薄氷の入団テスト
1953年。11月23日。
鹿村は京都の網野町から5時間以上もかけて電車を乗り継ぎ、大阪の難波の駅へ向かっていた。
その道中の電車内で、鹿村は年上の青年に声をかけられていた。
「おう、兄ちゃん。見たところ田舎の出やな」
「ええ! わかりますか?」
「そんだけ物珍しそうに電車の中ををキョロキョロしていたら、分かるわい。まあ、偉そうにいうけど、俺も2年前に初めて大阪に出た時には、人がぎょうさんおる都会の電車に驚いて、今の兄ちゃんみたいになってたけどな」
歯列をみせながら、青年は笑う。
難波駅につくまでのあいだ、鹿村はその青年と話をする。青年の出身地は兵庫県の豊岡で同じ近畿の日本海側ということで、よりいっそう親近感を覚えた。しかも、青年も戦争で父親を亡くしており、その点でも鹿村と同じだった。
「そうか。オマエも戦争で親父さんをな……」
「ええ。だから母ちゃんには楽をさせたいんですよ」
「そやな。がんばれよ。おっと、俺はここで降りるわ」
どうやら境遇だけではなく、降りる駅まで一緒だったようだ。難波に着くと青年は電車を降りていく。そして、鹿村もそれに続くが、いつのまにか青年の姿は人混みの中に消えていたのだった。
これから南洋ファルコンズのテストを受けるため、大阪まで足を運んでいた鹿村だったが、いい具合に緊張が取り除かれた。
そして、鹿村はテスト会場である南洋の本拠地・大阪スタヂアムへと向かうのであった。
大阪スタヂアム。
戦前までは仮設のスタンドしか設置していなかった堺市の中百舌鳥球場に代わって本拠地にすべく、南洋ファルコンズが1950年にわずか8か月の突貫工事によって建設。それまで多くのプロ野球の工業がおこなわれていたのが兵庫県の甲子園や西宮球場だったため、大阪府民はこの球場を『昭和の大阪城』と呼んで喜んだ。
すりこぎ型と呼ばれる急傾斜のスタンドもそうだが、この球場が最も特徴的なのはその立地だ。大阪・難波という大繁華街の南海難波駅前という超1等地。西日本の首都というべき大阪の繁華街である難波は、同じ関西の大都市である京都市の河原町と比べても別格だった。こんな大きな駅の真横に球場があるなんて鹿村は信じられなかった。田舎育ちの鹿村はただこの場所で立っているだけでコンプレックスが刺激されるのだった。
球場のグラウンドではすでに300名以上の選手が待機しており、入団テストの開始を待ちかねている。その中には京都市内の名門で今年の夏の甲子園にも出た野球部員のユニフォームもあった。それに引き換え、鹿村は四番とはいえ万年1回戦前のチームの捕手。それだけで弱気の虫が走るのだった
そして、鹿村はグラウンドにいる球団関係者の中に鶴岡監督がいないか視線を走らせる。この場にいるのなら手紙のお礼でも言いたいと思ったが、どこにも鶴岡監督の姿はなかった。
〝やっぱりこんな既に獲得したい選手を取った後の残りカスしかいないような入団テストなんか見に来ないのか〟
鹿村はがっくりと肩を落とす。
そのときだ。
「おい、この中に京都の網野町から来た鹿村という奴はいるか?」
球団マネージャーらしき男から声をかけられる。
「はい!」
鹿村は大きな声で返事をする。
「ああ、オマエか。鶴岡監督からオマエの話は聞いている。まあ、がんばれよ」
それだけ伝えると球団マネージャーは去っていく。
しかし、鹿村は鶴岡が少しでも気にかけてくれているという事実だけで先程までの弱気の虫が消え、新たな活力が湧いてくるのだった。
そして、鹿村の運命を決める入団テストがいよいよ始まる。
まずは打撃テストだった。
ひとりにつき、チャンスは3球のみで、その打球によって次のテストに進めるかどうか決まるのだという。
いくつもの快打と凡打が生まれ、遠慮がちな悲鳴と歓喜が繰り返される中、ついに鹿村の番となる。
ここで終わるわけにはいかない。たった3回バットを振るだけのためにわざわざ清水先生から旅費を借りて大阪まで来たわけではないのだ。
気合を入れる鹿村。
しかし、力めば力むほど打球は多くへ飛ばなかった。
結局、3球チャンスをもらったものの、サードゴロ、センターフライ、レフトと会心の当たりはひとつもなく、散々な結果だった。
意気消沈する鹿村。
そして、全員の打撃テストが終わり、マネージャーが次々とテスト生の番号を呼んでいく。
しかし、最後まで鹿村の番号を呼ばれることはなかった。
〝アカン。やっぱり落ちたか〟
がっくりと肩を落とす鹿村。
「いま番号を呼ばれた者は帰ってよし。呼ばれなかったものは次のテストに進みなさい」
マネージャーはそう最後に伝える。
番号を呼ばれた者が合格だと思っていたが、どうやら逆だったようだ。このテストは打球の行方よりもスイングそのものの良し悪しを見ていたようだ。寿命が縮む思いだったが、首の皮一枚のところで繋がった。
続くテストは50メートル走。6.5秒を切らなければならないのだという
鹿村は脚には自信があった。網野の高校では陸上部よりも速かったくらいだ。五〇メートル走はゆうゆうと合格する。
2次試験までをクリアして、残る試験はひとつ。
しかし、その最終試験である遠投が問題だった。
野球に関しては子供の頃から大人顔負けの実力で鳴らしてきた鹿村だったが、肩だけは自信がなかった。
チャンスは3球。そのうちの1球でも90メートルを越えたら合格なのだという。
ここまで来たら落ちてたまるか、気合を入れる鹿村。しかし、第1投は90メートルのラインにまったく届かず、80メートルほどだった。
「オマエ、なんや。なんで真っすぐを投げて、あんなシュート回転すんねん」
突如、湧いてきた叱咤の声に鹿村は驚く。
「どんなボールの握りかたしとんねん。見せてみぃ」
鹿村にそう尋ねたのは、この遠投の試験でラインズマンを務める男だった。おそらく2軍選手なのだろう。南洋のユニフォームを着ている。
鹿村は尋ねられたとおり先程と同じようにボールを握って、2軍選手に見せるのだった。
「どアホ! そんな握りかたで真っすぐ飛ぶわけないやろ! ええかボールはこうやってて握んねん!」
その2軍選手が言うには、野球のボールというのは2本の縫い目に対して人差し指と中指を交差させるようにするのが、正しい握りかたなのだという。鹿村は(今までキチンとした指導者がいなかっため独学で)2本の指を縫い目に沿わすようにして握っていた。これではボールが変な回転をして真っすぐ飛んでいかないらしい。
そして、今度は2軍選手に教えられた握りかたで遠投する鹿村。しかし、先程よりも飛距離は伸びたものの、あとほんの数メートルが届かない。
意気消沈する鹿村。
「……超えろ」
そのとき、2軍選手が鹿村だけに聞こえる声でささやく。
「あと、2、3メートルくらいの距離やろ。それくらい目をつぶってやるから、ラインを越えて投げてみぃ!」
思いがけない救いの声。その反面、なぜこの2軍の選手はここまで鹿村に親切にしてくれるのだろうかと思ったのだが、その顔を見て鹿村は驚き、得心するのだった。
なんとラインズマンを務めていた2軍選手は、さきほど電車で話していた青年だったのだ。同じような境遇の鹿村を同情して、ここまで身びいきしてくれていたのだ。
そして、鹿村はその言葉に甘えて2、3メートルほどラインを越えて力いっぱいボールを投げる。
すると、今度は90メートルを超えて、なんとか合格。
ついに鹿村は憧れのプロ野球選手になることができたのだった。
「おめでとさん」
テストを取り仕切っていた球団マネージャーがそう言って労をねぎらう。
最終的に合格者は7人で、内訳は投手が2人、外野手が1人、捕手が鹿村を含めて4人だった。
〝合格者は捕手が多いな〟
〝まずはこいつらが当面のライバルか〟
合格者したらといっても喜びはつかの間だった。
貧困のなか病弱にもかかわらず女手ひとつで育ててくれた母や進学を諦めてまで高校に通わせてくれた兄への恩に報いるためには、プロ野球選手として大成しなければならないのだ。ここはまだスタートラインであって、ゴール地点ではない。1軍に入りレギュラーとなるためにはまずこの3人との競争に勝たなければならないのだ。他の六人のテスト生がみな安堵の表情を浮かべる中、鹿村だけは闘争心を剥き出しにした目をギラつかせているのだった。
「オマエらもこんな時間までテストをしていて腹が減っただろう。仮契約の準備には時間がかかわるから、そのあいだ食堂で何でも好きなものを食べていいぞ」
時刻はすでに夕暮れ時。球団マネージャーが球場内に併設している選手専用の食堂でご馳走してくれるというのだ。
〝何にしようかな〟
さんざん迷った挙句に鹿村はカレーライスを注文することにした。なぜかというと、カレーライスだと必ず肉が入っていると思ったからだ。じつは、鹿村は今まで人生で1度しか肉を食べたことがない。あれは3年前、兄の就職祝いに知り合いの農家から貰ったほんのわずかな鶏肉で母がすき焼きをつくってくれたのだ。あの味は今でも忘れる事ができない。
単純に空腹だったこともあり、鹿村はカレーライスを貪る。こんな美味しいものがこの世にあったのかと思うほど、そのカレーライスは絶品だった。
「あの、おかわりしてもいいですか?」
「おう。ええで。好きなだけ食え」
球団マネージャーに促されて、鹿村は結局カレーライスを3杯もおかわりしてしまう。
「よう食う奴やなぁ。でも、食の細い奴はプロでは成功せんからなぁ。そう意味では大した素質や」
そして、カレーライスを食べ終わると、鹿村は別室で仮契約を済ませる。
プロ野球選手の年俸が知れ渡っていなかった時代、鹿村は「一体いくらぐらい貰えるのだろう」「これでようやく母ちゃんを楽にさせてあげられる」と思っていたが、契約書を見せられて当初は月給だと思っていた金額が実は年俸だと知り、鹿村は淡い期待を打ち砕かれた。しかも、ユニフォームとグラブとバットは一つずつ球団から支給されるものの、少ない月給からさらに寮費が差し引かれるうえにさらには靴下やアンダーシャツなどの備品は自腹だというのだ。どうやら、母を完全に養えるようになるのはまだまだ先になりそうだ。
しかし、嘆いてばかりはいられない。今の月給に満足できないのであれば、野球の腕を磨いて早く1軍の舞台に立てばいいだけの話なのだ。
晴れて南洋の選手の一員となった鹿村は決意を新たにするのだった。