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P-COLOR  作者: 外並由歌
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08-REUNION

 自転車を押しながら坂を上る。足の線を汗がなぞったり、日差しが肌をじりじりと焼いたりはしない。むしろ、ずっと自転車のハンドルを握っていた両手が冷たかった。それほど時間が経っていたのだと気付かされる。一度風が吹いて、ネアの髪と、もう使わない制服のスカートをはためかせた。

 シェスカとココアを飲んだ次の日で、平日の昼である。別れ際に再度勧められたようにネアは学校を休んでいる。

 空は薄い雲に覆われて真っ白だった。見上げると近くにあった夏緑樹の、落葉を済ませた大きな枝が空の白亜にひびを入れている。並んだ常緑樹の蒼さもどこか暗い。それでも灰色の影がつくほど厚い雲はなかったし、雨の日より辺りは明るかった。自転車は軽く、篭の中でペットボトルが揺れることもない。時々少し小走りになりながらひたすら足を動かす。左側に、相変わらず崩れたままの校門が見えた。

 キープアウトのテープが木と木を結んでいたが、これは物理的にも心理的にもネアが進む妨げにはならなかった。自転車を脇に停め、テープの間を半ば強引に潜る。波打つ石畳を歩きながら、一度ポケットに手を突っ込んで落としていないかどうか確認する。左右の並木は記憶と比べると多少様子が変わっていて、人の暴力にあったような不自然さはいくらか消えていた。駐輪場はない。改めてその場所まで行ってみると、右側に吹き飛ばされたトタンや柱があるのを見つけた。

 左手を見る。死体はどこにもなさそうだった。一瞬、自分が景色をきちんと直視出来ているかどうか不安になった。瞬きを二度。俯き、もう一度顔を上げるが、何も変わらなかった。安心するよりも、胸元が緊張する。足を踏み出す。

 グラウンドは、爆撃で露出した土が細かい白い砂に(まぶ)されて白と黒の斑になっていた。雨風に溶かされたのか、血のようなものは見当たらない。遺体がどうなったのか、ネアは知らなかった。それでも確かにここで人が死んだのだ。

(……高跳びで、)クラスメイトの男子が健闘していたのを思い出した。クラスはまだそこまで纏まりをみせていなかったが、そのときは皆で身を乗り出して見守っていた。二年生の男子と記録の伸ばし合いをしていて、クラスメイトが飛び越える度、嬉しさと一緒に、離脱した上級生の心情を気にして多少ズレたプレッシャーを感じていた。ぎりぎりで負けてしまったのはクラスメイトの方だったが、それでも十分だと思えたし、なんだか得意な気分だった。

 そういえば小学校から学校が同じでそこそこ仲のいい友人が、リレーの一番手で他との差を大きく作った同級生が格好よかったと騒いでいた。ネアはその人を見ていなかったので誰だかわからないが、譫言のようにさっきの見た?誰か知らない?と同じことを繰り返すので苦笑したような気がする。

 高校に入ってから出来た友達は可愛いもの好きで、熊の縫いぐるみを鞄に付けていたが、あの日は鞄を地面に直接置かなければならなかったので自分の席に座らせていた。なかなか上手に座ってくれないと言うので、ネアがノートや筆箱で補強してみると非常に感謝された。ふと教室棟を振り返り、まだ残っているだろうかと考える。時間に余裕があったら校舎に入るのもいいかもしれない。

 トラックがあったであろう場所の、大きな窪みまで来て立ち止まる。見上げると、うっすらと雲が霞んでいるところがあって青が覗いている。戦闘機の飛行音の代わりに小鳥が囀っているのが聞こえる。不思議な気分だった。

 ポケットから紙製の箱を取り出して開く。ローズはあと七枚で、ネアは箱を返してそれをすべて地面に落とした。しゃがみ込みながらパッケージを脇に置く。膝をつくと冷たい砂の粒が少しの痛みを皮膚に与えたが、大したものではなかった。白い包み紙を一枚一枚丁寧に取り去る。

 このガムはもう噛まないことに決めた。そうしてきちんと事実に目を向けて、自分が死んでいった友人達のために何をしたいのかがはっきり浮かんだら、それをしようと思っている。そのために、この場所に逃げていた自分を埋めていきたかった。


 最後の一枚に指が触れたとき、カラスが深い深呼吸をした後のような大きくて長い声を一度だけ発したのが聞こえた。強い風が吹いて、そこに置いたままだった包み紙が各々土の上を走り、数歩先で宙に巻き上げられる。追って顔を上げ、上体を前に、利き手を伸ばしたとき、後頭部に何か重たいものが当たった。


「……何してるの?」


 誰かが上から覗き込むような姿勢をとって、ネアの背後に立っている。聞こえた声は知ったものだったが直ぐには見上げることが出来なかった。後ろ髪をさらに掻き分けるようにして当て直される、何か鉄製の固い物。頭は何も理解出来ないままで、心としては、感覚としては、もうすべてを知ってしまった。——選択を誤った、と。

 その胸騒ぎに叱咤されて怯えた右手がゆっくりと自分の身まで引き戻され、そのまま、守るように、シャツの胸元を握り締めた。これは何か、これは誰かと(しき)りに理性は問うている。口に出せないだけで本当は知っている。知っているからこんなに嫌な汗をかいて、脈を鳴らしているはずなのだ。

 声が引き攣って何も言える気はしない。しないけれど、地面についた左手にもう一度力をこめて、身体を持ち上げ、少し、振り返った。瞬間的にミントの香りがしたのは彼が先程まであのガムを噛んでいたからなのか、彼に勧められて噛んだガムの味を反射的に思い出したからなのかはわからない。

 ミントの青年が、銃を携えてこちらを見ていた。


 どうして、という言葉を声にするのに、随分時間を要した。それまでに、いくつものことを頭で理解し直さなくてはならなかったためだ。その銃の意味。彼がここに来た意味。そこから彼の出身や今回R2に来た理由や、仕事の具体的な内容までを想像することは、容易であったし易くなかった。だから、理解しても疑問詞でしか応答できなかった。

 青年は曖昧なネアの問いを無視して、よかったと言った。「最後に寄ってよかった。これで上司に怒られなくて済む」。

 わすれたことおもいだせといわれてもね、と呟いた彼を思い出す。つまり彼は、探していたのだ。あの爆撃を一番知っている生き残りを、その情報を始末するために。それが二つ目の仕事。一つ目は、(“迷惑掛けたひとに、謝ったりとか”…)…おそらくネアの政治の教師が言うところの、情報工作、だ。

 青年の姿を見、このとき初めてネアは戦闘機の操縦席を思い描いた。この青年が乗っていた。この青年が、ネアの友人を、殺した。


「……なん、で…、…」


 うまく結び付かないような気もしていて、未だにそんな言葉ばかり出てくる。何かの間違いだと言われれば信じることも出来そうだった。自分が出会った、発光しそうな緑色のガムを一度に六つも購入する気怠げなこの青年がまさか仇敵だなんて、そんなことがあるのかと。何故彼なのだろう、なんていう順序を考慮しない思いが不可解な痺れとなって身体を駆け巡っている。

 そんなネアの想いは汲まれず、省略された言葉を取り違えて彼は答えた。


「なんでって。…キライなんだよ、学校とか集団行動とか、祭とか。運動会?っていうの? だいっきらい」


 白けた表情と声音に悲鳴を上げそうになった。それは逆に速度のある呼吸として、肺に引き込まれていったけれども、単純な、無関係な価値観でこんなことをしたという言葉を突き付けられたのが恐ろしかった。それを種にして胸の奥に微かな怒りがゆらめいたのを感じ、そのこともまた怯える理由になった。

 けれども恐怖は怒りの宥め方を知らない。「——そんなことで…?」不意に、怨嗟の音を滲ませた声を零している。息が苦しかった。何かに触れられればもう酸素の取り込み方など忘れてしまいそうだ。本当はもう何も聞きたくなくて、自分の中に鬩ぎ合う無数の感情が突っ掛かっているのを全部取り出して欲しいのだが、ネアは身動きすらとれない状況にある。だから次の、十分でしょ、という言葉も避けられなかった。

 シェスカを思い起こす。復讐したい? そう問われても分からなかった。不当な理由で殺されたのだと知った今でも、復讐したいとは思えなかった。相手が彼だからなのか、目の前の銃口に立ち向かう勇気がないからなのか、シェスカに「しなくていい」と言って貰えた後だからなのか、それともまた違う理由なのか、判断が出来なかったが、復讐をする、という自分なりの未来を描くことは難しいように思えた。

 そうすると自分を見下ろす人物があのミントの青年であり、手にある銃が自分を殺すという事柄が酷くクリアに感じられた。やがて恐怖も怒りも静かに眠りにつく。今はただ、こんなこととは関係ないところで会いたかったな、と、伝えるべきかどうか迷っている。

おやすみ、ネア

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