助けを求める声
一週間も過ぎると、配達先を言われればすぐ頭に浮かぶようになってきた。
配達する人手が増えることでワーグは楽になったと言うし、ノアラはちょっとお客と話し込んでいても、別のお客の対応はシャルアがするので心置きなくおしゃべりに夢中になっている。
今のところ、客からこれというクレームもなく、シャルアは順調に仕事をこなしていた。
住み込みだから、家事もノアラと分担ということだったが、ほとんどシャルアがやっている。
ウットの村では、家のことはずっとシャルアがやっていた。慣れたものだから、別に苦にはならない。この点は、特にノアラに好評だ。
一つ残念なことがあるとすれば、いまだにジェナスが戻って来ないこと。
配達の帰り、寮へ寄ってあの管理人のおじさんに尋ねてみた。顔は覚えてもらったようなので、さすがにもう疑われることはない。
しかし、まだ帰ってない、というつれない返事があるばかりだ。まさか役所に乗り込んでネルバに「ジェナスはいつ帰って来るのっ」と問い詰める訳にもいかない。
こればかりは「早く帰って来て」と祈るしかないのだ。
その日、シャルアはガルマックの屋敷へ配達を頼まれた。少量のチーズやスパイスなど、そんなに重量もないので楽なものだ。
シャルアが配達すると言えば、こういった細かい物がほとんど。その分、配達先の数は多いが、天気がいい日だと外へ出ることでいい気分転換になる。
「行って来まーす」
荷物を持って、シャルアはガルマックの屋敷がある方へと向かった。この前クノンに教えられて一緒に入った通用口へと歩く途中、右手方向に広がる森を眺める。
このお屋敷は、森の入口に建ってるって感じかな。裏手はどれくらい森が広がってるのかしらね。
そんなことを考えながら、通用口をくぐる。配達の品を厨房にいる使用人に渡し、シャルアはソブがいるかを尋ねた。せっかく来たのだし、挨拶くらいはしておこうと思ったのだが、今日はソブも助手のケイレディンも休みだと言われる。
こういう仕事ってお休みは不定期だろうから、会えなくても仕方ないか。
別にどうしても会いたかったわけではないから、それは構わない。
それに、もしケイレディンだけがいたら。
この前の挨拶を思い出せば、多少の会話すら望めそうにない気がする。それなら、二人が同時にいない方がありがたい気もした。
あの時の愛想のなさは、シャルア十七年の人生でもダントツだ。口が重いにも程があるというもの。誰にでもあんな調子では、間違いなく第一印象が悪い方へ入ってしまいそうだ。彼に友達はいるんだろうか、と余計な心配をしてしまう。
もしくは、打ち解ければすごくいい人、だったりするのだろうか。
その点では興味がわくが、本当にそうなのか探ってみようとは思わない。何にしろ、人間相手の職業ではないから、彼もやっていけているのだろう。
通用口を出て帰りかけたシャルアだが、森へちょっと入ってみようかな、なんてことをふと思いついた。うっそうとした深い森、とまではいかないし、ちょっとくらい散歩したって構わないだろう。
枝葉が重なり合って陰になっているので、同じ外であっても日なたとは違って少しひんやりしている。でも、それが何となく気持ちよかった。
道らしい道はないが、歩くのに支障はない。木の根が盛り上がったりしている所ももちろんあるが、全体的になだらかだ。キノコや木の実があれば、まかないの一品に加えられるのだろうか。
「……」
最初のうちこそ気持ちよく歩いていたシャルアだが、ふと妙なことに気付いた。
鳥の声が全然聞こえない。
ウサギやリスなどの小動物がいたとして、シャルアの足音で逃げてしまい、見かけないということはありえるだろう。
しかし、鳥がまったく鳴かない、ということはあるのだろうか。
ガルマックの屋敷へ来るまでには、ヒバリのさえずりが聞こえていたし、ツバメらしき姿も見た。それなのに、森で一羽の鳥も鳴かないなんてことがあるのだろうか。
村の近くにあった森では、何かしらの鳥がいつもさえずっていたのに。
足を踏み入れた時は、何も思わなかった。なのに、こうして歩いているうちに、何となく緊迫した気配が漂っている、と感じるのは……なぜなんだろう。
この森には実は危険な肉食獣がいて、シャルアを獲物として狙っている……というのでは、たぶん、ない。本当にいるなら、この前案内してくれた時にクノンが教えてくれるだろう。
もしくはソブか厨房にいる誰かが、危ないから近寄らないように、と注意してくれるはず。だから、そういうのではない。
なのに、肌がぴりぴりしてくるような、何とも言えずおかしな気配がする。
帰った方がいいわよね。
深入りして迷い、帰れなくなるのも困る。今なら、振り返れば屋敷の屋根もわずかながらに見えているし、それを目印にして迷うことなく戻れる。少し散歩をするだけのつもりだったのだし、さっさと戻って店番をしなければ。
今は配達の途中で、自由時間という訳ではないのだ。
シャルアが回れ右をして帰ろうとした時。
たすけて
空耳と思ってしまうような、かすかな声が聞こえた。
シャルアの耳は悪くないが、特別いいという訳でもない。しかし、確かに救いを求める声だった。消え入りそうな声ではあったが「たすけて」と言った。
性別はわからないが、低くはなかったのでおじさんではない。だが、大人の女性か子どもかまでは判別しにくかった。無防備だった上に一瞬だったので、何とも言えない。
他の言葉ならともかく、たすけてと聞いて放ってはおけないわ。
シャルアはどこから聞こえたかわからない声を探しに、さらに奥へと向かった。
もし迷っても、シャルアが森の中へ入ったことは誰も知らないから、助けに来てもらえない。
ちゃんと自力で戻れるように、所々で木の根元に小枝で四角や三角を作り、その中央に一つか二つの小石を置いてマークを作った。これを目印に戻ればいい。
単に折った枝を落とすくらいでは、どれが目印だったかと見失ってしまう恐れがある。これなら人の手、つまり自分が意識して並べたものとわかるから大丈夫だろう。
いくつも並べてあれば、小動物が蹴散らして全てなくなってしまう、ということはないはず。
振り返っても、もう屋敷の屋根は見えない。スタート地点がわからなくなった途端、一気に不安が押し寄せた。本当に自分が残したマークだけが頼りなのだ。
しかし、歩き続けても、助けを求めた声の主は見付からない。聞こえたのは、さっきの一度きり。それすらも、どこから聞こえたかがはっきりしない。どちらへ向かえばいいかも、シャルアにはわからないのだ。
それに、かすかだったからやっぱり空耳だった、という可能性もある。
でも……空耳じゃないと思うな。
色々とありえそうなことを考え、しかしシャルアはそれらを否定した。これという根拠があるのでもない。しかし、シャルアは絶対にあの声を自分は受け取ったのだ、という気がしてならなかった。
それに、空耳で「たすけて」なんて、あまりに不穏だ。
「水の音?」
かすかに水が流れる音が聞こえ、そのまま歩いて行くと目の前を細い川が横切っている所へ出た。目で追うと、川は屋敷のある方角へ流れているようだ。
もしかすると、流れは屋敷の裏手まで続いていて、屋敷での生活用水はこの水が使われているのかも知れない。いざとなれば、この川をたどることで戻れそうだ。
そんなことを思いながらシャルアが川を眺めていると、がさっという音がした。反射的に、シャルアは近くの木の陰へ隠れる。
別に悪いことをしているつもりはないが、あちら側に友好的な態度が示されるかわからない。この森のぴりぴりした雰囲気は、よくない流れに向かっている気がする。ひとまず、様子を見るべきだろう。
音をたてた主が別の木の陰から現れたのを見て、シャルアは隠れて正解だと思った。
身体にフィットした黒っぽい服に身を包み、帯状であろう布で頭と顔を隠した人物が出て来たのだ。
な、何なの、あの人。もしかして、お屋敷へ泥棒に入ろうとしてるとか? まだ昼間なのに。
現れたのは十中八九、男だ。露出しているのは、目の周辺と手だけ。その手に何かを持っていて、シャルアは木の陰からそっと覗いて目をこらす。
それが何かわかって、思わず声を上げそうになった。
男は妖精を掴んでいたのだ。小さな人形のようだが、間違いない。
その妖精は意識がないようで、ぐったりしている。
もしかして、さっきの声はあの妖精? たすけてって言ったのは……。
そこまで考えて、シャルアはクノンが話してくれたことを思い出した。最近、妖精が消える事件があって、役所の魔警課が調べているうんぬん、というあの話だ。
セフラが疑われている、ということは聞いたが、あそこにいるのはセフラではない。体型から見ても、明らかに別人だ。
もしあそこにいる男が、本当の犯人なら。犯人でなくても、この状態で無関係とは思えない。
きっと妖精は、あの男に捕まえられそうになって「たすけて」と叫んだのだ。
シャルアは今まで妖精の声を聞いたことはないが、声が聞こえた場所からここへ来るまではそれなりに距離がある。
それなのに、シャルアが聞き取れたのは妖精の悲鳴だったから、と考えれば納得もしやすい。
でも……助けてあげられない。
あのシルエットを見る限り、相手は男。胸にきつく布を巻いた女性だとしても、シャルアより間違いなく大きい。シャルアは丸腰だが、向こうはどうだろう。
武器の有無にかかわらず、相手は妖精を捕まえられる。つまり、魔法使いである可能性が高いのだ。
シャルアと同じように「見える人間」というだけで魔法使いではないとしても、あまりに分が悪い。最悪だと、目撃者となってしまったシャルアがここで殺されかねない。
男は川べりにしゃがみ、手の中でぐったりしている妖精に何か呪文らしき言葉をつぶやいた。
小さいし遠いので、妖精の表情までは見えない。動く様子がないので、意識を失っていると思われる。男の手から流れ落ちる妖精の金色の髪は美しかったが、その手の上で妖精が起き上がることはない。
いや、もしかすると逃げられないよう、さらなる戒めの魔法をかけているのかも知れない。
シャルアには魔法の呪文なんてわからないし、男がこれからどうするつもりか知らないが、あの妖精が自力で逃げるのは、ここから見ている限り無理だ。
自分にはどうしようもないとシャルアが歯がみしていると、またがさっという音がして別の誰かが現れた。
今度は少女だ。男と似たような黒っぽい服を身に着けているが、こちらは顔を隠していない。男と仲間のようだが、それならよくない輩だろう。にも関わらず、顔を出したままなんて堂々としたものだ。
見付かっても、うまくごまかす術があるのだろうか。もしくは、絶対に見付からない自信があるのか。
ちょうどシャルアと向かい合う状態で立っているので、その姿がよく見える。見たところ、シャルアと変わらないくらいの年代だ。
きゃしゃな体型に、黒のショートボブ。色まではわからないが、ねこを思わせる上がり気味の大きな目。膝上丈のスカートから伸びる足は、すらりと伸びて。街にいれば、その外見ならきっと評判になるだろう。
「どう?」
少女は男に尋ねた。男はゆっくり立ち上がり、黙って首を横に振る。それから、低い声で少女に尋ねた。
「他はどうだ?」
「いなかったわ。もうちょっと何かあってもよさそうなのに」
少女はすねたように口を尖らせる。
「まだしばらく様子を見るしかないな。焦って逃げられては、意味がない」
少女がつまらなそうに男を見る。
「探すの、もう飽きちゃった」
「そう言うな。この妖精が見付かっただけでも、収穫だ」
彼らの会話に、シャルアの心臓が苦しい程に激しく打った。
妖精が消えている事件に、やはり彼らが関わっている。思いがけず、シャルアはその場に居合わせてしまったのだ。
しかし、取り押さえることはかなわない。一人でも無理だと思っていたのに、人数が増えてはなおさらどうしようもなかった。シャルアは何の武術もできないし、魔法なんてもってのほか。仲間を呼ぶ、ということも無理。
そもそも、シャルアに悪者を捕まえられる仲間なんていない。強いて言うならジェナスだろうが、今ここで呼び寄せることはかなわない。
ひたすらもどかしい思いをしているうちに、二人はシャルアに見られていることに気付いていない様子で、その場を離れて行った。
後は、静かに川の流れる音。
シャルアはしばらくその場を動けなかった。緊張しすぎて、彼らがいなくなった途端に力が抜けてしまったのだ。
気が付けば、鳥のさえずりが聞こえる。ここへ来るまでに感じた、緊迫した気配みたいなものは消えていた。
あたし、犯人を……事件の目撃者になっちゃったんだわ……。
少し時間が過ぎてようやく歩けるようになり、シャルアは自分が残した目印をたどって何とか森を抜け出る。
空はゆっくりと暮れかけていた。