みきり地蔵
生まれ育ったのが旧い門前町でしたので、辻ごとにお地蔵様が祀られているのは当たり前のことでした。せせこましい住宅や古い商店の立ち並ぶ角に、お地蔵様は、これまたせせこましく小さな祠に収められているのでした。
きちんと人型に造られているものは稀で、おおかたが歪な楕円の下の三分の一ほどが割り取られたような、一抱えの石。石くれに色とりどりのよだれかけが掛けられているのです。御顔はそれらしく刻まれていることもあれば、適当に丸みのついた膨らんだ部分に白粉を塗りつけ墨で目鼻を描き込んであることもありました。町中にあるお地蔵様は、どんなに古びていても苔むすことがありません。よだれかけは、いつ見ても真新しくきれいでさっぱりとしているのでした。
これも土地に限った話でしょうか。毎年、お盆を過ぎて一週間ほど後の休日、児童公園の一画に、四隅に鉄柱を立てて屋根だけを覆った簡素なテントが張られるのです。一抱えの石くれのお地蔵様を町角からお借りして洗って整えてお供えをあげて、そこで一昼夜、祀るのです。
地蔵盆と呼んでおりました。
お地蔵様は子供を守ってくださるから、ということで、地蔵盆は子供のためのお祭の様相でした。たんびに周辺の、普段は顔も合わせないような町内の端から端までの子供らが招かれて、たくさんのお菓子を振る舞われ、景品付きの輪投げだの、普段には廃れきったような旧い遊び事に興じるのでした。お菓子が貰えるのが何より嬉しくて、幼い頃には、ずいぶん楽しみにしていたものでした。
お地蔵様も仏様ですので、お寺からお坊さんを呼んできて、急ごしらえの祭壇に祀られた小さな粗末な石くれのお地蔵様に、色々のご供養をしたり、私どもへのお説教もあったかとぼんやりと記憶しております。
夜には明かりが灯りました。昼のうちに私どもが色々と落描きした半紙を灯籠の四面に貼り付けて、簡素なテントの四辺にずらり並べて吊るすのです。どれが自分の灯籠か、眺めて探してまわるのです。地蔵盆の夜は、そのテントの周辺でしたら遅くまで遊んでいても叱られることはありませんでした。
もう一つ、これは父のことですが、迷信深いたちだったのでしょう。歩いていて道の傍にお地蔵様を見つけるたびに立ち止まるのです。向き直って近寄って、しばらくその前で手を合わせて拝むのです。
父について歩いていた幼い私も、いつか真似して拝むようになりました。しまいには習い性となってしまって、父がそばに居なくても、一人でいても、お地蔵様と見かけると拝んで挨拶をするようになりました。なにしろ地蔵盆でお菓子を振る舞ってくれる仏様ですから。子供を守ってくださるという仏様ですから、なんとはなしに親しみを感じていたのだと思います。
ただ、母だけは、父や私が道端のお地蔵様に手を合わせようとすると、少し厭な顔をするのでした。
いつでしたか一度、父が吸い寄せられるようにお地蔵様に近寄った時に、小さな、おそらく父には聞こえなかっただろうくらいに小さな声で、「あんなこと、やたらとせん方がええのに」と呟いたのでした。父の後を追おうとしていた私は驚いて、意味もわからず、ただその声に打たれた心地で振り返ったのでした。への字に結ばれた不機嫌な、母の口もとを見上げたのでした。
なぜあの時に問わなかったのかと悔やまれます。なぜ咎めるのかと、なぜ拝んではいけないのかと、問うべきでした。ほんとうに―――。
そのお地蔵様と出くわしたのは、もう地蔵盆にもよばれない歳になってから。もう父や母の後をついて歩くこともない歳になってからのことです。仕事もいくつか転々とした後のことでした。転々とした果ての仕事の帰り途のことでした。
繁華街の端でした。
繁華街の東の端が川にぶつかり、川の土手にぶつかり、ぷつり、断ち切られたようにその先は静かになってしまう。川の向こうに私の家へと向かう鉄道の駅があったのですが、川の手前、橋の手前にそれはあったのです。
賑やかな表通りから少し南に逸れて小路に入り、川の土手に下りてゆく途中、土手側の傍に祠は建っていました。道端の祠としては比較的大きな、立派な作りでした。
そこは、過去に何度も通り過ぎたことのある場所でした。
なぜそれまで気づかなかったのか。
なぜその時になって気がついたのか。
ともあれ、「こんなところに」と思った時には、いつもの習い性で考える前に動いていたのです。お地蔵様を拝もうと、ご挨拶をしようと祠の方に歩み寄ったのです。祠の真正面に立ち、両の手を合わせようとして。
両の手は、合わせる前に凍てつきました。祠の前で私は凍りついておりました。一秒、ほども長くはなかったかもしれません。凍てた心地から我に返るや、拝むどころではなく冷や汗を散らして私は逃げ出しておりました。
お地蔵様は―――、祠が比較的大きく立派だったのと同じように、他の道端のお地蔵様より大きく立派なものでした。
楕円をこわした石くれではなく、一抱え程度ではなく、石ではありましたけれども、背丈は幼児ほどはあろうかという大きさの、こけしくらいには人に似せた形のものでした。その顔が―――。
その顔が……、頭部が、左右の目を両断するように真横一文字に深く抉られ、傷つけられ、無残に砕かれた断面を見せて、また一面にべったりと赤く染められていたのです。
母が道端のお地蔵様を嫌った理由。
後になって知りました。子供を見守るばかりがお地蔵様の役割ではないのです。
道端に祀られたお地蔵様の何体かに一つはそこで不幸が起きたしるしというのです。うかつに拝めば縁がつく。不幸な誰かと縁がつく。不運の因と縁が付く。そのモノが憑く。
「せやから、やたらに近う寄ったらあかんのや」
どのお地蔵様がどんな理由で祀られたか、古びてしまった後となっては通りすがりには知りようもないのです。
川の傍のあれの由来はわかりません。どうしてそこに建てられたのか、わかりません。傷つけられていた理由はわかりません。赤く顔が染められていた理由もわかりません。
調べようとも思えません。
道端のお地蔵様を拝むのは、ぱったり、やめました。もう拝みません。挨拶はしません。近寄りません。あの川の傍の祠があるあたりはことに、できるかぎり避けて通るようになりました。あれが見間違いではなかったのか、本当にあったとして一時のことでその後直されたかどうかも、確かめる勇気も無いのです。
―――時折、瞼を閉じると真っ赤な顔が浮かびます。昼であっても夜であっても見えるのです。両目のあたりを真横一文字に斬り裂かれて、なのに口もとには笑みをたたえているのです。深く抉られた傷からあふれる赤を、したたる赤を唇に受けて笑っています。赦しのためではありません。いたわりや優しさもありません。何かをいたぶって弄んで愉しんでいる、悦んでいる、無慈悲でよこしまな笑みなのです。
はっ、と、瞼を開いて今居る場所を、景色を、身の周りのものを確かめようとしても、そんな幻が訪れた後は、しばらくの間、視界は真っ赤に塗りつぶされて他の何も、何も見えなくなっているのです。