09-ROSES
何か大きな音が鳴ったことに少し驚いた。その音源を探るように瞬きを二つしてから、右手の痺れに気付いてリッキーは手元を見る。次いで地面に倒れる少女に目を向ける。そういえば自分が撃ったのだった。
人を撃ったことが初めてのわけは無く、何故驚いたのか自分でもよく分からずにいる。ともかく、仕事は終えた。謝罪とともに賄賂まがいに高額の金を配り歩いて情報を封じ、直接的な目撃者を始末するというふざけた仕事だ。勿論その原因はリッキーにあるのだが、如何せん彼には責任感というものがない。何もしなくてもこの国なら勝手に事実隠蔽をしてくれたのではないかと思っているため、余分なことをさせられた気ばかりがしているのである。
ただ、滞在先としてはなかなかよかった。故郷と違ってどこも清潔だし、何より『PRIMARY COLOR』が全種揃った店が近場にあることは高評価しない他ない。この後いくらか買い込んでから空港へ向かうつもりでいて、本日の一番の楽しみは実を言うとそれだった。銃の安全装置をかけ直し、懐に仕舞う。踵を返したところで、思い出したことがあってもう一度少女の方に向き直った。
倒れた彼女の膝の辺りに、包みを剥がされたピンクの板ガムがいくつか落ちている。リッキーが来たとき、彼女はどうやらこのガムの包みを順番に開いていたらしいのだ。何故そんなことをしているのか分からなかった。一枚だけ紙を纏ったままのガムを拾いながら問う。
「これ、どうするの? …………、?」
沈黙に疑問を抱いて顔を上げる。そういえば自分で殺したのだった。というよりも、(……そういえば、死んだら喋んないんだっけ)
それはリッキーにとって非常に驚くべき事柄だった。今まで知らなかったという訳ではないのだが、このときは本当に、目から鱗が落ちるような気分だった。つい先程までこちらを見、声を発していた者が、トリガー一つで問いにも答えなくなる。それに驚嘆するのは、これまで彼が見てきた死は何かに隔たれた先にあったからなのだろうか。
やがて胃の辺りに不快感が生まれる。倒れた死体の、血に濡れた顔を覗き込んで、頭にそっと触れてみて、もう一度声をかけたがやはり返答はなかった。胸で深呼吸ともため息ともつかない息をし、その場を離れる。意外と混乱していた。緩やかだが冷たい風が吹いて、そのせいで晩秋であるにも関わらずわずかに汗をかいていることに気が付く。薄ら寒い。乱雑に倒れる木々の鬱蒼とした影がどことなく、不快だ。
学校の敷地から出た所で手に一枚のガムを握ったままであることに気付き、捨てたくなったがどこにも捨てられなかった。
坂道を下っているうちに乱れた気分は落ち着いてほぼ平常と変わらなくなった。そこではじめてガムの存在を思い出して、ポケットを探ったが愛用のものは切らしていた。ピンクのガムは反対側のポケットだが、気持ちが悪いので触れたくない。
バスを乗り継いで例の店に向かった。古めかしい築造物に埋もれそうになっている看板の文字には品物の簡潔な説明しか書かれていないけれども、一応店名もあるのだと聞いた。
『Taffee』というその名の由来はキャンディの名称だが、綴りとしてはtaffyもしくはtoffeeが正しい。とはいえ店番は母語が日本語ではないためそんなことは勿論知っているし、彼が言うには店主も承知していて敢えてそれで通しているのだというのだから、何かこだわりでもあるのだろう。そういえば、この話はまだしていなかった。思い出して、舌打ちをする。
店に入ると店番の少年がちらとこちらを向くがすぐに興味が失せたように視線を下ろす。彼は話し掛ければ愛想はいいのだが、自分から声を掛けてきたりはしないのでそういった様子から無愛想な印象を受ける。しかし、リッキーはそれを気にしなかった。彼の態度はリッキーにとって理解のできるものだったからである。
いつもは左の棚に向かうのを、真っ直ぐレジへ進んだ。勘定台を二度指先で叩いて、英語で注文する。
「原色、棚にあるのを全部」
「お金はあるんだろうね? 無きゃ売れないよ」
言いつつも、店番の少年は面白そうに笑みながら立ち上がって、手元から袋をひとつ破り、欧米菓子の棚へ向かった。それを見送りながら「あるよ」と返答する。
「今日?」
「違う、明日。でももう来ないから」
「へえ。仕事終わった?」
「終わったよ」
「そう。………あ、」
少年が何かを思い出したような声を上げた。ビニールに物を落とす音が急に止まり、袋の中を多少漁るような音に変わる。どうしたのかと問うと、全部は売れない、と返ってきた。「ピンクのだけ三箱キープしとかないと。このガムは棚にあるので全部なんだ」
在庫がないらしいことを把握出来たのだから、何故もっと入荷しないのかという話の広げ方もあった。けれどもリッキーは突然妙に景色が乾いてよそよそしくなったことに戸惑っていて、加えて覚えのある不快感に襲われて逃げ出したくなっていた。
やっぱりいらない、と小さく呟いた声を拾ったらしい少年が疑問詞をふたつ並べたが、それは進み出した足を止めるほどの制止力を持たない。店から出ると、日が照っていて発光したような地面が目に映った。先の公園を埋める砂が白い。立ち去ろうとしたところを店番に直接的に止められ、餞別、という言葉とともにミントのガムを一箱だけ渡された。言うべき言葉が浮かばなかったため、黙って受け取る。
帰国した一ヶ月後に、リッキーは上司から褒め言葉を貰っていた。ただしその言葉が本来持っているはずの賞賛の意は抜け落ちており、代わりに何か別のものが含まれている。実際それは悪意のあるものではないのだが、リッキーは気分を悪くした。持て余すように手に遊ばせていた真緑のパッケージを取り上げられたことにより、さらに不機嫌になった。
上司はそんなリッキーを、相手が椅子に座ってるために見下ろしながら「この分の出費が予想以上に多かったんだ。我慢できるようになって偉いな」と言う。悪意はないがこの言葉は親の愛情と言うにはあまりに遠いものから来ており、リッキーはそれを意識したことはないが好意的に受け止めたこともなく、結局そこには何もあらわれないのである。返してください、と敬意など見たこともないような声音で彼なりに丁寧に頼み、犬の玩具か何かと勘違いしている上司から“原色”を取り返す。
「仕事だよ」
「……」
「お前の好きな『殲滅』」
「………」立ち上がる。「集合どこっすか」
大体の場合、作戦の指示はこの上司から貰う。しかもこの組織の活動では他の戦闘員と連携を取るようなことはまず無く、集合とは言っても一対一である。だからここで聞いても変わらないとは思うのだが、詳しい作戦内容はブリーフィングルームで伝えられる決まりとなっているので、聞き出したところで答えは返ってこない。部屋のナンバーを聞き、休憩室の出入口へ向かう。上司は手にコーヒーを持っていたから、まだ来ないだろう。
少し立ち止まり、振り返りかけで面倒になってそのまま声をかける。「教官、」
「なんだ」
「人って死んだら喋んないんすよ、知ってました?」
僅かな沈黙の後に、何当たり前のことを言っているんだ、と返ってきた。そうだ当たり前だと思い、だけど驚くべきことだと頭の中で続けた。
綴りの間違ったあの店に、もうローズを三箱買いに行く人間はいない。