エースと呼ばれる人種
3年目の1956年のシーズン。
鶴岡はキャンプ後の記者会見で「鹿村の成長だけがハワイキャンプでのたったひとつの収穫だった」と語ってくれたように鹿村に大きな期待を寄せてくれた。
スタメンではなかったものの、開幕戦から鹿村を試合に出してくれて、なんと2戦目ではベテランのレギュラーである松井ではなく、鹿村をスタメンで起用してくれたのだから。
鹿村がプロ初安打や初本塁打を記録したのもこの年の4月だ。
5月や6月に入っても鶴岡はベテランの松井と鹿村をキャッチャーとして併用し続けた。熾烈なレギュラー争いが続く。
しかし、鹿村には焦りはなかった。
松井はこの年の時点ですでに30歳を超えるベテラン。同じくらいの成績ならば、若手である鹿村のほうを積極的に起用してくれるはずだという確信があった。それでなくても、南洋は昨年の日本シリーズ、第5戦以降に積極的に若手を起用したグレイツに勢いを奪われて、日本一の栄冠を逃すという屈辱を味わっているのだ。さらに、鹿村を後押ししているのは、チーム自体の方向転換だ。南洋はそれまで「百万ドルの内野陣」と形容されるほどの守備のチームだったが、打線の強化に力を入れている。
そして、バッティングこそが松井にはない鹿村の最大の武器なのだから。
その鹿村の予測でどおり、七月頃になると、徐々に松井よりも鹿村のほうがスタメンで起用されることが多くなってくる。
そして、ペナントが終わってみれば、鹿村は129試合に出場して打率2割5分2厘・7本塁打・52打点とレギュラー捕手の座を掴み、連盟が表彰するベストナインにも選ばれるのだった。
さらに、その翌年の1957年には全試合に出場して、30本塁打で初のタイトルを獲得。さらにその翌年も21本塁打を記録して、完全に四番とレギュラー捕手の座を手中に収めるのであった。
かつては契約金もないテスト生のあがりの『壁』だった鹿村が、ついに南洋にとってはなくてはならない選手にまで成長した。極貧から始まり、人並み外れた上昇志向を持った男だから達成できた成りあがり劇。そして、それは、宿敵であるグレイツ打倒のため積極的に若手にチャンスを与えた、山岡の執念が実った結果でもある。
しかし、だからといって、鹿村がレギュラー捕手として活躍した56年から58年のあいだになんようがグレイツを破って日本一になったかというと、そうでもない。
それどころか、リーグ優勝さえもままならなかったのが、この3年だったのだから。
ちなみに、この3年間でパ・リーグのペナントを勝ち取ったのはすべて同一チームである。しかも、南洋が未だ達成していないグレイツを破っての日本一も3年連続で達成しているのだ。
九州は福岡に本拠地を持つ『天神パンサーズ』。
そのパンサーズを3年連続日本一に導いた原動力こそが『鉄腕』と称される絶対的なエース・稲尾だった。
なにせ、稲尾がこの三年間で叩き出した通算成績は89勝22敗。とくに圧巻だったのは、58年の日本シリーズで、自らサヨナラホームランを放つなど3連敗のあとから4連勝の立役者となっている。彼が地元の博多っ子のあいだで「神さま仏さま」と称されるのも納得の成績だった。
そして、鹿村が4番に座り、打線の大型化に成功したとなると、次はチームの目標はパンサーズの稲生に匹敵する投手の獲得なのは明白だ。
ファンも首脳陣もそう思っていた時だった。
58年に立教大からその投手が入団してきたのは。
その男の名は杉浦忠。
この男の存在が、鹿村と鶴岡。そして、南洋ファルコンズという球団の歴史を大きく変えていくのであった。