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「という訳ですの」
シェリーの玲瓏な声で語られた話は想像以上に恐ろしく、気持ちが悪く、エマは顔をひきつらせた。
「うぇっ……数十匹のゴキブリとか……怖い通り越して気色悪すぎますよ~。私ならその場で卒倒します」
「まったくですわ。ただの悪戯ならまだいいですが……そうとは言いきれませんでしょう?もし、これがわたくしを排そうとするものの仕業なら……」
「厄介ですね。……けれど、あの枕の下がゴキブリ達の巣ということも考えられませんか?」
害虫とされるゴキブリは巣を作り身を寄せあうように生きていくと聞いたことがある。
しかし、シェリーはそんなエマの考えを否定する。
「国王夫妻のベッドが巣?あり得ませんわ。第一、もしそうなら使用人の誰かが気づくでしょう。それにあの虫達、一部は生きていましたけど、大半は既に死んでましたの。わたくしに殺されたであろう虫は潰れた状態で事切れてましたが、潰されず綺麗な形なまま死んでいた虫もいましたわ。おかしいでしょう」
よくそんなに観察できたなと感心する。普通の令嬢ならそれを視界にいれた瞬間、悲鳴を上げてその場で気絶するものだ。流石は怖いもの知らずのシェリーと言ったところか。
「困りましわねぇ。この国もどうやらわたくしにとって安寧の地とはならないようですし……。わたくしを害してなんの得があるかわかりませんが、喧嘩は売られてしまいました。おめおめと引き下がっては、シェリー・ウィン・アレクセイの名に傷がつきますわ」
そこでシェリーはニヤリと笑った。その笑みの何と恐ろしいことか。エマの顔が瞬時に青ざめる。
「エマ」
「…………はい」
嫌な予感しかしない。
「ただの悪戯であるうちに、自衛手段の一つでもとらないといけませんわね」
「シ、シェリー様?」
「エマ、貴方は城中から情報を集めて来なさい。何でもいいですわ。少しでも気になったことがあれば即わたくしに報告するのですよ。いいですわね」
「えーっ!私、これから城の庭で散歩しようと思ってたのにぃ……!」
「まあっ!主であるわたくしの危機に散歩とか何ですか!第一、この城に庭なんてあるんですの?見渡す限り森しかないじゃないですか」
「ひゃ、ひゃめへくらさい!ほっへがのひますぅ~」
痛みに涙を浮かべるエマの両頬を容赦なく掴み、びよーんと伸ばすシェリーは魔女のごとき凄惨な笑顔でエマに命じた。
「良いですかエマ。貴方は何故か人をたらし込める才能の持ち主です。その才能を存分に発揮してわたくしのため、情報を持って来なさい」
その迫力満点の顔にエマは庭探索を諦めるしかないと悟った。ガックリと肩を落として頷く。
「わかりましたよぅ。それで、シェリー様はどうするんですか?」
「わたくしですか?わたくしでしたらもう既にやることは決まってます」
シェリーはそう見るものをゾッとさせる笑みを浮かべてきっぱりはっきりと言い切った。
「夫婦仲を良くするため、陛下を誘惑する準備に取りかかるのですわ!」
しかし、シェリーの思惑とは裏腹に、その後も竜王の夜のお渡りはただの一度もなかったのだ。
◆◆◆◆
仕事があると言ってシェリーを一人寝室に置いてきた夜、竜王はヴィーノ以外の二人の息子を執務室に呼んだ。
執務室は広い一間の部屋で、壁一面書籍で埋め尽くされている。
淡い明かりが灯された薄暗い室内で竜王は机につき、フレリックとヴァランは彼の目の前に立っていた。
「どういうつもりですか、父上」
フレリックが生真面目に父親に尋ねた。
「何がだ?」
竜王は快活な笑みを浮かべて足を組み、優雅な仕草で聞き返す。とたん、フレリックは顔をしかめた。
「初夜なのに……仕事だと嘘をついたのはなぜですか?」
「単にシェリーが好みじゃなかったとか?」
フレリックの隣に立つヴァランが楽しそうに横から口を挟んだ。
「だとしたら贅沢だよね、父上は。俺、生まれてこのかたあんな美人見たことないよ。でも、まあ……蛇を素手で鷲掴みするほど変人ではあるけどね」
そう続けて可笑しそうに笑う。
「ヴァラン。今はそんな話をしてるんじゃない。僕は父上の真意について尋ねているんだ」
フレリックは苛立ちを込めた目で一つ下の弟を睨む。竜王はそんな息子達を少し眺め、息を吐いた。
「フレリック。今の私達にとって人間の娘との結婚は重要だ。わかるな」
「はい」
「強いていえば、これは契約だ」
「契約?」
どこか苛立ちを込めた声が竜王に突き刺さる。しかし、竜王は平然としている。
「彼女の国は我が国と平和協定を結びたい。そして我が国は貴族の娘がほしい。そんな互いの利益の為の契約」
竜王は淡々とした口調で話を続ける。
「例え相手が国一の美女だろうが、国一の悪女だろうが関係ない。これは我が国、そして私達の為の婚姻なんだからな」
その言葉にフレリックもヴァランも渋い顔になる。
「その上で私達の目的は既に達成されている。もちろん、公の場で彼女を蔑ろにする気はさらさらないが、これ以上の関わりを持つ意味もないだろう。そうだな……もし彼女が人肌恋しいと言うのなら後腐れのない愛人を紹介しようか」
「なんですかそれ……酷い話ですね」
「酷い?どこがだ?これは私が彼女に対する精一杯の誠意だ」
「そんなの誠意とは言いませんよ」
フレリックが呆れたように言った。
その隣でヴァランが首を傾げ考える仕草をしながら二人の会話に割って入った。
「ヴィーノのことはどうするの?あいつ、新しい王妃を望んでいないようだけど……」
ヴィーノの言葉を聞いて、竜王の顔が僅かに険しくなる。
「あの子はまだ子供だ。今は反発しててもいつか理解する日がくるさ」
「でもさ……俺もヴィーノの気持ちわかるよ。だって……」
「ヴァラン」
先ほどよりも1オクターブ低い声で息子を呼ぶ竜王の表情ははっきりとした怒りがあった。
ヴァランは父親の変化を機敏に感じとって一瞬黙りこくると、目を反らし言う。
「わかってるよ。父上の命令に背くようなことはしない」
「ならいい」
短く簡潔な竜王の言葉にヴァランはムッとした表情になる。
そんな息子の視線を受けて、竜王は大きく息をついた。
「何も私は彼女を蔑ろにするつもりはないよ。王妃として接し、十分な待遇をさせるつもりだ。ただ、妻として接するかは別問題というだけだ」
その言葉にフレリックが肯定するように頷いた。
「わかってます、父上。貴方の言っていることは正しい。それに僕達には選択肢はないんだ」
長男の言葉を聞く竜王の表情には色がなく、何の感情も持ち合わせていないように見える。
「シェリー様との問題は夫婦間のこと。だから僕達は何も言う権利はないんです。父上の好きになさってください」
「ああ、そうさせてもらうよ」
「では僕たちはこれで失礼します」
そう一言言って背を向けるフレリックとヴァランに竜王は何か言いたげに口を開いて……結局何も言わず口を閉じた。
そんな父親に二人は気づかず、振り返ることもなく静かに部屋から出ていくのであった。