最後の放課後
教室にチャイムの音が鳴り響く。
一日の授業を終えたクラスメイト達は次々に席を立って、賑やかにそれぞれの目指す場所に動き出す。放課後は高校生の本番だ。
そんな期待と笑い声があふれる教室の一角で、大きな部活用の荷物を軽々と肩にかけて。
一歩歩くごとに親しげに声をかけられ、一つ一つに丁寧に応えながら、爽やかに教室を出て行くその人の姿を視界の隅で見送り終えると──あたし、雨宮アリアは目を閉じて頷いた。今日もとってもかっこよかった。
「うんうんじゃないんだよアリアちゃん、『今日こそは勇気出して話しかける』って約束は?」
「ハッ!?」
「また一日遠くから見てただけで終わったでしょうが」
「あいたっ」
ぺし、と軽く叩かれて涙目になりつつ、いつの間にか机を囲んでいた二人のお友達──ミユちゃんとチカちゃんからの真っ当なダメ出しに、敗北者として返す言葉もなくうなだれる。
そう、さっき教室を出て行ったクラスメイト──高遠深也くんに、あたしは絶賛片思い中なのである。
ちなみに高校2年生春の現時点で、入学してから交わした言葉はゼロ。登場人物一覧で言えば名無しのクラスメイトFぐらいの位置にいる。たぶん。
でも話しかけられないのも無理はない、何しろ高遠くんは──
絵に描いたような優等生、成績トップで新入生代表挨拶をキメたかと思えば強豪サッカー部でレギュラー入りを果たし、それを鼻にかけることもなく優しい笑顔と大人びた性格でみんなに慕われ常に人の輪の中心にいる人気者。おまけに他校の女の子含めて年中無休で告白イベントが無限に発生し続ける『乙女ゲームのバグかな?』みたいな壊れ性能。
挨拶するのもはばかられるスペシャルな存在、つまり分かりやすくラーメンで例えるなら味玉チャーシューネギメンマ特盛全部のせ替え玉付きみたいな男の子だから……。
「このシリアスな顔は反省してるのかな?」
「全然してないと思うな」
まあそんな雲の上にいるような高遠くんに対してあたしはと言えば、「昔飼ってた犬に似ててかわいい」と褒められる顔に、下から数えた方がうんと早い成績、幼少期から知らない痣がいっぱいできることに定評があるダメ運動神経という残念スペック。
当然接点とか共通の話題なんてなくて、もう住む世界が違いすぎて話しかけるどころじゃないのだ、それこそ世界がひっくり返りでもしない限り。
「でもアリアちゃん、せっかく2年生から同じクラスになれたのにこのままじゃ一言も話さないまま4月が終わっちゃうよ?」
「いや話しかけるってそんな簡単なことじゃないんだよ、ようやく同じ空間で一日生活する環境に適応してきたところなのに! 徐々に負荷を上げて慣らしていかないと刺激が強すぎて体調を崩すおそれが……」
「飼いたてのペット?」
「いつになったら終わるんだよその慣らしは」
「あと3年ぐらいあれば?」
「卒業って知ってる?」
絶望的なワードに頭を抱える。高校の3年間って一生分の勇気を出すにはちょっと短い!
「せめて何かドカンと大きなきっかけになることでもあればいいんだけどね。例えば」
「例えば!?」
希望に目を輝かせるあたしにミユちゃんは微笑み、名案とばかりに楽しげに言った。
「2人で1つのピンチを協力して乗り越えるとか。吊り橋効果って言うでしょ? 一緒にドキドキすると恋のときめきと勘違いして、一気に距離が縮まるらしいよ」
「……ええ? ダメだよ高遠くんがピンチになるのなんて、そうなったらもうあたしが囮になって齧られてる間に逃げてもらう高遠くん生存ルートにしか入らないよ」
「どういうピンチ?」
「ライオンに襲われてる?」
「まどろっこしいな、高校生男女の会話なんて足下に消しゴムでも転がしときゃ勝手に始まるでしょうが! 使え手首のスナップをこう」
「ええ? ダメだよ高遠くんに膝を折らせるなんてそんな無礼なこと!」
シュッと手首を捻って熱くフォーム指導をしてくれるチカちゃんに泣きながら抗議をしていると、ふわぁと飽きたっぽいあくびをこぼしてミユちゃんが言った。
「ねえねえ、長くなりそうだし続きはいつものカフェで話そうよ。こういう無理難題は甘いものでも食べながら考えないと疲れちゃうし」
無理難題……はまあ事実なので、甘いもの! と能天気に歓喜したのもつかの間。
「きょ、今日はちょっと……すごく残念なんだけど行きたい所が……」
断腸の思いでぐぬぬと歯噛みしていると、怪訝そうにチカちゃんがふと窓の外、グラウンドの方に視線を向けて目を細める。
「ああ、練習試合だっけサッカー部。健気なことで」
「うー……」
茶化されていたたまれず顔を背ける。まあいつも「がんばれ」すら声に出す勇気もないから、高遠くんを見に来た女の子達の最後尾でこっそり見守る背景の草と化すだけなんだけども……。
「まあ別に明日でも明後日でもいつでも行けるしね。行ってらっしゃいアリアちゃん」
「がんばってね~」
「うん! 行ってきます、また明日ね!」
そうしてゆるく送り出してくれる2人にブンブン手を振りながら、あたしは勢い良く教室を飛び出してグラウンドに……行かなかった。
「……あれ?」
目に飛び込んだ窓の向こう、放課後はほとんど誰も寄りつかない特別教室棟の廊下に──今そこにいるのはおかしいはずの横顔を見つけて、足が勝手に動く。
放課後に部活をサボったとしてもどこで何をしていたとしても、その人の自由だ。こっそり後を追うなんて迷惑なこともしたくない。
それでも足を止められなかったのは、その時の高遠くんの表情が、酷く思い詰めているように見えたからだ。
* * *
……思わず心配で追いかけて来ちゃったけど、間違いだったかのもしれない。
人気の無い廊下の奥、高遠くんの後ろ姿が消えた空き教室の前にしゃがみ込んで、あたしは気づかれないように小さくため息をついた。
教室の中からはさっきから微かな話し声が聞こえている。高遠くんと、もう一人。つまり教室に二人っきりというシチュエーションなのだ。
放課後に待ち合わせ、誰にも聞かれたくない大事な話。それが意味することが分からないほどお花畑じゃない。
「……頑張って勇気、出せばよかったなぁ……」
そうとなればこんなところでこそこそと盗み聞きみたいな真似をするのは良くない。負け犬は静かに去るべき……と、少し赤くなった目をこすりながら立ち上がった瞬間。
「──ふざけるな、それじゃあそっちの世界の人達はどうなるっていうんだ!」
背にしたドアから響いた大きな声に、びくっと肩が震えて思わず振り返る。高遠くんの声だ。
だけどいつも冷静な高遠くんの、こんな風に怒ったような余裕の無い声は初めて聞いた。
「もちろん全員死ぬ。対抗するには異世界からの協力が必要だ。君さえ承諾してくれるなら今すぐにでも来てほしい。ただし……」
後に響いた声は、高遠くんを呼び出したであろう『もう一人』のものだった。子供のようでも大人のようでも、男の人のようでも女の人のようでもあるなんだか不思議な声だ。
ていうか話の内容が愛の告白にしては物騒なような? そっちの世界? 全員死ぬ?
困惑しているうちに、高遠くんは張り詰めた声で、だけど迷わずにこう言った。
「……分かった。僕にできることがあるなら戦おう。連れて行ってくれ」
直後、教室からまばゆい光が漏れ出し、
「……高遠くん!」
あたしは何も分からないまま、弾かれたように勢い良くドアを開けていた。
だけどあたしの視界に飛び込んだのは、教室の床に浮かび上がった……魔法陣?のような物の上に立つ高遠くんの後ろ姿が、光の中に吸い込まれ消えて行くまさにその瞬間だった。
……え、ええー……?
唐突な非現実的な展開に目をごしごしこすっているうちに、魔法陣の放つ光が弱くなっていく。
あれ、なんか消えようとしてる!?
「……いや、迷ってる場合じゃない!」
とう、と勢いよくジャンプする。
だってさっきの会話、よく分からないけど、多分このままじゃ高遠くんと二度と会えなくなる気がする。未使用で余っていた勇気を全額払って飛び込むと、魔方陣は一際強い光を放って全身を飲み込んだ。
「…………!」
光に触れた体が熱い。溶けてくみたいだ。目の前がだんだん白くなっていく。意識も薄くなってきた。
このまま死んじゃうのかな、せめて高遠くんは無事でいてほしいな。そう思いながら重たいまぶたを閉じて。
そうしてあたしの体は、この世界から完全に消えてなくなった。