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混沌とした日常

 シェリーは母の歌声を聴くのが好きだった。


 ほんの少し、部屋の窓を開けて覗き込むと、庭一面に咲いた色とりどりの花が母を取り囲んで『もっと聴かせて』とせがんでいるよう。


 潤い、清く、鮮やかに。今日の歌は祝福の讃美歌。


 月明かりの下に咲く艶やかな金の髪が流れている。軽く握った両手を祈るように胸に当て、玲瓏な声を響かせるように顎を上げると屋敷の外の澄んだ川にも届く。


 誰にも聴かれていない……。母はそう思っているのか思うように歌っている。


 風に靡く髪が月光に反射してキラキラと輝き、夜の闇に浮かび上がる白い肌はまるで麗しの女神のようだ。


 娘のシェリーから見ても美しい母。国一番の美女。


 歌はそんな母にとっての、心の解放なのだと、シェリーはちゃんと理解していた。


 息苦しい貴族社会。その中でも異質であり異様でもあり誰よりも輝いていた母。


 シェリーにとって、母は誰よりも優しく、美しく、気高い……自慢の母だった。


 全ての女性の理想を凝縮したような貴人。皆が母を憧れ妬み欲する。その全てが万金に値する母の姿は何よりも誇らしく、シェリーはいつも母の後ろを歩いてた。


 いつもシェリーは母を見ていた。


 だから……シェリーは見ていた。あの時も。


 突然世界は壊れる。


 美しい花畑も歌声も母も全て壊れていく。ガラスが割れたように粉々に砕け壊れていく。


 悲鳴と怒号が飛び交い、床に真っ赤な血が広がっていく。


 その毒は瞬時に母の体を蝕み、蹂躙していく。


 シェリーは何が起きているのか理解できないまま、母の元へ駆け出そうとして──不意に体を抱き締められた。


 シェリーのように小さく白い子供の手。



「見ちゃだめです……見ちゃだめ……!!」



 その人は震える体と震える声でそう言ってシェリーを押し留めた。


 でも……それでも。


 シェリーは見ていた。最後まで見ていた。


 操り人形の糸が切れたように崩れ落ちる母の姿を。







 ◆◆◆◆




 小鳥の囀ずりが耳を打った。


 シェリーが目を覚ますとすでに日の光が出ているのか部屋が明るい。


 大きなベッドに身を起こし、寝ぼけた表情のままぼんやりと豪華な部屋を見渡した。


 エマは朝が遅い。本来であれば侍女であるエマは主人よりも早く起き、主人の朝支度を手伝うのが一般的だ。しかしエマは主人のシェリーよりもグースカ眠る不良侍女なのでシェリーはもっぱら朝は一人で支度をしていた。


 ベッドから出たシェリーは眩い金色の髪を櫛ですき、ドレスを着る。襟や袖に白いレースを縫い付けた黄色のドレスである。


 可愛らしくオレンジの大ぶりの花ががあちこちに散らばったドレスのスカートを整えながら、シェリーは近くの壁にかかった姿鏡を見る。すると驚くほど整った顔立ちの自分が目に入る。



「このドレス……少し派手かしら?」



 そう一人呟くシェリーは体を左右に向けて、鏡に映る自分の姿を確認した。



「でも……似合っていますし問題ありませんわね」



 シェリーは口角を上げて一人納得する。


 所詮、紺や黒のドレスを着ていたって派手に見えるシェリーである。どんなドレスを纏ったって視線を集めるのなら、気にせず着たいドレスを着るのが一番だ。人間、似合う格好をするのがベストである。


 そんなことをシェリーが考えていると、コンコンと部屋の扉がノックされた。



「入ってもよろしくてよ」



 そう返事をすると、静かに扉が開き、部屋の中を覗き込むようにヴァランが姿を見せた。


 ヴァランはシェリーの姿を見つけると、花が咲いたようにその表情を明るくさせた。



「おはよう、シェリー」


「おはようございます、ヴァラン」



 ヴァランの年は十三歳だという。


 艶やかな黒髪がくるくると遊び跳ね、無垢でありながらも垂れ下がった目が子供ながらどこか色気を感じさせる不思議な少年だ。


 彼は人懐っこい性格なのだろう。何故だかシェリーに興味を持ったらしくよく自分からシェリーに近づいてくる。


 シェリーは眩しい笑顔をヴァランに向けるとおはようの挨拶としてその柔らかな頬に軽くキスを落とした。


 へへっとヴァランは照れくさそうに頬を指で掻く。


 彼は父王の竜王の意思に沿わず、シェリーに積極的に近づいてくる唯一の王子だ。一度、自分に近づいて叱られたりしないのかと聞いてみたが、ヴァランはバレなければ大丈夫と大胆な返事を返してきた。意外と肝が座っている。


 しかも、そんな言葉とは裏腹に彼は隠す気がないようで様々な場所でシェリーと関わりを持とうとしてくる。



「朝食一緒に食べよう」


「よろしくてよ」



 シェリーはにっこりと微笑みヴァランの手を掴むと一緒に部屋を出た。そしてしばらく石造りの廊下を歩き、食堂の中へ入っていく。


 大きな窓から差し込まれる朝日が眩しい。


 食堂には真ん中に白いテーブルクロスが掛かった横に長いテーブルが置いてあり、対になった椅子がその回りを等間隔に囲っている。


 その椅子の一つにはすでに一人の少年が座っていた。



「あら……おはようございます、フレリック」


「おはようございます、シェリー様」



 フレリックはシェリーと年も近く、年は十五歳だという。


 多分、父親と一番似た容姿をしているのだろう。プラチナではないが、黒い滑らかな髪と少しつり上がった深紅の瞳が美しいこの家の長男が生真面目にシェリーを見つめ挨拶をした。


 彼はヴァランと違い、ちゃんと父親との約束を守っているようでシェリーとの間にしっかりと壁を作っている。


 聞かれたことに関してはなるべく答えるようにしているようだが、それ以上の情報を渡してはくれない。


 見た目と同様、性格も真面目でしっかりとしているようだ。


 シェリーとヴァランもフレリックにならい、席についた時、乱暴に扉が開き、また一人食堂に入ってくる。


 末王子のヴィーノである。


 ヴィーノは今年で十二歳になるというが、不貞腐れたその表情は実年齢よりも幼く見せる。


 彼はシェリーの姿を自分の視界に写すと、嫌そうに顔をしかめる。そんなヴィーノの様子に嫌われたものだとシェリーは苦笑するしかない。


 ヴィーノは不機嫌顔のままシェリーから一番遠い席に座ると絶対視界に入れるものかというように明後日の方向を向く。分かりやすい少年である。


 シェリーは三人の王子達を順々に見る。


 この王子達、顔は似ているが性格は全く似ていない。面白いくらい三者三様である。


 誰よりも真面目なフレリック。誰にも人懐っこいヴァラン。誰よりも素直なヴィーノ。


 全く違う性格ながらも彼らの絆は強固であり、人並み以上の仲良し兄弟だ。でも、毎日観察していてシェリーは気づいていた。絆の強い兄弟ではあるが、父親にはどこかよそよそしく、緊張感を持って接していると。


 そんなことをシェリーが考えていると王子達が何かに反応したように突然立ち上がった。最初は驚いていたシェリーであるが、1ヶ月が経ち、彼らが何に反応しているか今では理解している為、子供達と同じように静かに椅子から立ち上がる。そして、数秒たった後に彼らの父親、そしてシェリーの夫である──竜王が現れたのだった。



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