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南洋球漫伝  作者: パロスペシャル
球の章
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敵は我にあり


「ごくろうさん。我が南洋ファルコンズは、来期からキミとは契約しないことにした」


 1年目のオフ。球団事務所に呼ばれた鹿村はマネージャーからそうあっさり告げられるのだった。


「待ってください。まだ1年目なんですよ。それなのに、もうクビなんですか?」


「なに言うてんのや。野球の才能があるかどうかなんて、1年も見てればだいたい分かるもんや。オマエには才能がない。諦めろ。非情かと思うかもしれんが、これは親心でもあるんやで、なんせ、年齢がいってからでは再就職が困難やからな。オマエはまだ二十歳前やろ。やり直すには早いほうがええ」


 マネージャーの言葉の途中、その場で額を床に擦りつける鹿村。


「お願いです。もう1年だけでもいいんで、どうか南洋に置いといてください。実家には病弱の母がいて、ボクの稼ぎだけが頼りなんです」


 故郷の網野のから南洋に入団して大阪へと旅立つ日。「鹿村克也、バンザイ!」とまるで出征兵士を見送るかのように大勢の人が見送ってくれた。こんなところでクビになるわけにはいかない。仕舞いには、鹿村はこのままクビになったら「南洋電車に飛び込んで自殺するしかない」という脅し文句まで口にするのだった。


「しょうがない奴やな……」


 マネージャーがため息をつく。


「普通はここまで言われたら、みんな素直に従うもんやけど、オマエみたいなしつこい奴は初めてや。今回は特別にもう一年だけ置いといたるわ。けどな、ワシだって伊達に長い事この仕事をしとらん。ワシの経験からいって、オマエは絶対に1軍には上がられへんで」


 文字どおりクビの皮一枚で踏みとどまった鹿村。


 そして2年目のシーズン。ここから鹿村のレギュラー捕手への挑戦が始まるのであった。

 まず、自分の捕手としての弱点を考えた時に、まっさきに浮かんでくるのは肩の弱さだった。


 昭和30年代。まだキャッチャーが扇の要と称されることはなく、肩が強く、それでいて身体が頑丈ならば、それでこと足りるという時代だった。


 しかし、鹿村はテストの時に遠投で、不正をしてようやくギリギリ合格だったように肩が弱かった。これでは、いつまで経ってもレギュラーなど取れるはずもない。


 鹿村が最初に始めたのは遠投だった。


 全体の練習が終わった後に、同期の人間に頼んで延々と遠投を繰り返すのだった。それだけではなく、鹿村は腕立て伏せや腹筋、さらには一升瓶に砂を入れ、それをダンベル代わりに筋力トレーニングもするのであった。


 もちろん、他の選手と同じ練習をしていたのでは、その差は永遠に縮まらない。だから、鹿村は全体練習が終わった後、他の者たちが夜の街に繰り出して遊んでいる時間にこれらの練習をしていたのだった。


 遊ぶ間もなく個人練習をしているわけなのだから、時には「今日は疲れたからもう休もうか」「一日くらい遊んでも大丈夫だろう」と怠け癖が顔を出す時もある。


 しかし、その度に鹿村は「敵は我に在り」――己の中に在る弱い心に打ち勝ってこそ成長への道が開けるという意味の言葉を思い出して、自分を奮い立たせた。


 そして、弱点である肩を鍛えるだけではなく、鹿村はバッティングの練習も怠らない。南洋の一軍のキャッチャーは、鹿村とは逆に打撃に難があった。だからこそ鹿村は得意なバッティングを磨くことも忘れなかったのだ。


 もちろん時間などいくらあっても足りなかった。しかし、才能もお金も持っていない鹿村が唯一、平等に与えられた財産こそが時間なのだ。一時も無駄にはしたくなかった。

鹿村にとってもは2年目のシーズンである1955年。南洋はパ・リーグのペナントを制したものの、鹿村自身は1軍のゲームに出場することはなかったが、たしかな成長と手ごたえは感じていたのだった。


 そして、その年の秋季練習。


 1軍の監督である鶴岡は二軍の視察に訪れていた。


 来年の春季キャンプに連れていくメンバーを2軍監督と話し合っているのだ。


 この年の南洋はみごとパ・リーグの制したものの、日本シリーズでは3勝4敗でグレイツの後塵を拝していた。しかも、それだけではない。1950年にセ・パが分裂し、日本シリーズがおこなわれるようになって、これまで南洋は4回も日本シリーズに出場しているが、その全てでグレイツに敗戦しているのだ。とくに、この年のシリーズは第4戦までは3勝1敗と有利に進めながらも、第5戦にグレイツが積極的に若手選手を起用し、その勢いに押され敗北。そのまま3連敗を喫してしまうという大失態を犯してしまった。


 このままではグレイツに勝てない―― 


 若い力に対抗するには若い力しかない。そう判断した鶴岡は2軍の視察に訪れていたのだった。

そして、ひとしきり2軍の練習を見学した鶴岡はグラウンドを後にしようとする。そのとき、グラウンドで守備練習をしている鹿村の送球が目に止まるのだった。


「あいつ、あんなにも肩がよかったか?」


 鶴岡が尋ねると、2軍監督は「ええ。入団した時は目も当てられないくらいの弱肩でしたけど、この1年でだいぶマシになりましたよ。まあ。それでも1軍レベルやないですけどね」と答える。

「ほう」


 鶴岡は目を光らせ、低い声でうなる。


 そして、二軍監督に指示して鹿村を呼びつけるのであった。


 鶴岡監督に呼びつけられた鹿村は緊張で直立不動の体勢をとる。足は肩幅よりもやや広めに取り、手は背中の後ろで組んでいる。視線は鶴岡の顔よりも少しだけ上をみつめ、口は真一文字に結ぶ。その様子はまるで上官に指令を下される時の下級兵のようである。しかし、鶴岡に対してはその比喩は決して大袈裟なものではなかった。なにせ戦時中、鶴岡は指揮官として200名もの部下を率いた正真正銘の帝国軍人。戦後に復員してからは焼け野原となった大阪の街で南洋の選手兼任監督としてチームの再建に貢献。貧しい食糧事情のなか合宿所で選手と共に畑を耕し、その面倒見の良さとリーダーシップからいつしか「親分」と呼ばれるようになったのだという。


 戦後の、パ・リーグ随一の名門球団である南洋ファルコンズは間違いなく鶴岡がつくったチームに他ならない。


 ただの監督とは違う。テスト生として拾ってもらえた恩義もあり、鶴岡の前に立つ鹿村はいつも緊張しっぱなしだった。


「鹿村。手ぇ見せてみぃ」


 ドスの利いたしわがれた声でそう要求する鶴岡。


「はい」


 鹿村は両手を差し出す。いつもひとりで寮の庭で素振りをやっていたため、その掌はマメが何度

も潰れ固くなり、荒く、ささくれ立っているのだった。


「プロの()や」


 そう短く呟くと、山岡は鹿村の掌から視線を2軍監督に移す。


「おい、来年のキャンプには鹿村を連れてくぞ」


「ええ? しかし、あいつはブルペン捕手――『壁』ですよ」


「それでもええ。むこうに行っても壁は必要やろ。それやったらあいつを連れていく」


 こうして、鹿村のプロ野球生活の初の1軍でのキャンプが実現したのだった。




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