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優しい女

※少し性描写あります。



「マリンさぁん、村田さんからご指名ですー」


呼ばれる名前は誰に付けられたものだったっけ?


「はーい」


休憩室に入ってきた従業員の真琴に軽く返事をする。

誰に付けられたかも忘れたマリンという名前に慣れてから1年過ぎた。ということは、マリンになってから1年経ったということ。

マジで時の流れって無情。浸る暇すら与えないんだから。


「あ、あとね、新規で電話予約も来てたよ」


私以外にも従業員がいる休憩室内で言われてしまう。

周りの視線が冷たい。

それでも「やったね」と言えるくらい、私は何も気にしていない。


「若いのに稼ぐよね」


隣で臭い電子タバコを吸っているマヤさんが嫌味っぽく言ってきた。

うるせぇ。


「昨日ハタチになったから、もうおばさんッスよ」


「ハハッ」と放った乾いた笑い声が温度の下がった休憩室に響いた。


「ちょっとお前さ……」

「2人とも落ち着いてよね。てかマリンちゃん早く行きな。お客さん待たせちゃう」


お店でナンバーワンのサユリさんが怒るマヤさんをなだめる為に肩に手を置いた。

マヤさんはサユリさんが大好きだから何を言われても必ず従う。


「お言葉に甘えて~。行ってきまーす」

「あ、ちょっと待って……」


休憩室を出ていく私の後ろを真琴がドタドタと着いてくる。

真琴は女性で身長が175cmあり、肩幅が広く"どっしり”している。

学生時代は柔道部でインターハイとかに出ていたらしいけど、怪我をしたとかなんとかで辞めたらしい。

よく知らない。

呼ばれたら1人で向かうのに、真琴は部屋の前まで着いてきた。


「なに」

「あ、あの、電話予約の件……」

「なに」

「相手がね、女性なの」

「はぁ?」


思わず振り向くと、真琴の肩がビクッと上がった。


「女性ってどういうこと。ここってそういうのしてたっけ」

「え、あ、ごめん……」


聞いてるだけなのに怒られたようにしょんぼりするから、余計に腹が立って分かりやすくため息をつくと、デカイ図体がどんどん小さくなっていった。


「店長はなんて」

「マリンだから上手くやるだろうって」

「勝手言ってくれるじゃん」


それでも、"私だから”と思われているのは嬉しくてニヤける。


「もし何かあったらすぐに駆けつけますので!」

「別になんでもいいわ。てか、アンタの仕事ってそれだから」

「あ、そうですね!すみません。あ、あと……」

「ねぇまだ何かあんの?長くなるんだったら終わってからにして」

「了解しました!」


いつも謝ってばかりで、年下の私に色々言われて悔しくないのだろうか。


「じゃあ、1時間後」

「はい。頑張ってください!」


何を頑張ろうというのだろう。

元気づけようと肩に置かれた手を、虫のように払い、そのまま目の前のドアノブを回す。


「失礼致しまーす」


さっきと打って変わって、甘えるような声を出す。


「マリンちゃーん!待ってたよ!予約取れて良かったぁ」

「私も村田さんに会いたかったです~」


元気いっぱい、本当に会いたかったと思わせるように村田の手を握る。


「マリンちゃぁん……聞いてよ……」

「どうしたんですかぁ?私でよければなんでも聞きますよ。でも、良いんですか?ここはお話以上のことも出来るのに……」


手から腕、腕から肩、爪で村田の肌をなぞっていくのを、ゆっくりと目でもなぞる。

辿りついた村田の頬には汗が滲んでいて、ニキビ跡は砂利みたいになっている。そんな村田の頬を包むと、「ゴクッ」と生唾を飲む音がした。

このままキスまでいけると楽なのだが、私の気持ちとは裏腹に、包んだ手は村田の手によって私の膝へと直された。


「良いんだっ!僕はここでマリンちゃんとお話ができるのが嬉しいんだっ!」

「村田さん……」

「マリンちゃんもたまには、ね?お話しよ?ね?」

「それは、この後から……」


そのまま村田の口に強引にキスをする。


「あ、ちょ……マリンちゃ……」


嫌がって口を噤む村田を逃がさず、構わずに舌を入れ込む。


「んぁ……ちょ……」


ベッドの縁に座って息の荒くなる村田の膝にまたがり、私と村田を隔てる硬いものを指先でなぞると低い鳴き声がした。


「お話とこの続きはお風呂に入ってから、ね?」

「う……うん」

「一緒に入る?」

「ううん……緊張するから、1人で入って……」

「そう?分かった」


最後にもう一度軽いキスをする。

浴室に入り、お湯をためながらシャワーを浴びる。

村田は毎回、嫌がるフリをする。

初めて村田に会った時、同じことをしたら大いに喜ばれ、それからはずっと同じ流れなのだ。

風呂は私が先に入り、我慢の出来ない村田に襲われる。最初は驚いたが、慣れると演技力が問われる。

そして毎回少しづつ違う。それは私も村田もそうだから、アドリブも必要とされる。

まるで初めて嫌がられるかのように接しなくては、村田は満足してくれないのだ。

もちろん、行為の後に悩み事を聞くことはない。


「マリンちゃん、いつもありがとうね」

「ううん。私、村田さんとするの大好き。また来てね」


村田は毎回1時間半のコースを選び、毎月1回は私のために通う。多いと月2回来る。

1時間半で料金3万円、月2回になると6万の出費だ。10万近い。

安いものでは無いけど、私にとっては高いものでも無い。

村田みたいな従順な客はまだいいが、金を払っているからと乱暴で横暴な人は沢山いる。

同じ1時間でも全く違う。

もっと絞り取れないだろうかと考えたりする。

それでも私は、1時間3万の女なのだ。

それが高いのか安いのか、もう分からない。

まぁ、もとから男に体を捧げることに、なんの抵抗もなかったのだけど。


村田との行為を終えた私は、真琴と話をするために事務所のドアを開けた。


「ねぇ終わったよ」


開けるとそこに真琴はおらず、代わりに最近やって来た青年が座っている。


「あ、お疲れッス」

「真琴さんは?」

「帰ったッス」

「はぁ?」


1時間後に話すことがあると言っていたのに、真琴は早々に帰ったらしい。

訳分からない。


「代わりに伝言ッス」

「なに?」

「"もっとみんなと仲良く”って」


深く溜息をつく。


「あっそ」


軽く返事をして踵を返した。


「うッス」


同じく、軽く返事をする青年。


「ねぇ、あんたの名前なんだっけ?」

「タケルです。齋藤健。俳優と1文字違いッス」

「ふーん」

「このやり取り、3度目ッス」

「ふーん」


私はそれだけ言って事務所のドアを閉めた。

そんなことより、真琴がタケルに伝えた伝言に腹が立っていた。

何がみんなと仲良く、だ。

仲良くしたところで得られるものは何もない。

どちらかと言うと失うものの方が多いのではないだろうか。

客を取った取られただのという喧嘩は、仲が良かった人達ほど起こりやすいのだ。

でもそんなこと、体育会系で先輩後輩の上下関係を大切にしていて、心も懐にも余裕のある奴に言ったところで、意味が無いんだろうな。

そんなことを考えながら休憩室の扉を開けると、さっきまでごった返していたのが嘘だったかのように静かだった。

置かれてある2人がけのソファーに寝っ転がる。

小さくて硬くて香水臭くて堪らないのに、私は一瞬で眠りに落ちることが出来る。

他の嬢らは、少ない休憩時間はこの部屋で休むが、長い休憩だと家に帰ったり友達と会ったりしているらしい。

私は帰ったところで暇だし、会ってくれる友人や彼氏もいないし、もちろん学校にも行っていない。

したい事も、将来の夢も希望も、特にない。

ただ、衣食住が出来れば、それでいい。

私はそれで幸せなのだけど、何故か世間はそれを許してくれない。

夢と希望をもて。

家族をつくって繁栄させろ。

そんなこと、私にはどうでもいい。

世間様に何も言われない為に、私は今を生きている。ただ1人で、何も言われずに死ねるように、今この時にお金を稼いでいる。

この仕事は天職だと思う。

私自身をを必要としてこなくて、"マリン”を必要としてくれる。

私であって私では無いこの存在が、とても心地よい。

私は、親をほとんど知らない。幼い頃に父と離婚した母は、私が小学校に上がってから家に帰ってこなくなくなった。もちろん、そんな環境で子供が育つはずもなく、程なくして養護施設に預けられた。

"預けられた”が、引き取りに来る人はとうとう現れなかった。

高校の卒業と同時に施設を離れ、最初は工場で働いていたが、朝起きて夕方仕事をする生活が、堕落していた体に合わず、1年で退職。

フラフラしていた時、流れで付き合った男の人に今の仕事を勧められた。

好きな時間に体を捧げるだけでお金が貰えて、好きな時間に死ぬように眠れる。

最高の仕事だったが、その彼氏とは仕事を始める時に別れた。

私は美人だ。

全く顔を弄っていないのに、そこらにいる女優より整った顔立ちをしている。

これは両親から受け継がれたものだと分かっているが、感謝なんてしていない。

それくらいの抵抗はさせてほしい。

美人だから、フラフラしていても衣食住に困ることは無かった。それでも、名前も捨て、私はここで"マリン”として生き、死んでいく道を選んだ。それは引き取りに来るのを待つ、忘れ物みたいな人生は嫌だったから。

私はもう、誰のことも待ったりしない。

ただ、自分の人生が静かに終わってくれればいいと願いながら、毎回夢に堕ちていく。


例の女が来る、約束の金曜日になった。

この日になるまで、嬢に例の女がどういう人物なのか聞かれたりしたけど、私は何も答えなかった。

というか、何も知らないから答えられなかった。

トップのサユリさんだけが、私を心配をしていた。


「女の人は当たり前だけど男の人とは違うのよ。来る理由が分からない。検討もつかない。気をつけなよ」


私より10年長くこの道にいる人は言うことが違う。

何も言わないし聞いたこともないけど、きっと様々な思いをしてきたんだろうなと想像する。


「マリンさん、本当にやばいって思ったら助けを呼んでくださいね」


あぁ、そうだ。もう一人私の心配をする人がいた。

真琴だ。

ちらりと彼女を見ると、眉が下がっており、それは私を強くイラつかせた。

同業のサユリさんに言われるのと、何も知らない安全な位置にいつもいる人間に勝手に心配されるのは癪である。


「部屋、どこ?」

「202号室です」

「はっ。助け呼べとか言いながら二階かよ」

「あっ、えっと、逃げられないように……」

「刺されたりしたらアンタの所為だから」


真琴の眉はまた下がり、口は何かを言いたげに詰むんでいる。


「刺されるの?」


受付で話を聞いていた健が言った。


「知らない」

「そんな人には見えなかったけど……」

「犯罪って見えない人がしたりするから」


そういって、私は202号室に向かう。背後で真琴がなにかを叫んでいたけど無視。

殺されるかどうかは知らない。

でも、今日ではない気がする。

ヤバい日っていうのはなんとなく分かる。

サユリさんが心配してくれたり、健の名前をちゃんと覚えていたり、こんな日に人生は終わったりしない。気がする。

202号室の前に立ち、深呼吸をする。

一応いつもの持ち物<ローションとか>を持ってはいるけど、女性相手でもこれでいいのだろうか。

一瞬休憩室に戻ろうとしたら、扉が開いた。


「え」

「あっ」


目の前に眼鏡をかけた黒髪ロングヘアーの女性がいた。


「あ、初めまして。“あいみ”です」

「マリンです」

「ドアの前に気配があったのに全然入ってこないから開けちゃった。どうぞ、入って」

「あ、はい」


ふわりとした春風のような空気を纏ったその女性に、私は一瞬で飲まれた。

男性特有の緊張感を持ち合わせていない。

自分の空気に相手を飲みこむ。どちらかというと、私たちのような嬢側の人間。

彼女はベッドに腰掛け、私はその隣に座った。


「マリンさん?って何歳?」

「20になりました。あいみさんは?」

「34歳」

「見えない。めっちゃ綺麗ですね」

「ありがとう」


病院の待合室で知り合いにあった時のような世間話しかできない。

それは彼女も感じているのか、どことなくソワソワしているように見える。


「今日はご指名ありがとうございます。ここがどのようなお店なのかは分かりますよね?」

「えぇ」

「どうします?まずは一緒にシャワーを浴びたりします?」


立ち上がって手を差し伸べる。

早く行為に入ってしまう方が気が楽だ。


「そうね」


私の手を取り、彼女も立ち上がった。その手を繋いだまま、お風呂場へと向かう。

裸になった私を彼女は棒立ちで見ていた。


「脱がして」


彼女は力なく言った。


「はーい」


着ていた水色のワンピースのファスナーを下げる。

彼女の背中は妖精のように白くて肩甲骨は羽根のようで、30代半ばとは思えないほど綺麗な肌を隠していた。


「キスとか、してくれるの?」

「もちろん」


肩に手を回し、雪崩れ込むようにキスをした。

男と女で唇の硬さとか違うのかと思っていたが、変わらず柔く、目を瞑ってしまえば男女の差は特に感じられなかった。

腰の位置が男と違うところとか、洩れる息が高いところくらいしか違いはない。

ブラジャーのホックを外そうと背中に手をまわし、彼女の背中をなぞる。


「っん」


甘い声が漏れたあと、私は強い力で肩を押されて彼女から剝がされた。


「あ……ごめんなさい……違う、やっぱり違う」


彼女は下着姿のまま、頭を抱えるとベッドに戻った。


「え、なに。どうかしましたか」


なにか嫌だったのだろうか。


「違う……えっと、違わない……あれ、でもセックスのはじめってみんな一緒?だったら……」

「初めてでした?びっくりしましたよね。止めておきますか?」


私はバスローブのポケットに携帯を忍ばせ、彼女の肩にバスタオルをかけた。


「初めてじゃない……女の人とは初めてだけど」

「あ、それは私も同じです」

「そうなんですか」

「基本男性しか来ないから」

「あぁ、そうか」


私は彼女に水を差しだす。「サービスです」そういうと、快く受け取ってくれた。


「来た男の人のことって覚えてますか?」

「常連さんだったら覚えてるかな」


一人一人喜ぶことが違うから、常連さんのことを覚えておくのは常識だ。


「その中で、特に記憶に残っている人とかいますか」

「変な行為を要求する人とかはよく覚えてるよ。困るんだけど、覚えやすいから逆に有難い」


フフッと彼女は笑った。


「そうなんだ」

「あいみさんは女が好きなの?」

「ううん。私、結婚してるし」

「マジか」


まあ、この可憐さと年齢を加味すると結婚してない方がおかしいか。


「私の旦那、あなたの常連さんなの」

「え」


彼女はまた、「フフ」と笑った。


「毎週水曜日に通ってるのかな。なんかね、マリンさんと昔好きだった人が似てるんだって」


私は何も言わず、彼女の横顔を見ていた。腰が曲がり猫背になっている彼女の目線は、床に落とされていて、どんな顔をしているのか確認することはできなかった。


「似てる子がいるって会社の先輩にここを紹介されたらしくてね。結婚してる男に紹介とかあり得なくない?その先輩、嫌いだったんだ。私が働いていた時もセクハラばかりしてきてさ、頭ポンポンとかしてくるの、めっちゃキモかったな」


気が付かれないように少し距離をとる。「ベッドに座るときはすぐ逃げられるようにドア側に座るんだよ」って、初出勤の時に教えてくれた先輩のことを思い出す。嬢の給料を盗んで逃亡した先輩。私、最近たるんでいたのかも。逆側に座ってしまった。


「その人も結婚しててね、“イクメン”とか言われてて、子どもいるの。その家の奥さんさ、不倫してんだよ、会社の上司と。そんな家には子どもいるの。私にはできなかったのにさ。旦那しかいなかったのに、そんな旦那も風俗通いよ。フフフ、ウケる」


笑える話ではない。

逆上して殺さされるかもと思いながら、でも、彼女は下着姿で丸腰。それに、殺意は私に向けられていないような気がする。殺意では無い何かを抱えているようには見えるけど。


「だからね、知りたかったの。旦那がどんな女と、どんなセックスをするのかって。どうやってキスをして、どうやって触れ合うのかって。でも、違った」


バスタオルを置き、彼女は脱衣所に向かう。私は立ち上がってドアの近くに行った。しかし、彼女が手にしていたのは、着ていた水色のワンピースだった。


「だって、あなた、どんな人とでもセックスするでしょ。私とも、きっと簡単にやっちゃう。それじゃあ意味がないって分かったの」

「どういうこと」

「私、別れる理由が欲しかったのね。離れる理由が欲しかった。愛し合って不倫してくれたら、私も離れられるって思いたかったのかもね」


分からなかった。

分からなかったけど、気が付いたことがある。


「まなみ。あなた、まなみっていうんじゃないの?」

「え?」

「私の常連さんで、最中に“まなみ”って呼ぶ人がいるの。最初は間違えてるのかもって思ってたけど、聞いたら、好きな人だって。“あいみ”って漢字にしたら愛する・美しいって書くでしょ?それって“まなみ”とも読めるから……」

「私の本名は絢音よ。“まなみ”が、旦那の好きだった人の名前」


やらかした。地雷を踏んだ。

しかし、彼女は笑うだけだった。


「そんなに好きだったら、その人と結婚したらよかったのにね。なんで私なんかと結婚したんだろう」

「それは……」


あなたが大切だからでしょ。

性欲と愛は違う。触れたいから愛するのではなく、愛するから触れる。

しかし、愛しているからこそ触れられなかったりも、きっとする。

そんなこと、私が言っても説得力がないから言わないけど。


「一緒にいたいからじゃないかしら」


だから、一番シンプルな答えを出した。


「好きだからとかセックスしたいとかじゃなくて、一緒にいたいからでしょ。だから、結婚したんじゃないんですか」

「そうなのかな」

「知らない。もしかしたらノリと勢いかもしんない」


そういうと、彼女はまた笑った。


「マリンさんは好きな人、いる?」

「いない」

「寂しくないの?」

「ぜーんぜん」

「そっか、それは良いね」

「良いの?」


良いと言ってくれた人は初めてだった。


「良いよ。きっと、一番いいよ」

「ふーん」


少し、嬉しかった。

そう思ったとき、ピピピピッとアラームが鳴った。

終わりの時間だ。


「一時間経ちそうです」

「早いのね」

「延長しますか?」


いたずらっ子みたいに聞いてみる。彼女は「遠慮しておく」と困った顔をしたけど、少し嬉しそうに「女の子とキスしたの初めて」とワンピースを着ながら彼女は思い出していた。


「私もですって」


ワンピースのファスナーをあげてあげる。


「ありがとう」


二人で部屋を出て、会計へと向かった。


「指名ありの一時間で三万、初回料金割引で二万五千円です」

「はい」


彼女の財布はブランドもので、諭吉二枚と樋口一枚は躊躇なく出された。

毎週風俗店に来る旦那、麻の生地でできた一枚もののワンピース、艶のあるウェーブがかった黒髪は毎月のサロンで手に入っているのだろう。

これで愛されていないなんて言わせない。

私が一生かけても手に入らないものを、彼女は持っていて、彼女が喉から手が出るほど欲しいものを、私は持っていることを知っている。


「また、来てもいいかしら」


帰り際、彼女は言った。


「次は今日の続きをしましょうね」

「できるかな」

「旦那と練習してください」


嫌味っぽく言ってみた。


「さいてー」


そう言った彼女の声が明るい夜の街に消えていった。

もちろん、この日以降彼女が店に来ることはなくて、私が彼女の旦那だと思っている男は何度か来たけど、“まなみ”と呼ぶことはもうなかった。

彼女が来て変わったことはそれだけ。

きっと彼女も私に会って話して、何かが劇的に変わったなんてことはないだろう。

旦那とはずっとセックスレスで、子どももできなくて、ずっと家にいるのだろう。

でも、私とのキスで、彼女の日常がなにか少し変わればいいのな。なんて、あつかましいことを願ってしまったりする。

例えば、私がサユリさんとご飯を食べに行ったりとかの、そんな少しの変化。



もっとドロドロしたのが描きたかった。

ちょっとあっさり終えてしまったかもな。

くそぉ…

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