06-AWAKE
目が覚めた。
教室の、肌色がかった白い机に腕と頭を預けて寝ていたらしい。窓の外は暗く、蛍光灯の明かりで教室が浮かび上がっているようだった。ネアはまず辺りを見回す。次いで、ポケットに入れてある腕時計をちょっと引っ張り出して時間を確認した。六時を回っている。
どうしてこんな時間までここで寝ていたのかと不思議に思った時に小走りの足音が聞こえ、声が掛かった。「ネア、起きた?」
シェスカだった。戸惑いながらとりあえず頷く。シェスカはネアの隣の椅子を引き、座りながら缶をひとつ渡してきた。
「はい、ココアでいいよね?」
「あ、うん……。……えーと、」
「お礼とかはいいから。飲んで」
状況が掴めないが、大人しく言われた通りにプルトップを引いてココアを飲む。シェスカも同じものを持っていて、同じ様に飲みはじめた。ホットだがそこまで熱くないのはこの学校の自動販売機の設定のためだ。二口ほど飲んだ辺りで、シェスカが自分の缶を膝のところまで下げて慎重な面持ちになった。落ち着いた?と問われる。
何のことだかわからず、ネアは記憶を辿る。眠る直前のことを覚えていない。ためしに朝から現在まで順を追って思い返してみたが、至って普通の日で、帰りも特別なことはなかったように思える。自分がどうして帰らずに眠っていたのか、見当をつけられなかった。
「……シェスカ」
「うん」
「…わたし、寝てた?」
シェスカがきょとんとした。
「え?」
「いや、えーと…。……なんでもない。うん、平気だよ。ありがとう」
多少悩んだが、何にせよシェスカがネアのことを心配してこんな時間まで起きるのを待っていてくれたらしいことは確かなので礼を言って、流した。これ以上迷惑をかけるわけにもいかない。
シェスカは笑んで「よかった」と呟いた。
帰りに何気なくパールの箱を取り出すと中身がなかった。思わず「あれ、」と声を上げ、横からシェスカに「それ、さっき最後の一枚食べちゃったでしょ」と言われる。もう全部噛んでしまっていたのか思いつつシェスカに苦笑を返し、パールをしまう。ローズを取り出すのはやめておいた。そちらももういくらか噛んでいるので、このままだと一日二枚が守られないことになる。
そこでふと、ミントの青年は確か一日一箱ペースだったなと思い出した。睡眠時間が八時間だとしても、二時間に一枚噛んでいることになる。
ネアが定期的に摂取する薬のように原色を噛んでいるのもあるけれど、ただでさえ値が張るのだし、ミントはあんな強烈な味がするのだから、そのペースは速く感じる。しかも飽きもせずに毎日毎日あれを噛んでいるのだ。自分のことは棚に上げて、ちょっと異常だな、とネアは思った。
「いつもピンクじゃない」唐突にシェスカが言う。
「ガム?」
「そう。今度は白なのね」
「あ、これはね、……なんていうか試しで買ったの」
「ピンクってバラだった?」
「うん」
「それは何、砂糖?」
「ううん、パール」
少し沈黙がある。
「……真珠って食べれたっけ?」
「さあ…。……噛んでみる?」
なんなら買ってくるけど、と付けたそうとしたが即座に「いらない」と返された。
砂糖っていうのもどうなんだろうと考えながら、別の色の味も想像してみる。青がブルーハワイで、緑がミントで、青年によると、黄色はレモンのはずだ。あと何色があっただろう。
広く車道の通った橋に差し掛かる。通り過ぎる車のライトや、向こうに見える夜景を不思議な気持ちで眺めていた。日常から随分と外れていて、ネアはその時はじめて、帰りがこんなに遅くなることや夜道を誰かと歩くことが今までなかったのに気付いた。けれどそれ以上に、なにか特定の種類の夢を見ている気分だった。
橋の終わりまで無言で歩いて、渡りきったと同時にシェスカが足を止めたのでネアも立ち止まる。どうかしたのかと彼女の方を窺うが、彼女はこちらを見ない。
「ねえ、ネア」
「……何?」
どこか重々しいような切り出しに、訳もわからないまま身構える。今日は何かが変な気がする。何か一つが、というより、所々が微妙にずれているような感覚がした。
ちょっと休まない? 先の言葉にはそんなふうに続いた。歩き疲れたのだと思って「いいよ」と答えながら、切迫したような雰囲気は気のせいだったのか、それとも実はシェスカは風邪を引いていてだるくて、そのせいであんなふうに聞こえたのか、などと考えを巡らせた。彼女は返ってきた了承に振り返り、間を置いてから破顔した。といっても、その表情は苦みも載せている。
「そうじゃなくて」
「え?」
「学校、ちょっと休まない?って」
「……どうして?」
「せめて明日だけでも」
明日。何かあっただろうか。
何故か瞬間的に浮かんだのがミントの青年の言葉だった。忘れたことを思い出せと言われても。
「…政治、きついでしょ。最近あの先生、…戦闘機の話ばかりだし」
「………」
「ネア、あれ始まってからぼうっとするようになったでしょ? だから……、」
「………えっ…と…」
『あれ』が何を示すのかが分からない。戦闘機の話のことだろうか。けれどそれすら、何のことだか見当がつかず混乱していた。そんな話を政治の教師はしただろうか。——では、何の話をしていただろうか。
記憶が曖昧なのはここのところいつものことだ。それなのに妙にどくどくと胸が脈打つのは何故だろう。シェスカは前を向きながらまだ何かを話しているが、頭が詰まっているような感覚がしてその殆どをネアは聞き零していた。幾つか拾えた単語もなんの意味も成さない。(政治……、三限、政治…)(外国人……戦闘機…)なんの意味も成さない。(政治……戦闘機……)なんの意味も、
(く、う、しゅう……?)
国語や歴史の教科書でしか触れなかった言葉ではあったが、場違いだとか嘘っぽさよりも現実味の強さを感じた。爆音と熱風が鮮やかに思い出される。空に消え去った灰色の戦闘機。近隣にあれを見た人はネアの他にもいたはずなのに、新聞にも取り上げられなかったのは何故だろう。外国の傭兵か何かに違いない。攻撃を受けたにもかかわらずその事実を隠蔽するのはR2の政府が他国の顔色ばかり窺うからだ。そんな話をしていた、(三限の、)政治の時間に。
聞きたくもない話を。忘れていたい話を。
そんなことを言ったら自分の受けた傷はどう癒されるのだろう。「金で情報を動かした」というのはつまり、この傷も、死んでいった人の命も、みんな金でないことにされたというのか。
落ちていた腕は確かにあった。他にも無数の死体が転がっていた。
(だれ…?)
思考がねじ曲がる。走り抜けた二歩目に左に倒れていたあの人は、校舎の足元に壊れた人形のような格好で死んでいた彼は誰だったのか。そんなことは知らない、でも、そんなことは知っているはずだ。彼らは紛れも無く、ネアのよく知る友人達であるはずだ。けれどそれを、今の今までネアは忘れていた。というより、受け止めてすらいなかった。爆発で崩された学校の敷地に足を踏み入れたあのときから。
思えば、出来事に対しこれまでのネアの心中は穏やかと言ってよかった。あんなにも見知った顔を殺されて、しかもそれが自国も絡んで隠蔽されている可能性があって、それなのに穏やかでいられるなんて。
(友達が……死んだのに……)
小遣いを湯水のように使って体に悪そうな色の美味しくもないガムを噛んで紛らわせていた感情は、眼前に起きた惨禍に対するショックと居場所を失った為に起こる望郷。
全てがただ自分のためだった。
「……わたし…」
気が付くと座り込んでいて、合わせて屈んだシェスカがこちらの背に手を添えていた。ネア、と震える声が呼ぶ。それを聞いてはじめて、その前に掛けられたこちらを案ずる言葉を思い出して聞くことが出来た。
それでも「大丈夫」と応えるには、余裕が足りない。
誰よりもただ自分の為に。自分ばかり可愛がっていた、この四ヶ月間。——なんて狡いんだろう。
「わたし……ひどい…」
「ネア…?」
「私…自分のことばっかり……自分のことばっかりで……!」
言葉を詰まらせたシェスカがネアを抱きしめて、強く背を摩った。遅れて、ネアは悪くないよと繰り返す。幾分か気持ちが楽になるのを感じつつも、ネアは彼女の言葉を信じることはできなかった。
怒りはどこに置いてきたのだろう。こんなに緩やかに日々を過ごしている場合ではなかったのじゃないか。そう思っても、次に何をしたらいいかはわからなかった。