優しい男
旦那に違和感を覚えたのはいつ頃だったか。
帰りが遅くなる日の朝は足取りが軽いとか、遅くなった次の日は妙に優しいとか、なんかそういうのが増えてきたなと思ったのは、いつ頃だったか。
旦那の翔太さんと結婚して7年が経った。出会ってからは10年目に入る。出会いは楽しくなかった飲み会の帰り道。その場の空気に流されるだけ流されて呑んだ酒は不味く、食べた料理は冷めていた。参加した事を後悔しながら夜道を歩いていると酔いが回ったのか気持ち悪くなり、塀にもたれかかりながらしゃがみ込んだ。来ていたスーツが汚れるとかそんな事がどうでもいいくらい、気持ち悪かった。
「経理課の……」
閉じていた眼を渋々あけて顔を上げると見知らぬ男性。その時は名前も顔も知らなかったけど、それが翔太さんだった。
「あ、やっぱり。経理の飲み会も今日だったんですね」
「あぁ……はい」
その楽しくない飲み会は、新入社員だった私の歓迎会だった。
「営業も近くでやってたんですよ。いやぁ、飲み会って疲れますよね。お疲れ様です」
「はぁ……」
括っていた髪もほどかれ、目も虚ろになってしゃがみ込んでいる私に、翔太さんは何事もないように喋りかけていた。
「あ、酔ってる?」
ようやく気が付いたかと思いながら頷いた。
「水、持ってる?」
首を振る。
「飲みます?」
翔太さんはリュックからペットボトルの水を取り出した。
「飲みかけだけど……あ、ちょっと待ってて」
その優しさは嬉しいけど、今は放っておいてほしかった。
「はい、さっき自販機で買ってきた水。こっちの方が冷たいから、酔い覚ましに飲んだら良いですよ」
「あ、ありがと……ございます」
もらったペットボトルの水を飲む。多分、口の端から垂れていたけどお構い無しだった。
「家まで歩けますか?」
頷いたけど、翔太さんは腕を貸してくれた。フラフラ歩く私を支えながら、一人暮らしのアパートまで連れて来てくれた。
「ここ?」
「はい……」
「じゃあ、もう大丈夫だね。月曜日から仕事始まるから、週末はゆっくり休みなさいね」
「はぁ……」
「じゃあ、お疲れ様です。おやすみ」
空になったペットボトルを握りしめながら私は翔太さんを見送り、部屋に着いた瞬間に倒れて寝た。
次の日、スーツ姿で朝を迎え、昨日の夜の失態を思い出した。
「やらかした……」
記憶はしっかりとあったのが救いだった。
週明けの休憩の時間を使って昨日の営業部の男性を探した。名前の知らない、多分先輩。
営業部のフロアをウロウロしながらその人を探していると声をかけられた。
「週末はゆっくり出来ましたか?」
振り向くと、彼がいた。
「あ、あっと……ご迷惑をおかけしまして、申し訳ございません……えっと……なんとお礼を申し上げたら良いか……」
「いやぁ、元気に出社してくれたなら良かったです」
見つけたらこうやって声をかけよう、 と週末に何度も練習した言葉は詰まった排水溝のように喉に突っかかって塞がっていた。
「あ……あの……私、経理部の牧原絢音って言います。お名前をお伺いしても……」
「あぁ!伝えていなかったですね。僕、蔵本翔太って言います。営業部の主任してます」
「よろしくお願いいたします」
「うん、よろしく」
営業部の人ってもっと体育会系で距離の詰め方が速い人が多いと思っていたけど、翔太さんは相手の距離感を尊重する人だった。その距離感が人気で、取引先でも翔太さんのファンが沢山いるらしいと経理の先輩に教わった。あと、誰にでも優しいと。
「誰にでも……」
「人類みな兄弟を地で行く人だからね。人たらしとも言うよね」
「人たらし……」
本当にそうなのだと思う。じゃないと入社したばかりの課も違う後輩に優しくしたりしないだろう。その優しさに惑わされてはいけないと心に決めたはずだった。
そう決めた数時間後、私は翔太さんの腕に抱かれて眠っていた。
会社のエレベーターで偶然出会ったのだ。いや、偶然ではなかったか。「いたら嬉しい。あわよくばお喋りしたい」なんて、営業部の仕事が終わりそうになる時間帯を狙ってタイムカードを押した。
そうしたら運良く翔太さんがいて、捕まえた。昨日のお礼とかなんとか理由をつけて居酒屋に誘い、酔いが回ってのらりくらりとホテルにいった。
惑わされてはいけないから、自分で舵を取って流れを作ってみたら、意外と上手くいった。
翔太さんはタイミング良く彼女がいなくて、私は若くて可愛くて健気だった。
翔太さんに尽くし、ニコニコ笑って愛想が良い私を、翔太さんは好きになってくれた。
会社の人たちにも付き合っていることを話し、先輩や後輩にも私のことを「可愛い彼女」と惚気けた。
新入社員が人気な翔太さんと付き合うことをよく思っていない女性もいたらしいけど、翔太さんにチクられたくなかったみたいで、誰も私に何もしてこなかった。
初年目でプロポーズをされた。私は泣きながら「喜んで」と言ったけど、結婚したら私は家庭に入ってほしいということで、それなら3年待ってほしいと言った。
別に役職も何も無いからすぐに辞めても良かったけど、すぐ辞めると思われたくなくて3年は働きたかった。
翔太さんは何も言わずに待ってくれた。
そうして3年後、めでたく翔太さんと結婚して、私は仕事を辞めた。
絵に描いたような、まるで物語の主人公のように上手くいった。
私は誰もが羨むお姫様で、翔太さんは誰もが憧れる王子様。
みんなに祝福されて"めでたし めでたし”。
物語ならそれでお終い。
もしも物語が続くなら、子どもでも生まれる。私によく似た男の子と、翔太さんみたいな女の子が生まれて、家族はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。
ちゃんちゃん。
めでたしめでたし。
でもこれは現実。
腐るほどあるリアル。
10年経っても私たちに子どもはいなくて、私はお姫様ではなくて籠の中のお人形だった。
翔太さんはいつまでも優しくて、子どもが出来ない身体であった私の真実も優しく包んだ。
だから私は翔太さんに感謝して、いつまでも尽くさなければならない。
いつまでも綺麗で、いつまでもニコニコ笑って、いつまでも、いつまでも、いつまでも!
それが当たり前になっていたある日、翔太さんのワイシャツのポケットから紙のカードが出てきた。
黒く光って金字で英語が書かれてある。
「クラブ……オーロラ?」
訝しげにカードを開くと、中にはスタンプが押されていて、あと3つで全部溜まる仕様になっていた。
「洗濯前に見つけてよかった」
私はそれをリビングの机に置いてから洗濯機を回し、戻ってお茶を入れてから翔太さんが所有しているパソコンを開いた。
「C……LU……B、AUR……」
カードに書かれているCLUB AURORA.を全部打とうとしたら、検索履歴が出てきた。
「あ」
CLUB AURORA.は風俗店だった。
しかも高級らしい。
「うわ……」
目を隠したムチムチした女の子の画像が沢山でてきた。
ホームページをゆるゆるとスクロールしてみる。
今日は定休日で、明日と明後日がポイント2倍デー。その日は翔太さんの出張日と重なっていた。
「ポイントって……」
何が2倍になるのかと想像したら笑ってしまう。スタンプカードのあと3つで一体何が溜まるのか。
「ふふ」
一通り笑い、私は確実に検索履歴を削除してパソコンを閉じ、代わりにテレビをつける。
主婦に役立つ時短レシピが紹介されていた。今日の晩御飯にしようと、スマホをメモ代わりにして使えそうなレシピを入力する。
「豚肉、レンジで5分……」
入力しながら、頭に流れる映像はムチムチの女たち。
「え、私の旦那って風俗に通ってんの? 」
声に出すと冷静に考えてしまい、冷静でいられない状況である事に驚く。
スマホを置き、テレビの電源を消す。
「え?」
ピー、ピー、と洗濯機が終わりの合図を告げる。洗濯物を籠の中に詰め込んで、ベランダの窓を開けると春の風が流れ込んできた。それを大きく吸い込み、窓を閉める。
洗濯籠から湿ったままのタオルを持ち、大きく息を吸ってから顔を埋めた。
「私の旦那、風俗に通ってるー!」
出来る限り大きな声で叫んだ。
誰に聞こえても良い。誰かに聞こえたら良い。声に出さずにはいられなかった。
「ぷはっ!」
タオルから顔を離して乱暴に洗濯籠に投げ入れた。
いつからだろう。
いつから、いつから通い始めたの。
私が妊娠できない体だと知った時、両親は「そんな体に産んでごめん」と泣いた。"そんな体”になった私は彼のそばにいるのご申し訳なくなって何も言わずに家を出た。宛もなく電車に乗り、やっぱりどこにも行けなくて家に戻って来た私を、彼は抱きしめて「二人で生きていこう」と泣きあった。
私は私のままでいいのだ、と思えたあの日。
母になれなくてもいいのだ。私は翔太さんのお姫様のまま生きていこう、そう決心した。
とても嬉しかった、のに。
そう言ってくれた、のに。
最後に抱かれたのはいつだったかしら。
半年前?
明日仕事が忙しいからと、一度体を触るのを断られた事があったっけ。
それ以降、彼の性欲処理はプロの方がやっているという事か。
変に浮気されるより良いか。
そう思いなおしたが、昔、翔太さんは私以外の女の名前を性行為中に呟いたことがある。
問い詰めたら昔好きだった幼馴染の女の名前だと白状した。
だとしても、行為の最中に呼ぶなんて最低だと、私は怒りに狂って物を投げつけたりとかしたっけ。
それは、まだ私が子どもを産める体だと思っていたから。
もし分かっていたら、翔太さんはきっと私と結婚なんてせず、その大好きだった幼馴染と結婚していたはず。
私のメリットは若くて愛想のいい所だけど、若くていいのは子どもが産める女だから。
人間、誰でも歳をとる。私が歳をとった時、翔太さんはきっと、私と結婚して「二人で生きていこう」と宣言したことを後悔するだろう。
いや、もうしているかもしれない。
宣言した手前、私に離婚が言い出せなくて風俗に通っているのかもしれない。性欲処理だけでも、私と離れてほかの女のところに行きたいのかもしれない。
それか、風俗嬢の中にお気に入りがいるとか?
それとも、その幼馴染が風俗嬢だとか?
それなら同じお店に通い続けることも頷けるし、スタンプカードが溜まる理由も分かる。きっと指名料が安くなったりするのではないか。
そう考えた私はパソコンをもう一度開く。
CLUB AURORA.のホームページを開き、働いている嬢の顔を見ようとしたが、個人情報の保護だろうか、ホームページには嬢の名前と体の写真と出勤日は載っていたが、顔の写真はなかった。
「無理か」
一度諦めて洗濯物を干していく。
ハンガーに服をかけながら、翔太さんのお気に入りが気になってくる。
どういう顔をしているのか。どういう体でどういう声で喘いでどういう話をしたりするのだろうか。
翔太さんの手は大きくて分厚い。その手に頭を撫でられたことはある?背中の骨をなぞると喜ぶのは知ってる?「んあぁ」って独特に喘ぐ声がいつもの声より1オクターブ低いこと、知ってる?聞いてみたい。もしかしたら私の知らない彼を知ってるかもしれないし、私の話に同意してくれるかもしれない。
何故だか不思議と翔太さんに対しての苛立ちや風俗嬢に対する虚しさ等はなかった。
今、私の中にあるのは興味だけ。本当にお気に入りがいるかどうかは分からないけど、通っているなら1人くらいリピートしている女の人がいるはずだ。
私は無性に、その女に会いたかった。
その日から、私は翔太さんの目を盗んではパソコンで翔太さんが通っているCLUB AURORA.について調べ続けた。分かったことが何個かある。
翔太さんが通っているCLUB AURORA.は隣の県の高級街にある店舗で、そこの水曜日を翔太さんは狙っている。時々水曜日以外にも行っていて、やはりお気に入りがいた。お気に入りの女の人の名前は「マリン」である。翔太さんのスマホの中身も見てみると、CLUB AURORA.への誘いは私もよく知る会社の先輩の佐久間さんからだということも分かった。
佐久間さんは翔太さんの上司で、よく慕っている。もちろん結婚式にも呼んだ。
出会ったのは私よりも佐久間さんの方が先である。
翔太さんは新卒から今の会社に入社しているから、歴代の女性関係の話も聞いていたのだろう。
「愛美ちゃんによく似た子がいるよ」
そうやり取りをしていた。
「愛美」とは、翔太さんが私との行為中に呼んだ名前だ。
「まなみって愛美って書くのか」
あんなに怒り散らかしたのに、私は特に「愛美」に対して嫉妬心がなかったことを思い出した。
それよりも当時は翔太さんへの怒りの方が強かったと思う。
マリンは愛美に似ている、らしい。
翔太さんは愛美に似ているからマリンを指名するのだろうか。
それとも、最初は愛美に似ている人を指名したけど、マリンに乗り換えたのだろうか。
いずれにしても今のお気に入りはマリンに違いない。
どうにかしてマリンに会いたい。
でも、風俗嬢にどうすればコンタクトが取れるのだろうか。
男性用の風俗店に女性が行ってもいいのだろうか。
考えても仕方が無いから、私はCLUB AURORA.に電話をかけた。
「はい、CLUB AURORA.でございます」
恐ろしい人が電話に出たらどうしようと思ったが、以外にも声は若い女の人のもので安心した。
「あ……すみません、私、女なんですけど……」
「はい、ご予約承ります~」
「あ、えっと……」
「指名なさいますかー?」
「あ、えっと、マリンさん……」
「はい、マリンで~」
「来週の……」
「来週ですと水曜、金曜、土日に出勤しています~」
「あ、じゃあ……金曜で……」
「はい、金曜日の何時に致しますかー?」
「1番早い時間って、何時ですか……」
「えーと……18時からですね~」
「18時……あ、じゃあそこで」
「お名前伺います~」
「あ、えっと……」
「仮名でも良いですよ」
「あ、じゃあ、"あいみ”で……」
「はい、あいみ様。金曜の18時、マリン指名、ありがとうございます~」
「あ、はい。お願いします」
「はい、失礼致します~」
「あ、はい」
まるで食事の予約をするかの如く、流れるように決まってしまった。
「金曜日の18時……」
翔太さんは金曜日によく先輩と飲みに行くから、きっと帰ってくるのが遅い。
それに、休日は私と過ごすことになるから、前日に風俗に寄ることはしないだろう。性欲を満たした体で私のことを触れようとはしないのだ。
だから週の半ばの水曜日に会ってるんだと、私は考えている。
私はスマホのスケジュールを開き、予定を書く欄に"あいみ”と入力した。
仮名でいいと言われて咄嗟に出てきた名前だが、"あいみ”は"愛美”の事だった。
人と会わなさすぎて名前が出てこなかったのに、愛美を"まなみ”と言わなかった自分を褒めたい。
スケジュールに久しぶりに浮かんでいる水色の文字を見て、無意識に心が踊る。
その理由が風俗嬢に会えることってどうなのって思うけど、やはり口角は上がるのだった。
約束である金曜日の朝、私はいつも起きる時間より1時間の早起きをした。
フレンチトーストの下ごしらえをする。翔太さんが起きてきたら焼こうと思う。冷蔵庫に眠っていたオレンジを切る。ドレッシングも市販ではない手作りにしてみた。
丁寧に珈琲をいれてラジオをつける。朝の音楽が耳に優しい。
「おはよう、早いね」
翔太さんが起きてきた。
そういう翔太さんもいつもより30分早くの起床だ。
「目が覚めちゃって。フレンチトースト作ったの。食べる?」
「絢音のフレンチトースト好きなんだよね。嬉しい」
「良かった」
珈琲を置いて朝食の用意をする。
清々しく穏やかな朝だった。
「あ、今日なんだけどさ、先輩とご飯食べてから帰るから遅くなる」
焼かれるフレンチトーストの横で、翔太さんが自分の珈琲をいれながら言った。
ビンゴ。
そう思った。
「分かったわ。楽しんできて」
「うん。先輩って佐久間さんなんだけど、絢音も知ってるよね?一緒に行く?」
「うーん、実はね、私も今日、友達と会う事になってるの」
「え、そうなの?」
「うん。学生時代の友達で、久しぶりに会うの。だから私も遅くなると思う」
「へぇー、そうなんだ」
「うん」
平然を装いながらフレンチトーストを裏返す。
フライ返しを持つ手が震えそうになる。
「お、美味そう」
「美味しいよ~。待っててね」
翔太さんをリビングにやり、サラダを盛り付けてドレッシングをかける。その隣にフレンチトーストを並べる。綺麗に焼けた方が翔太さんの分。ちょっと焦げちゃったのは自分用。
「お待たせ」
テーブルにお皿を置く。
「豪華な朝ごはんだ」
「早起き限定です」
2人で笑い合う。翔太さんは「美味い美味い」と何度も言った。
「今日会う友達って1人?」
「え?あ、うん。そう」
「学生時代っていつの?久しぶりなんだよね」
「うん。えーと、小学校とか中学ぶりとか、そんなか感じ」
「へぇー、凄いね。俺、その時代の友達とか疎遠になってるわ」
「そうなんだ」
冷や汗が出た。
不自然過ぎたかも知らない。
「変な事言うけどさ、久しぶりに連絡来る友達って勧誘とかだったりするから、気をつけなよ」
「えー、そうかな」
「そうだよ。よくあることだし、絢音は優しいから、カモにならないように気をつけて」
「ふふ。気をつける」
あぁ、なんて優しい人なのだろうか。
そんな優しい夫をもちながら、私は今日、風俗に行って貴方のマリンに会ってきます。
「ご馳走様。美味しかったよ」
「喜んでもらえて嬉しい」
優しい翔太さんはお皿をシンクまで持って行ってくれる。
ご飯の後は珈琲を飲みながらラジオを2人で聴いたりした。
「仕事行くかー」
翔太さんが伸びをする。
「もうそんな時間なのね」
「行きたくないなぁ」
「ふふ。飲み会でしょ?行かないと」
「そうだな」
「佐久間さんによろしくね」
よろしくなんてしたくないし会いたくないけど、私は良い奥さんなのでそう言った。
「いってらっしゃい」
玄関までお見送りをする。
「いってきます」
翔太さんは優しく微笑んで私の頬にキスをした。
その優しさが続くのはいつまでなのだろうか。
私がマリンに会ったと知ったら、その穏やかな顔は、歪むかしら。
その日の夕方、私は電車に乗ってCLUB AURORA.まで向かった。
久しぶりの電車に揺られていると、携帯が震えた。翔太さんからメッセージが届いている。
「明日、どこか行こうか」
急にどうしたのだろうか。
立て続けにメッセージが届いた。
「絢音ちゃんが観たいって言ってた映画見て、夜は予約したレストランに行こうか」
何故。
なんで今日に限ってこんなに優しいの。
それでも、私は何も分からない女を演じる。
「嬉しい!楽しみにしておくね!」
ハートいっぱいのスタンプも付け加える。
翔太さんは「まかせろ!」という言葉と共に胸を張った男の子のスタンプを送ってきた。
翔太さんは、もしかしたら私が浮気していると思っているのかもしれない。
怖くなったのかしら。
私がどこかに行くなんて思ったのかしら。
私、どこにも行けないのに。
携帯の電源を落とした。
CLUB AURORA.の行き方は何度もシュミレーションをしたから頭に入っている。携帯なんて見なくても辿り着ける。
昔みたいに宛のない場所に行くのではない。自分の家では無い目的地があるのだ。
電車は予定通りに駅に着き、金曜日で混んでいる人の流れを避けながら歩く。
全く知らない街に来るのは何年ぶりだろうか。
全く知らない人間に会うのは何年ぶりだろうか。
私は軽くスキップをした。
傍にいたおじさんから冷ややかな目を浴びせられたが、どうでもよかった。
もちろん、翔太さんからの週末のお誘いもどうでもよかった。
マリンに会って何を話そうか。
それを考えるとひたすらに心が軽くなった。
このまま飛び立てそうだ。
「アハハッ」
改札から外に出て、知らない街の空気を吸った時、笑いが込み上げてきた。
私は、どこまでも行ける。