たったひとつの収穫
1956年の南洋の春季キャンプは、ハワイでおこなわれることになった。
理由はふたつある。
第一に南洋はリーグ優勝を果たしたものの、日本シリーズではグレイツ相手に一敗地にまみれた。今までの広島の呉からハワイで環境を変えることでカンフル剤にしようと考えていたこと。
そして、もうひとつ、野球の本場は何と言ってもアメリカ。その本場の技術と知識を吸収しようと画策していたのだ。
昭和30年代。この頃は海外に旅行した経験がある人間よりも、海外に出征していた経験がある人間のほうが多い時代。一般人がハワイへ行くなど夢のまた夢。ましてや、従軍経験がなく、幼い頃から貧乏で観光旅行などしたことがない鹿村にとっては初めて海外への旅路だった
ジェット旅客機の飛んでおらず、南洋の選手を乗せた飛行機がハワイのホノルルに着いたのは、日本を出て14時間後のことだった。
今までと比較にならないほどの金と時間を費やし、南洋にとっては悲願の日本一への起爆剤となるはずだった春季キャンプ。しかし、その幕開けは波乱に満ちたものだった。
初日に現地で歓迎パーティーがおこなわれたのだが、チームを引率していた球団代表がふざけてフラダンスを披露。それを記者が写真に収め、日本のスポーツ新聞に掲載。不謹慎だと激怒した南洋本社は球団代表を早々に帰国させたのだ。
案の定、そこから選手たちのタガが外れるのも時間はかからなかった。なにせ、海外旅行すらも珍しい時代で、行き先は常夏の楽園・ハワイ。しかも現地には言葉が通じる日系人も多く、誘惑も多い。
野球のための強化合宿はあっというまに物見遊山に代わり、選手たちは練習が終わると一目散に遊びに出かけ、門限も超えても夜の街から帰ってこなかった。
しかし、壁である鹿村はそんな暇もお金もない。練習が終わると、使ったボールをかき集めて紛失数を報告。それが済むとようやくホテルに帰れるのだが、そのころになると選手たちは皆、遊びに出かけて誰もいない。鹿村はホテルの庭で黙々と素振りをする日が続いた。このキャンプでは一日2ドルの日当が出ていた。他の選手は遊びで使うのだが、遊びに出かけない鹿村だけはどんどんとお金が貯まっていく。
そんなふうに浮き足立った選手たちに最も怒りを感じていたのは、このハワイキャンプを立案した鶴岡だった。わざわざハワイをキャンプ地に選んだのは、本場の野球に触れるためであり、断じて観光旅行ではない。
そして、その怒りが爆発するのは時間の問題だった。
「キサマは毎晩毎晩、どこをほっつき歩いとるんじゃ!」
ある日の夜。ホテルのロビーに鶴岡の怒声が響き渡る。
雷を落とされている相手は辻という控え捕手だった。鹿村の2年先輩の期待の若手だが、度重なる門限破りと夜遊びについに鶴岡の堪忍袋の緒が切れたのだ。
「日本に帰ったらキサマなんぞクビじゃ! 分もわきまえずに遊びまわりよって!」
喉が潰れんばかりの怒声と共に鶴岡がコブシを振りあげる。次の瞬間、辻は後ろに倒れ、鼻から血が滴り落ちるのであった。
情に厚く、(かつて鹿村の恩師からの手紙に唯一、返事をよこしてくれたように)自分を頼ってくれる人間を見捨てる事ができない親分肌の性格の鶴岡だが、その分、怠惰な選手に対しては厳しく、冷酷だ(ちなみに大辻は帰国後、本当にクビになってしまった)。
鉄拳制裁をしても、まだ怒りが収まらない鶴岡は辻に対してさらに「キサマは営倉入りじゃ」と叫んでいる(鹿村は『営倉』とは何のことか分からず近くにいた先輩に尋ねるが、どうやら兵隊の懲罰房のことらしい)。
そして、かつて帝国軍人であった鶴岡の指導は、(体罰自体が悪とみなされている後年の指導者よりもはるかに)恐ろしく厳しいものだった。その迫力は実際に怒られていない鹿村でさえも背筋が震えるものだった。
しかし、この事件が鹿村の運命を大きく変えるものとなる。
翌日、現地のチームとの練習試合前、鹿村は鶴岡にこう告げられる。
「鹿村、今日の試合はもうオマエがいけ!」
じつはこのハワイキャンプ、レギュラー捕手の松井は早々に怪我でリタイア。そして、控え捕手である辻は連日の門限破りで雷を落とされたばかり。
鶴岡もなかばヤケクソだったのだろうが、壁である鹿村をキャッチャーとして使わなければならない状況だった。
そして、鹿村はこのチャンスを決して手放さなかった。
現地のチームは、日本のプロ野球の二軍くらいの実力で鹿村にとってはちょうどよかった。この日は4回打席に立って3打数1安打と活躍。
その翌日の試合もスタメンで出場して、結局、鹿村は連日の現地のチームとの練習試合に3割以上の打率を残すことができた。
鹿村は嬉しかった。
チーム内では壁であった自分の評価がみるみるうちに上がっていく様子は快感だったし、皆が遊びまわっているあいだ独りで黙々と素振りをしていた努力がようやく報われたのだと思った。
1軍への手応えを確実に感じられたハワイキャンプ。しかし、翌日には日本に帰らなければならない最終日の夜。鹿村も門限破りをおこなってしまった。
気が緩んでいたわけではない。しかし、同期の人間に「オマエは練習ばかりして、遊んでないだろう。俺の親戚はハワイに住んでるんだ。一緒に遊ぼうや」と誘われ、ついつい行ってしまったのである。そして、門限が迫り、さすがに帰ろうやと心配する鹿村に対して「ええやないか。最終日なんやから鶴岡親分も多めに見てくれるで」と引き留めた。
しかし、門限を過ぎて鹿村と同期がホテルへと帰ってきた時にはロビーは地獄と化していた。
鹿村たちとは別の門限を破った選手に対して、顔を紅潮させた鶴岡が赤鬼のような形相で鉄拳制裁をおこなっている最中だったのだから。
そんな時にのこのこと帰ってきたわけだから、鶴岡の怒りの火に油をそそぐ結果となる。
「このバカ者がッ!」
当然、その場で鉄拳制裁。そして、そのまま正座をさせられるのだった。
鹿村たちが解放されたのは日付が変わった頃。主将である蔭山が「俺が親分には説明しとくから、もう早く帰る準備をして寝ろ」と言ってくれた時だった。
そして、日が明けて日本への帰路につく南洋球団一行だったのだが、鹿村の足取りは重かった。
〝こんなことなら遊びになんか出かけるんじゃなかった〟
〝せっかく掴んだチャンスが台無しだ〟
そんな後悔が激しく渦巻くのであった。
そして、帰国後、羽田空港で監督である鶴岡は記者たちの取材に応じる。
翌日、鹿村はその新聞記事を恐る恐る見るのだった。
「ハワイキャンプは一言でいうと大失敗だった」
そんな見出しが目に映り、鹿村の心臓がキュッと縮みあがる。さらに記事はこう続く。
「せっかくハワイまで来たというのに、選手はみな観光気分で野球の練習どころではなかった」
しかし、その最後の一文に鹿村は目を疑う。
「だが、そんな得る物が少ないハワイキャンプだったが、たったひとつ収穫があった。それは捕手の鹿村に使えるメドが立ったことだ。これは楽しみにしてもらいたい」
コブシを握りしめ、大きく胸を撫でおろす鹿村。
そして、この時がプロ入り以来、ひたすら『壁』として扱われていた鹿村が、ようやく選手として認められた瞬間だったのだった。