高校入学
鹿村もこのままいけば、自分はプロ野球選手になれると信じて疑わなかった。しかし、その夢が脆くも崩れかける。
ある日、学校から鹿村が家に帰ると、母に呼ばれた。その顔はどことなく浮かない表情をしているように感じられる。たとえ極貧の生活でも「いいところの子に負けるな」と常に発破をかけていた母の深刻な顔に、鹿村はいったいなんだろうと思った。
鹿村は布団で横になっている母の傍に座る。
「母ちゃんは見てのとおりこんな身体だし、オマエは兄ちゃんと違って勉強ができない。だから、中学を卒業したら働きに出ておくれ」
母が言うには、すでに京都市内の繊維問屋に丁稚に出すことで話が進んでいるらしい。
身体が資本のプロ野球選手といえど、高校卒業以上の学歴を持っている者がほとんどで、高校に進学すらしていない者がプロ野球に入った事などこの時代では皆無だった。高校進学を諦めろというのは、プロ野球選手になるのを諦めろということ。
歌手や俳優を諦めて、ようやく見つけたプロ野球選手になるという夢。意気揚々と歩いていた道が。一瞬で断崖絶壁になった気分になり、鹿村は目の前が真っ暗になった。
しかし、鹿村はその母の提案に正面きって猛反対することはできなかった。
なにせ母は一命を取り留めたものの、癌の後遺症で人工肛門となり、未だに糸繰りの内職しか仕事ができないような健康状態なのだ。
なによりも鹿村自身が野球を始めたのだって、プロ野球選手になって稼ぎたいという目標があったからだ。今の我が家の経済事情ではでは鹿村を丁稚奉公に出すのが、最も理想的だというのも理解できた。
しかし、いくら理屈として頭では理解できたとしても、感情では納得などできなかった。
網野町は栄えている町ではないが、同級生の男の中で卒業後に就職するなんてものはいなかった。それだけに、惨めだった。なによりも鹿村はもっと野球を続けたいと願っていたのだった。
母からそう宣告された夜。鹿村は枕を濡らし、それからもふさぎ込む日々が続いたのだった。
しかし、そんな鹿村を見かねた3歳年上の兄・嘉明が母にこう言ってくれた。
「母ちゃん。俺はアルバイトしながらでも大学にいくつもりだったけど、進学は諦める。だから、克也を高校にいかせてやってくれないか?」
しかし、渋い顔をする母にさらに頼み込む。
「これからは絶対に学歴社会になるから高校くらい出ておかないと絶対に苦労する。なにより俺は克也に高校をやらせたいんだ」
まったく勉強ができない克也と違い、兄はいつも通知表で「甲」以外の成績は取ったことがなく、暇さえあればいつも机の前に座っているような秀才だった。
鹿村が今でもよく覚えているのは、母が入院していて兄弟が遠縁の親戚の家に預けられていた時の事だ。
ある日の夜、鹿村は兄が布団の中でしくしくと泣いているのを目撃する。気丈な兄が泣いている姿を見るのは初めての経験だった。
遠縁の親戚の家は網野町ですら比較にならないほどの僻遠の地。なにせ、集落にはその遠縁の家を含めて9軒しか家がなく、その屋根はすべて藁ぶきだった。
そんな田舎に預けられて、きっと兄は心細さと寂しさから泣いているのだろうと鹿村は思った。しかし、兄は否定する。
「このままじゃあ勉強が遅れる……」
山間の小学校では満足な勉強が受けられない。このままでは町にいる同級生との差が開く一方。兄にとっては母と離れて暮らさなければならない寂しさや心細さよりも、勉強が遅れてしまう悔しさや憤りのほうが上だったのだ。
そんな兄だからこそ、母は貧しいながらも大学に進学させて、その代わりに鹿村を丁稚奉公に出さそうとしていたのだ。
その兄が、自らの意志で大学進学を断念して、鹿村の学費を捻出してくれる。それは鹿村にとって涙が出るほどありがたい申し出だった。
当初は困惑していた母だったが、兄の説得によって鹿村はようやく高校への進学を許してもらえるようになった。
そして、その年の春に鹿村は近くの公立高校に進学、兄は京都市内にある精密機器を製造するメーカーに就職する。1951年の春のことだった。