せに続いてくだけだ。




