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ふと視界の隅で瞬いたブラウンの靡いた髪。その光景に目を奪われたヴィーノは、今まで行っていた土いじりをやめた。
けして美人とは言えないが優しい表情をした一人の女がヴィーノを見つめている。その慈愛に満ちた瞳は温かく、心地好い。
「ヴィーノ……」
女の柔らかな声がヴィーノを呼ぶ。
ヴィーノはその声に導かれるように女の元へ駆け寄ろうとした。しかし、勢いをつけたすぎたのか、ヴィーノは足を縺れさせてその場で転倒してしまう。
「ヴィーノ!大丈夫?」
女が慌てて駆け寄る。そして、倒れているヴィーノを助け起こすと、怪我がないか確認するため、その白い手で腕や首、肩に触れる。その感覚がくすぐったくて、ヴィーノは思わず笑ってしまった。
楽しそうに笑うヴィーノがどこも怪我をしていないことを確認すると女はほっと安心したように息をつき、そして優しげな笑みを浮かべると、綺麗な指をそっとヴィーノの頬に這わせる。
「ここに土がついてるよ。さっき転んだせいかな?」
「えっ!いや……これは……」
ヴィーノは耳まで赤くなり、手の甲で頬を拭う。だが、その行為をした後に気づいた。ヴィーノは先ほどまで土いじりをしていたのだ。つまり彼の手は土で汚れている。
「あははっ!ヴィーノ、黒いよ!」
「本当だ……早く洗った方がいい」
どこからか現れた二人の兄たちに無邪気に指摘され、ヴィーノは顔を上げることができなくなり、視線を下に向ける。
ヴィーノの行動に女は不思議そうに瞬きした後、はにかむように笑って、俯く少年の顔を両手で触れた。
驚くヴィーノは思わず手を挙げたが、中途半端な位置でそれは止まる。彼女の行動を止めようにもまだ幼いヴィーノでは力で敵わないからだ。
「母上……手がよごれちゃうよ……」
「かまわないわ。だって大事なヴィーノが汚れたんだもの。母が綺麗にせずに誰がするというの?」
母はそうあっさりと言って、まるで猫を撫でるように優しく頬を擦る。
赤子のように接され、ヴィーノは変なうめき声を溢しながらその手をさ迷わせるしかない。その様子に見守っていた二人の兄王子達はカラカラと笑う。もう、顔から火がでるほど恥ずかしい。
しかし、その空気が優しくて温かくてまるで陽だまりを抱いているような気がした。
胸の内がぽかぽかする。
笑いが絶えない日常。幸せな日々。そんな毎日が当たり前のように続くと信じて疑わなかったたヴィーノ。
だからこそ、その母が死んだことが今でも信じられないし、父が新しく王妃を迎えたことも理解できないのだ。
ヴィーノは唐突に目を覚ました。目が痛み、咄嗟に目を瞑ると涙が溢れる。
無意識のうちに体を起こすと、そこは談話室で、自分は談話室のソファーで眠りについたことを思い出す。
変なところで寝たせいか、体のあちこちが酷く痛む。顔をしかめ、コキコキと凝り固まった首を動かすとふと視線を感じだ。
訝しげに思い、視線の先を確認するとそこにいたのは父の新しい嫁であるシェリーであった。
シェリーに対して良い感情を抱いていないヴィーノは、彼女の姿を視界に入れた瞬間、嫌そうな声をだした。
「うげぇ……目覚めた瞬間にお前とか……何の拷問だよ」
嫌悪に顔を歪ませて、ソファーに座り直すヴィーノにシェリーはにっこりと微笑む。
「良かったですわね。目覚めた瞬間にこんな絶世の美少女が飛び込んできて。なかなかない素晴らしい体験ですことよ?」
満面の笑みで放たれた言葉にヴィーノは更に不快な顔をする。
「お前さ……本当に頭の構造どうかしてるよ。性格悪いのは知ってたけどさ、頭の線まで切れてんの?謙遜とか常識とか慎ましさとか知らないわけ?」
「あら……わたくしがなぜ貴方に謙遜しなければならないのです?第一、わたくしはただ正直に生きているだけですのよ?それのどこがいけないのですか?」
「…………」
「それにわたくし思うのですが、図体小さい癖に子犬のようにキャンキャンと吠えるだけしか能のないお子様に比べたら幾分かマシではなくて?」
完璧な笑みを浮かべた美少女から飛び出した暴言にヴィーノは絶句し、その後、口許をヒクつかせた。
「……おい、それはあれか?お前は自殺願望でもあるのか?お前は今、俺に殺されても文句一つ言えないぞ」
「それは……仕方がありませんわね。美人薄命と言いますし」
シェリーは悲しい顔を作りながら、はぁっとため息を吐いてみせる。
「それにわたくし、図体小さい癖に、子犬のようにキャンキャンと吠えるだけしか能のないお子様が貴方なんて言ってませんわよ。もしかして、その自覚がありまして?」
「はぁ!?」
「でも、大丈夫ですわ。例え五月蝿い無能なお子様でもこの世界では十分に生きていけますから」
美しい顔をことさら明るくさせ、見当違いな励ましをするシェリーにヴィーノは顔を真っ赤にし、プルプルと体を震えさせる。そして、何かを言い返そうと口を開き、結局良い言葉が思い付かず、ガックリと肩を落とした。
はたから見れば、シェリーが勝利した瞬間である。
シェリーは屈辱に身を焦がす小さな少年を見つめ、結婚当初から感じていた疑問をぶつけることにした。
「ねえ、ヴィーノ。陛下はもしかして……他に愛人なる者がいるのですか?」
「…………は?」
「だって、これほどまでの美人が傍にいるのですよ?手を出さないなんておかしいのではなくて?」
「はぁっ!?」
子供特有の甲高い声を上げて、ヴィーノは真っ赤になった。シェリーはそんな少年の様子など気にも止めず言葉を続ける。
「陛下、一向にわたくしと褥を共にしてくれませんの?何故でしょう?わたくしのこの美貌で一体何の不満があるというのでしょうか」
「……不満しかないと思うけど!俺は!!」
「あら、何故です?わたくしは彼の妻ですし、妻であれば夜はベッドを共にするものでしょう?わたくし、正真正銘の生娘ですけどそれくらい知ってましてよ」
「お、お、お前……絶対おかしい!頭がおかしい!変だ!変人だ!!」
生娘という言葉に、今度は羞恥心から全身をプルプルさせシェリーを指差す。その姿にシェリーは目をぱしぱしさせた後、苦笑する。
「人を指差すなんて失礼ですわよ」
「俺は失礼じゃない!普通だ!女としておかしいのはお前だろ!!まともじゃない。もっと女としての慎みを持てよ!!」
頭を抱えてぎゃあぎゃあと甲高く喚き声を上げるヴィーノにシェリーは不思議そうにこてんと首を傾げた。
「まともでなくても、わたくしは国宝級の美人ですのよ?この美しさで全てを補っているのだから問題はないのではなくて?」
自分がいかに美しいかを身を持って知っているシェリーは艶然と微笑んだ。幼いころからその美貌と家柄しか取り柄がないと言われ続けてきた少女である。だったらそれらがシェリーにとっての最大の武器であり、それらを最大限に使うことになんらためらいもない。
「それで……陛下には愛人がいますの?でしたらわたくしはその方にも威厳を持って接しなくてならないですし……」
「五月蝿い!父上に愛人なんているわけがない!第一、竜人は女がなかなか生まれないんだからな!」
「そうでしたわね」
その言葉を聞いて、シェリーは思い出したかのように手のひらを拳でポンと叩いた。
「そ、それに……愛人なんていたら……お前みたいな人格破綻者を王妃に迎えたりしねーよ!」
それからもヴィーノは思い付いた言葉を全て吐き出すかのように喚き散らし、それが終わると勢いよく立ち上がる。ぜいぜいと大きく肩で息をしながら紅潮した顔は涙目で何だか可哀想にも見えてくる。
ヴィーノはシェリーに一つ睨むような視線を送ると背を向け逃げるように走り去った。
その後ろ姿を見てシェリーは考えた。陛下には愛人はいない。ならば陛下は……
「もしかして……実は男色家?」




