南洋ファルコンズがあった頃
久しぶりの大阪を訪れた精司は、ある場所に向かう。
南洋電車の難波駅と直結している大型商業施設『なんばパークス』。
西暦2004年。
すでに南洋が本拠地にしていた大阪スタヂアムは解体され、かつては球場があった場所にこの大型商業施設が建設されているのだった。
ミナミと呼ばれ、大阪を代表する繁華街である難波。そのターミナル駅である難波駅はこの日も多くの人で賑わっていた。
精司はその人混みを掻き分けて、なんばパークスの1階にあるおもちゃ屋を通り抜けてエレベーターホールへ向かう。
そして、1階にエレベーターが到着すると、先に待っていた人々がまず乗り込み、最後に精司が入ったところで扉が閉まるのだった。
精司の目的地は最上階でなので、9階のボタンを押す。そして、精司は先客が10人ほどいたようだが、誰も9階のボタンを押していない事に気づき、寂寥感に駆られる。
このエレベーターに乗り込んでいた客の多くは8階にあるシネマコンプレックスのようだ。八階に着いた途端にあれだけいた客がすべていなくなり、精司だけになるのだった。精司ひとりを乗せたエレベーターは建物を上昇していく。
9階に着きエレベーターのドアが開くと、ガラスのショーケースに入った南洋ファルコンズのウインドブレーカーなどの展示物が目に入り、五九年no悲願の日本一を達成した試合の実況アナウンスがスピーカーから耳に飛び込んでくるのだった。
着いた場所は、『南洋ファルコンズ・メモリアルギャラリー』。
メモリアルギャラリーなどという大仰な名前こそつけられてはいるものの、入場するのに料金も発生しない施設だ。
見物人も精司以外は存在しない。
そもそもこのギャラリー自体がきちんとした展示物を飾る施設ではなく、エレベーターホールの空きスペースに南洋球団のトロフィーや優勝記念皿などを置いているだけの空間なのだから仕方がない。
そして、この空間こそが現在の南洋ファルコンズの現状を如実に物語っているのだった。
鹿村が「公私混同」を理由に南洋の選手兼任監督を解任された77年のオフ、記者会見で鹿村が「野球の世界にも政治があるとは思わなかった。鶴岡元老にぶっ飛ばされた」と発言。マスコミはこの一連の流れを南洋のお家騒動としてセンセーショナルに報じたのだった。
その後、鶴岡は監督人事に関与していることを完全に否定し、南洋は鹿村に抗議。鹿村は鶴岡に謝罪こそしたものの、それは形だけのもので、自分が鶴岡に陥れられたという考えを今でも捨てていない。
そもそも、この一連の騒動は、野球ファンのあいだでは今でも不可解と囁かれている部分が数多く存在する。
解任の理由が公私混同という抽象的なものである事がその最もたるものだ。
61年に最初の結婚をしていた鹿村だが、選手兼任監督に就任した頃にはその夫婦関係は冷えきっていた(その当時、精司はまだ鹿村と交友がなかったので、詳しい事情は分からないが、「都会育ちの社長令嬢と田舎出の成り上がりの結婚など最初からうまくいくはずがなかった」というのが鹿村の談だ)。寝室はお互いに別。顔尾を合わせれば口論になるのでナイトゲームが終わった後の鹿村はネオン街で時間を潰し、夫人が眠った頃に帰宅するような毎日が続き、いつしか別居状態になったのだという。
そんな時だ。
鹿村が、あの女性と出会ったのは。
伊藤佐知代――。女性の社会進出が叫ばれる以前である70年代当時では珍しく、女だてらに会社を経営している女性だった。
鹿村と同じ叩き上げ、それでいて鹿村が有名人だからといって物怖じしない裏表のない性格。
鹿村と佐知代はたちまち恋仲となり、お互いパートナーとの離婚がすんでいないのに同居を始めるダブル不倫の状態に陥る。
だが、これだけならば、ただの有名人によくあるスキャンダルで済んだだろう。実際、選手兼任監督を続けていくうえで後にトラブルにならないように、鹿村は南洋のオーナーに佐知代との関係を報告すると、「プライベートのことには口を出さない。グラウンドで結果を出してくれればいい」とふたりの仲を承認してくれた。
しかし、佐知代は違った。彼女は平穏とは最も縁遠い生きかたをする女だった。
強烈なまでの自尊心と目的意識。自身の落ち度は棚に上げ他者の落ち度は徹底的に痛罵する自己中心性。なによりも歯に衣着せぬという表現が生易しく感じられるくらいの、激しい言動。まさに周囲の人間との軋轢を生むために存在するような女だった(しかし、これくらいの性格でなければ、あの時代に女社長としてやっていけなかっただろう)。
鹿村は南洋の選兼任監督である。南洋というチーム内に限れば独裁者と言っても過言ではない。佐知代のような女が独裁者の愛人としての地位を手に入れ、さらにオーナーという最高権力者のお墨付きまでもらったとなると、どうなるのかは自明の理だろう。
「監督の愛人が自分の息子を勝手に試合前のグラウンドに入れて、コーチに打撃指導をさせている」
「監督の愛人が『わたしの言うことを聞かないと試合に出させないわよ』と選手起用に口を出す」
「監督の愛人が婦人会を結成。選手の妻たちを招集させて、その会合に集まらなかった者が冷遇された」
南洋の選手たちは口々にそんな不満を口にするようになり、やがてオーナーの耳に入る。
「これ以上は鹿村をかばいきれない。泣いて馬謖を斬る」
監督就任以来、鹿村の擁護し続けていたオーナーも鹿村のクビを切ることを決断するのだった(オーナーは最後の温情として自ら辞任するように要求するが、鹿村は固辞。解任を受け入れた)。
しかし、鹿村は球団が発表する公私混同を真っ向から否定。
「佐知代はそもそも野球に興味がなく選手起用に口を出していない。それなのに私がクビになったのは、チーム内に残っている鶴岡一派、またそれに共鳴する者が私を疎ましく思いチームを追い出すために、佐知代を利用したに過ぎない。彼女は被害者だ」と徹底的に異を唱え、佐知代をかばい続けている。
相反する真相が両者の口から語られる格好となった鹿村解任劇。ただその後に残った事実は、鹿村と鶴岡の関係が修復不可能なほど悪化しているということだ。
そして、その後、南洋の監督を解任された鹿村は78年に正式に前妻との離婚が成立して改めて佐知代と結婚。その後ただの一選手と他球団に移籍。『生涯一捕手』を標榜して80年にパンサーズで現役を引退したのだった。
いっぽう、鹿村を解任した南洋はその後に長い低迷期を迎え、鶴岡・鹿村時代はそれぞれ一度ずつしかBクラスに転落したことがなかった名門球団だったにもかかわらず、78年からはただの一度も優勝争いどころかAクラスに浮上することなく、88年に大手スーパーのダイユウに身売り。50年の球団経営の歴史に幕を下ろしたのだった。
その南洋の最後の監督はかつて鹿村とバッテリーを組んでいた杉浦で、チームの本拠余地が移転するダイユウホークスの初代監督も務めたのだ。
当初、大阪のオールドファンはチームの身売りに伴う本拠地移転に動揺を隠せなかった。永い低迷期でも諦めずにいたファンでさえもう応援するのをやめる言い出す者もいた。しかし、そんなオールドファンの多くを引き留めたのも杉浦だった。
「杉浦は親分との約束を貫いて南洋に入団して、己の投手生命を削っても投げ抜き日本一を球団にもしてくれた。そんな杉浦が監督としてチームに残っているのだから見捨てる事なんてできない……」
いっぽう、 解任されてから鹿村は南洋との距離を取り続けた。ダイユウへの身売りの感想を尋ねられても「私はパンサーズのOBですから」といっさいのコメントを出さず、98年に大阪スタヂアムが解体された時にも、2000年に鶴岡が、2001年に杉浦が相次いで逝去した時も公の場に姿を現さなかった。
かつて黄金バッテリーと呼ばれたふたりの距離はあまりにも遠い……。
そして、極めつけがこの南洋ファルコンズ・メモリアルギャラリーだ。
この施設には、南洋の歴史を彩った数多くの名選手の名前と球歴が写真と共に展示されているが、鹿村の写真と名前はいっさい記されていない。
戦後初の三冠王に3000試合出場。捕手としての鹿村の偉業は他に並ぶ者がなく、また、南洋の歴史を語る上でも、鶴岡、杉浦、鹿村の3人は絶対に欠かせないものである。しかし、選手兼任監督として優勝、最高殊勲選手を獲得した73年でさえ、ブレイヴスをプレーオフにて3勝2敗で下してリーグ優勝したという事実のみが記されているだけだ。鹿村の「か」の字も存在しない。
しかし、これには理由がある。
このメモリアルギャラリーを建設する時に南洋電鉄の関係者は、鹿村宅に写真の使用許可を電話で申し出た。しかし、応対した佐知代は「ようやく、あなたたちに積年の恨みを晴らせます。鹿村の名前は使用しないでください。写真に鹿村が映っているのなら、消してください。それがあなたたちに対する私たちの長年の思いです」と断固として拒否したのであった。
あの解任劇に対する南洋サイドと鹿村夫婦の見解は真っ向から食い違い、20年以上も経過した現在でも、杉浦を始めとする子飼いの選手に監督をしたかった鶴岡。そして、その鶴岡が直接動いていなくても、チーム内の鶴岡派の残党に陥れられたという考えを捨てていないのだった
精司が鹿村と出会う前の前……まだ鶴岡親分が監督を務めていた60年代。
南洋に鶴岡の後継者をめぐる権力争いが存在していたかどうかの本当のところは、精司には分からない。
しかし精司は、杉浦と鹿村による権力闘争など存在していなかったと信じている。
もちろん鹿村がウソをついているとも思っていない。彼の、もともと監督の座に対して興味がなかったという発言は嘘偽りのないものだろう。
ただ、あの時代には、鹿村と杉浦による次元の違うもうひとつの闘争が存在していただけだ。
おそらく、鹿村は鶴岡に父性を求めていただけではないだろうか。
幼い頃に父親を戦争で失い、病弱の母親を助けるために甘えなどいっさい捨て去り大人と同じように働いていた鹿村。
そんな鹿村が初めて父性を感じることができた存在が鶴岡――『南洋一家』『鶴岡一家』と称されるチームの家長だった男だ。
高校時代の恩師が書いた1通の手紙のみでわざわざ球場まで足を運びプロ入りのきっかけまで作ってくれた行動力と義理堅さ、壁と呼ばれるブルペン捕手の努力を見逃さずチャンスを与えてくれたハワイキャンプでの慧眼。鹿村の野球人としての成功は間違いなく鶴岡の存在なくしてはありえなかった。
プロ入り当初は貧困からの脱出が最大のモチベーションだったが、鶴岡の人間性に触れて絆を深めていくごとに彼への忠誠心、敬慕の情は強さを増していたはずだ。
しかし、鶴岡には杉浦がいた。
共に南洋入りが内定していた同じ立教大の長嶋がグレイツと契約し、不安になる鶴岡に対して
「ボクが約束を破るような人間に見えますか」と笑い、南洋入団を貫いた英雄。なによりも自らの投手生命を削りながらもひたすらマウンドに登り続け59年には神がかり的な成績で球団初の日本一達成の原動力となった、鶴岡にとっては唯一無二な存在。
ふたりの絆は分かち難く、当初は鹿村に付け入る余地など存在しなかった。
しかし、入団以来、鬼神のごとく勝ち星を上げ続けた不世出のエースも故障には抗えずに、以降は成績を落とし続ける。
いっぽう、持ち前の打撃センスに投手心理の知り尽くした野球頭脳をプラスした鹿村は年齢を重
ねるごとに成績を伸ばして、65年についに3冠王を獲得するのだった。
おそらくこの時点では鹿村の心の奥底では、かつての杉浦にはかなわないが、今は自分のほうが南洋というチームに貢献しているはずだという自負が存在していたはずだ。
しかし、蔭山の死から鶴岡の辞任と他球団移籍撤回を直訴した65年のオフ、鶴岡が鹿村に浴びせた言葉はこの上なく残酷なものだった。
「なにが三冠王じゃ! ちゃんちゃらおかしいわい! ええか、鹿村。勘違いするな。南洋に本当に貢献したのは杉浦だけじゃ!」
鶴岡にすれば、当時、故障でもがき苦しんでいた杉浦を不憫に思う気持ちと自らの酷使によって不世出の大エースの投手生命を縮めたという自責に駆られていたはずだ
しかし、それでもこの時の鹿村が心に受けた傷の深さ。自らの心の一部が死んでいくような絶望を想像すると、精司は瞼からは自然と涙がこぼれ出す。
鹿村は監督になりたかったわけではない。ただ南洋一家の家長である鶴岡にとってのナンバー1の愛弟子になりたかっただけなのだ。精司にはその気もちが痛いほどよく分かる。なぜならば、他ならぬ精司自身が鹿村に父性を感じていたのだから。同じ父性に飢えてもの同士の気もちが分からないはずがない。漫画賞の授賞式の夜。鶴岡に対して恨み言を述べる鹿村と前日に公園で見た拗ねた子供の顔が重なった理由も今ならすべて理解できる。
球界一の頭脳派と称される鹿村。
その鹿村がたったひとつ読み間違えたこと。
それは、彼が競うべき相手は65年の杉浦ではなく59年の杉浦だったのだ。
65年当時、すでに杉浦は投手として死んでいた。そして、愛の絶頂で死に別れた恋人の記憶が美化されるように、鶴岡の中での杉浦はいつまでも59年の輝きを放っていたに違いない。
勝てるわけがない。
なにせ、59年の杉浦は38勝4敗でシーズン最優秀選手を獲得して、日本シリーズで4連投4連勝を達成した天才投手。
鹿村が生涯ライバル視したV9時代のグレイツ3・4番コンビ、長嶋や王でも問題にならない。いや、プロ野球が未来永劫続いたとしても、あの年の杉浦の瞬間最大風速を凌ぐ者など出てくるはずがない。
精司はメモリアルギャラリーの外に出て屋上庭園を歩く。そして、階段を下りていき、2階に存在するなんばパークスのメインストリートへと向かうのだった。
植栽を多用して、渓谷をイメージして建築されたという瀟洒なフロアは、かつての大阪スタヂアムの猥雑な雰囲気など影も形もなくなっている。ただひとつ地面に刻まれた意匠を除いては……。
精司はヒザを曲げて、ホームベースを模ったプレートに手で触れる。これと18.44メートル先にあるピッチャープレートを模った意匠だけが、かつてここに球場が存在していたことを示す証しとなっている。
今でも精司は瞼を閉じれば、かつてこの場所に存在していた球場の風景を思い浮かべることができる。
鹿村がホームを守り、杉村がマウンドで流れるような美しいフォームで投げ、その光景をベンチで山岡が見守っていた在りし日の大阪スタヂアムの姿を。
精司が言葉も発さず、ただ感傷に浸っている間にも多くの若者が横を通り過ぎていく。難波は大阪の若者の流行の発信地と言われているアメリカ村にも近く、この施設にも若者向けのショップが多く軒を連ねているので、その数は多い。精司にとっては特別なものであるこの意匠も、この商業施設を利用する若者の多くにとっては数多く存在するオブジェのひとつにしかすぎない。
精司は人々から南洋ファルコンズの記憶が薄れていくのを痛切に感じていた。それも当然だ。南洋という球団には過去しかなく、今と未来は存在していないのだから。
だが、その南洋球団の破滅は初めから決まっていた未来だったのかもしれない。
人情の街・大阪で生まれ、鶴岡という強烈な父性のもとで一致団結し、「絆」で戦うチームだった南洋。その最強バッテリーだった鹿村と杉浦の決別を決定づけたあの日の夜から……
しかし、そのいっぽうで鹿村という野球人に対する若者の認知度は高く、鶴岡や杉浦さえもはるかに凌ぐのも事実
もちろんすでに鶴岡や杉浦はすでに鬼籍に入ったこともあるのだが、テレビなどのメディアでは彼のぼやきは好評で、とくに野球に関する著作物は数十冊も刊行されているほどだった。
もちろん、監督として日本一を3回達成したことによって、かつては一部のマニアックなパ・リーグファンにしか知られていなかったその野球頭脳が再評価されたのもある。
しかし、鹿村のメディアでの露出が多いのは野球頭脳だけではなく、その人間性が多くの野球ファンを惹きつけてやまない面があるのも事実だ。
鹿村の人間性、それは数多くの矛盾と精神的なねじれが存在している。
たとえば、著書では監督の役目とは選手の人間形成だと述べて、あいさつを始めとする目上の者に対する礼儀作法や人間教育の重要性を説いている。しかし、そのいっぽうは、鹿村自身は他ならぬ鶴岡や杉浦の葬儀に顔を出さずに、南洋OBから痛烈な批判を受けている。また、毀誉褒貶が激しく、精司のように心の底から慕うものが存在するいっぽうで、その人間性を批判する者が後を絶たないのも事実。
人は完璧なものに惹かれるが、どこか歪だったり数多くの矛盾をはらんだ存在にも惹かれる一面もある。そして、鹿村の精神構造は前出のように、「善・悪」「正・邪」など、ただひとことでは言い表せない矛盾やねじれが数多く存在しているのだった。
「王がいなければ、ホームラ王として名を残していのはワシのほうやった」
「ワシの野球は考える野球。長嶋のようなカンピュータ野球には負けられん」
「王や長嶋が太陽の下で燦然と輝くひまわりならば、ワシは日本海の浜辺にひっそりさく月見草や」
鹿村はテレビなどに出演した際は、このようなぼやきで笑いを誘う事が多い。そして、王や長嶋を始めとするグレイツの有名選手へのコンプレックスが自身の性格形成に大きな影響を与えたと締めくくるのが定番と化している。しかし、本当にその言葉を額面どおりに受け止めてもよいのだろうか。
鹿村に決定的な敗北を与え、精神的なねじれや矛盾を形成したのは……王や長嶋でもなければグレイツではない。杉浦と鶴岡がつくりだした南洋というチームではないのだろうか。少なくとも、杉浦や鶴岡に対しては先程のようなぼやきも言えないほど、複雑な思いが渦巻いているのは確かだ。
しかし、3者の和解は叶わないまま、鶴岡と杉浦はすでに鬼籍に入った。
鹿村は今でも鶴岡を憎しみ続けているのだろうか。
精司はもう一度、ホームベースを模ったプレートを手で触れる。ただその冷たい感触が掌の体温を奪っていくだけで答えなどでないのであった。