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薄暗い部屋の中、外から猛吹雪の音が聞こえる。
シェリーはその音を聞きながら、竜王の仕事が終わるのをじっと待つ。しかし何もしないのは退屈で、無意識のうちに小さな声で歌を口ずさんでいた。
囁くような、吐息のような美しい歌声。母のように歌いたくて何度も練習した歌だった。
静かな空間に響く自分の声が心地よくて、一心不乱に歌っていると仕事を終えた竜王が口を開いた。
「それは……なんの曲だ?」
竜王の問いにシェリーは歌うことをピタリと止めて答える。
「讃美歌ですわ。祝福の讃美歌。わたくしが一番好きな曲ですわ」
竜王はその答えに目を瞑り、形の良い口に笑みを作ると一言。
「美しいな」
シェリーはその言葉に目を見張った。曲が美しいのか、それとも歌詞が美しいのか、それとも歌声が美しいのか。なんにせよ、シェリーがすることで竜王がわかりやすく褒めたのはこれが初めてだった。
最初は驚いていたシェリーだが、すぐに顔をほころばせる。竜王に褒められるのは悪い気がしないどころかかなり嬉しいと感じていた。
「まだ、歌いましょうか?」
その問いかけに一瞬迷いながらも竜王は頷く。
「ああ、そうだな。頼む」
シェリーはその答えに嬉しそうに笑うとバラ色の唇から聖女のごとき美しい声を響かせた。
かつて、シェリーの母はシェリーが自分と同じように歌うことをことさら喜んだ。理由は分からないが、シェリーは大好きな母が喜んでくれたのがとても嬉しかったのだ。
もっと喜んでほしくてシェリーは毎日のように歌った。
そしてそのうち歌うことが大好きになった。
歌っていると思考が鈍っていき嫌なこともすぐに忘れる。余計な考えがまるで口から空気中に溶けていくようで、シェリーの脳内は空っぽになっていく。目を瞑れば周りの景色は消えてなくなり、まるで自分の声だけに包まれていくような感覚になり、それがひどく心地よかった。
かつて、庭でその美声を響かせていた母も同じ気持ちだったのだろうか?
歌と自信が一体化するような夢心地で歌い続けるシェリーを竜王はただ、静かに穏やかに見つめていた。それはまるで陶酔しているようにも感じられる。
どれだけの時間がたったのだろう。歌い終わり目を開けると竜王は純粋な目をシェリーに向けていた。
「君の歌は素晴らしいな」
シェリーはその湖の目をぱちぱちと三回瞬きさせる。
「先ほどからそうですけど……陛下がわたくしを褒めるなんて珍しいですわね」
竜王は苦笑する。
「私だって、素直な心根くらいあるよ。素晴らしいものには素晴らしいと素直に称賛するさ」
「まあ、嬉しい」
それは心からの言葉だった。
今まで感じられなかった竜王の感情の一端に触れられたような気がしてシェリーは感動で頬を薄っすら染め上げる。今まで感じたことのない感情になんだかこみ上げるものをものを感じた。
竜王は自身の座っていた椅子から立ち上がると大股でシェリーに近づき、彼女の座る長ソファーに腰かけた。隣り合わせに座る距離感がいつもより近いと感じるのはシェリーの思い違いだろうか。
「君のあの歌は……誰かから教わったのか?」
その問いにシェリーは笑みを深くする。
「お母様が昔歌っていたのですわ」
「そうか……」
いつもよりも穏やかな声なのはよほどシェリーの歌が気に入ったからなのか。
しばらく二人の間に沈黙が訪れる。
しかしシェリーはなぜか気持ちが高揚していて、せっかくの二人の時間を沈黙に費やすのはもったいないように感じた。なので、以前から疑問に思っていたことを今口にしてみることにした。
「竜人はどうして竜人なんでしょう?」
「なんだ?急に」
「だって、見た目は本当に人間と変わらないじゃありませんか。竜のような鱗もありませんし、長い二本の髭もありません。鋭い牙だってありませんわ。違いと言えば寿命くらいでしょうか?なのに何故、貴方達は竜人と呼ばれているのですか?」
シェリーの問いに竜王は目を見開き、苦笑した。
「何だ……知らなかったのか?」
「はい?」
「私達は竜へと姿を変えることができるんだ。だから、竜人と呼ばれている」
「まあ……!」
両手を染めた頬に添え、竜国に嫁いでから一番の驚きで竜王を見つめる。
「それは……凄いですわね」
その言葉に竜王は意外そうに眉を上げた。
「君は怖いとか気持ち悪いとかは思わないのか?」
その問いにシェリーはきょとんとした。
「何故ですの?怖い?気持ち悪い?どうして私がそんな感情を抱かねばならないのですか?」
不可解な事を言われて本当に分からないといったように一度に聞いてくるシェリーに流石の竜王も驚き閉口する。
「わたくしが竜人などに恐怖することなどありませんわ」
微笑みを一切崩すことなく言いきった。
竜王は微笑みを絶やさないシェリーを観察するように静かに見つめ、口を開く。
「どうしてだ」
淡々としながらもどこか途方もなく困っているようにも聞こえる声色だった。
「どうして君は恐れない?平気な顔でいられるんだ?どうしていつも幸せそうな顔で笑ってるんだ?」
今度は竜王が一度にたくさんの質問をする。赤い瞳がシェリーを射ぬいた。
シェリーはその視線を受けて首を傾げる。その質問の意味を見出だすことが出来なかったからだ。
「どうしてわたくしが幸せそうだと不思議なんですか?」
まるで、竜王はシェリーが不幸に浸りきった顔で日々を生きていないとおかしいと言っているようだ。
竜王は理解できていないような顔できょとんとするシェリーにぐっと眉間の皺を深くする。
「私は君が幸せでいることが理解できていないからだ」
迷いながらもはっきりとした口調にシェリーは困惑しながらも酷く無礼なことを言われているのだと解釈した。
竜王はシェリーを可哀想な人間だと思っているのだろうか?それはあまりにもシェリーを侮辱している。
シェリーははっきりと怒った表情をして見せた。
「前にも言いましたが、わたくしは毎日を幸せに生きてますのよ?わたくしは自分自身の人生を最大限幸せに生きるために与えられた中で楽しみを見つけ、笑い、努力してますの。貴方に憐れみを受ける生き方はしてませんのよ」
「国にも親にも捨てられたのにか?」
少し語気を強めて、竜王は言った。
シェリーは微笑む。
「ええ、そうですわ。国にも親にも捨てられたとしても……です」
憂いを一切見せない彼女の表情に竜王は唖然とし、すぐに目をすがめた。
「なぜ、君はそれほどまでに強いんだ?竜国に捨てられ、城の中には味方が一人しかいないんだ。後はもう君の敵だ。なのにどうして恐れない?君に無関心で嫌われるようなことをしてきた私達を……私を嫌悪しない?竜人を恐れない?私は君を害する存在だというのに」
竜王の言っている意味が分からない。シェリーは不思議な気持ちで彼の言葉を聞いていた。
まるで脅すような物言いである。そうする必要がどこにあるというのだろうか。それにシェリーにとっては例え害する存在の竜人であろうと彼らを恐れるほど弱くはないし、すでに一番恐ろしい存在を知っていたのだ。
シェリーは小馬鹿にしたように鼻で笑うとまっすぐ竜王を見つめた。
「貴方もおかしなことをおっしゃるのね。まるでこの世界で自分達が一番恐ろしい存在だとでも言いたげですわ」
「……」
何も言わない竜王にさらに言葉を投げ掛ける。
「わたくしはこの世界で一番恐ろしいものは竜人ではないと思っています。もちろん、蛇でもゴキブリのような害虫でも幽霊でもありませんわ」
美しい笑みを一切崩すことなくシェリーは言った。
「この世界で真に恐ろしいのは──生きた人間でしてよ」




