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南洋球漫伝  作者: パロスペシャル
漫の章
21/27

球愛


道に迷った時、傷ついた時、精司はいつも野球にふれる事でその心を癒してきた。堪えきれない悲しみや胸が焼けつくような憤りも野球にふれれば、その全てを忘れることができる。食うに事欠いた極貧の少年時代も心の支えにしていたのは野球だった。


そして、この日も精司は球場に足を運んでいた。


大阪の難波。南洋ファルコンズが本拠地としている大阪スタヂアムである。「好きな球団なんてふたつもいらん。ひとつでええ」初対面の鹿村に言われた言葉に従い、今では精司も南洋ファン一筋である。


この日の南洋は、在京球団である『宝映アスリーツ』を迎えての一戦だった。


〝あいかわらず少ないな〟


 休日のデーゲームにもかかわらず、スタンドの人影はまばらだった。


 69年から71年にかけて相次いで発覚した八百長。いわゆる『黒い霧事件』はパ・リーグに黒い影を落とした。


 信頼勝ち取るのは長い年月を要するが、失うのは一瞬とはまさにこの事。パ・リーグの球場は、いまだに空席が目立ち、セ・パの格差をよりいっそう印象づける結果となってしまったのだった。


 八百長に関与している選手はいなかったものの、この南洋も観客数の減少は避けられず、球場の中よりも外のほうが人口密度が高いなどと揶揄される始末だ。


 たしかに球界の盟主であるグレイツには、圧倒的人気を誇る3番・4番のコンビ。一本足打法の王とミスタープロ野球の異名を取る長嶋がいる。


 しかし、パ・リーグにだって魅力的な選手は大勢存在している。


 その最もたる存在が鹿村だ。


 チームの得点量に直結する四番。


 ゲームの命運を握るピッチャーをリードし、扇の要とならなければならないキャッチャー。


 そして、常にチームの先頭に立ち、その勝敗の責任をすべて背負い込ななければならない監督。


 その、どれか1つでも常人では持たないであろう精神的重労働を3つも背負い込んでいるのが、今の鹿村である。


 そもそもキャッチャーというポジションは、ピッチャーが投げた数の分だけ返球し、ゲーム中は常に立ち姿勢、座り姿勢を繰り返さなければならない重労働。守備の負担だけで心身ともに疲れ果て、打撃のタイトル争いができるほどのキャッチャーなど国内のプロ野球はおろか、大リーグを見渡してもほとんどいない。


 これは南洋の鹿村のチームメイトが聞いた話だが、鹿村は医者が全治何か月だと診断したような怪我でも、次の日には平気な顔をゲームに出続けて、どんな出血もすぐにピタッと止まるような体質だったため『トカゲ』などと言われていたらしい。


 また、雪で立ち往生した列車内で通路に新聞紙を敷いたような劣悪な環境下、他の選手はなかなか寝付くことができないにもかかわらず、鹿村だけは簡単に眠る事ができたというエピソードも聞いた。さらには南洋の入団テストに合格した後にカレーライスをあっというまに3杯も、4杯もペロリとたいらげマネージャーを驚かせたという大食漢。


 鹿村は口癖のように「ワシにはプロ野球選手としての才能は何ひとつなかった。だから、必死になって頭を使うて、ここまで成り上がってきたんや」と語っているが、この肉体的・精神的なタフさ頑健さは、スポーツ選手としては万人にひとり以上の才能だと精司は思うのであった。


 そして、ゲームはアスリーツの先攻で開始される。


 しかし、ゲームが開始されれば、いつもすぐに意識を没頭する事ができる精司もこの日は試合に集中できなかった。


 もちろん考えるのは自分の漫画のことだ。


 このまま自らが理想とするアリティを重視した野球漫画を描き続けていれば、それは編集者から「地味」と判断されて日の目をみる可能性は低い。


 しかし、インパクトを重視してケレンミ溢れる作品を目指したところで成功できるとは限らない。


 理想を貫くために、己を変えない強さ。

 理想を貫くために、あえて己を曲げてでも変化する強さ。


 どちらの強さが正解なのか、精司には判断がつかなかった。ただ、度重なる挫折で己を信じる勇気が尽きかけているのは確かだった。


 そんな逡巡を繰り返していくうちに、展開はどんどんと進んでいき、試合はもう終盤に突入していた。


 点差は同点。イニングは9回オモテになっていた。


 アスリーツの攻撃。しかし、南洋はピンチを迎えてしまう。先頭打者とその次の打者に連続ヒットを許し、そこから送りバントを決められて、さらにその後の打者にもフォアボールを与えてしまい、ワンナウト・1、3塁のピンチを迎えてしまう。


 しかし、鹿村は落ち着いていた。


 主審に声をかけて、投手交代を告げる。


 場内アナウンスが流れ、代わってマウンドに上がるピッチャーの名前がスコアボードに記されると場内は疑問を呈するざわめきに包まれる。


 そして、精司もこの投手交代に関しては腑に落ちない部分があった。


 ワンナウト・満塁のこの場面は犠牲フライすら与えたくない状況である。ゲッツーは最高だが、できればボールをバットに当てられたくもない。三振が欲しい場面ともいえる。しかし、この交代して出てきたピッチャーは先程まで投げていたピッチャーよりもはるかに球威が劣っていた。


〝三振を取りたいなら、ピッチャーは交代しないほうがよかったんじゃないのか?〟


 そう疑問に思う精司だったが、すぐに鹿村の意図を気づく。


 たしかに、三振が欲しい場面では、この状況で最も恐ろしいのは押し出しで点が入るうえにひたすらランナーが溜まり続けるフォアボールである。


 そして、交代して出てきたピッチャーは球威こそは先程のピッチャーよりも劣るものの、抜群の制球力がある。鹿村はそれに賭けたのだ。


 そして、以前、鹿村が語ってくれた話を精司は思い出す。


 鹿村は入団してきた新人ピッチャーには、まずコントロールを磨くように厳命するのだという。曰く「150キロのストレートも目を見張るような変化球もないんやったら、せめてコントロールだけは身につけてくれ。ミットを構えたところに投げられるんやったら、ワシがリードでなんとかしたるわい」。


 そして、鹿村は続けてこうも言った。「杉村のような1流ピッチャーを受け取るときはラクチンやが、実におもろうない。なにせ、あいつが本当に調子のいい時は本当にキャッチャーのワシは受けとるだけでホンマに何もせえへんでよかったからな。そやけど、やっぱりキャッチャーとして面白いんは、2線級のピッチャーを受けとる時や。そういったピッチャーを色々やりくりして、強打者を抑えるんはキャッチャー冥利に尽きるでぇ」。


 その言葉のとおり、鹿村は頭を振り絞ってこの場面を切り抜けようとしていた。


 そのピッチャーの決め球を初球から要求し、特定のコースや球種が有効だと分かれば、そこを執拗に攻める。行き詰まれば、死球スレスレの内角高めを攻めてバッターの読みと目を白紙に戻して、再び決め球を投げられる環境を整える。


 自転車操業の社長を思わせ、いじましさすら感じられる配球だったが、結果は圧巻だった。


 なんとアスリーツの3番、4番を連続して見逃し三振に斬って取る。犠牲フライすらも打たせたくない状況だが、鹿村はとことん相手の裏をかき、相手にほとんどバットを振らすこともせず2者連続の三振に仕留めたのだ。


 絶体絶命のピンチを凌ぎきり、逆に勢づく南洋ナイン。


 そして、この回の先頭打者は鹿村だった。


 球場にいる南洋ファンの誰もが、劇的な結末を夢想する。


 その刹那、鹿村のバットから澄みきった快音が響き渡り、スタンドへと消えていくのだった。


 次の瞬間、精司の肌に人声が研磨された針のように突き刺さる。


 球場にいる誰もが刮目しているなか、鹿村はゆうゆうとホームベースを1周するのだった。


 髪型は白髪の混じった七三分け。顔立ちは端正と言うにはほど遠く、体型もずんぐりむっくりのどこにでもいるような中年。鹿村の容姿はハッキリ言って冴えない。しかし、この球場では鹿村は誰よりも輝いているのだった。


 しかし、そんな鹿村も初めからヒーローだったわけではない。野球すら諦めなければならない極貧生活に、『壁』から始まり、同期の人間が次々と逃げ出すほど劣悪な練習環境。


 しかし、男は諦観を捨て、絶望を拒否し続けた。肉体的・技術的な限界が訪れても、『知』という無限の可能性を秘めた武器をひとつにどん底から這い上がり、確固たる地位を築いたのだ。


 狂喜乱舞する南洋ファンを尻目に、精司の心は痺れきっていた。ただ黙ってホームに返ってくる鹿村の姿を茫然とみつめるのだった。それは何よりも尊く、かけがえのない時間だった。


〝己の理想を貫こう〟


 そう思った。


 理屈ではない。


 己の内なるささやきに耳を傾けた結果である。


〝鹿村さんのようにすべてを野球に捧げて、己を貫こう〟


 そう心に誓うのであった。



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