八話 嘘と真実は紙一重
時刻は二十時。
二メートルほど離れた暗闇に、端正な顔だけが浮かび上がっている。圏外であるはずの携帯で、彼は何を見ているのだろう。家族の写真か、届かぬメールか。
彼だって高校生だ。私ばかり一方的に頼ってきてしまったが、本当は彼も――。
――だけど、そう思うのもこれで最後だ。
「ザビエルさん……」
彼は、私の呼びかけには答えない。
当然だ。それだけのことをしてしまったのだから。
「ザビエルさん」
もう一度呼べば、鬱陶しそうな、面倒そうな、深い溜め息が返ってくる。
関係の修復は不可能だろうが、このままでは独りで状況を打開しなければならなくなってしまうだろう。事が進展しないのなら、その先に待っているのは確実な死だ。
おそらく、ザビエルさんは乗客が持つ全ての食料を奪った。彼がそれを分けてくれないのなら、残る選択肢は二つだ。このまま餓死するか、どんな手を使ってでも食料を奪い取るか。けれど、私は女だ。力に自信は無い。かと言って、こっそり盗んだとしてもきっとバレる。
勝手だと思われようが、最低だと罵られようが、私はこんなところで終わりたくない。そうなれば、するべきことはひとつだった。
「ザビ……剥岩さん!」
「……何」
本当の名で呼ぶと、ザビエルさんは――ぶっきらぼうな声だが――ようやく返事をした。だが、その瞳は私を見ていない。
せめて視界に入ろうと、私はザビエルさんの前まで歩を進めた。彼の視線が一瞬私を捉えたが、それも束の間、すぐに下へと落とされる。
私は、その場で膝をついて座った。彼の眉がぴくりと動く。
「……ごめんなさい」
手をつき、深く頭を下げてそう言うと、頭上の刺々しい気配が幾らか和らいだ気がした。――まだ、希望はある。
一拍おいて、溜め息混じりの声が後頭部を打った。
「……なんであんなことしたの」
「それは……」
理由など、ひとつしかない。ザビエルさんが、私の水筒に睡眠薬を仕込んだと思ったから。証拠さえあれば、確信できると思った。だが、それを正直に話してしまったら、私達の溝はより一層深まるだろう。それでも。
顔を上げると、彼の冷えた視線が私の瞳を射抜く。
言い淀んだ私の心を見透かすように、ザビエルさんは釘を刺した。
「嘘、つくなよ」
わざとらしく“嘘”を強調する低い声。
嘘などつく気はなかった。ついたところで意味が無い。理由を確信しているからこそ、彼はあんな罠を仕掛けたのだから。本当に、いやらしいやり方だ。
「睡眠薬……。あなたに、睡眠薬を盛られたと思ったから……」
一瞬の沈黙ののち、彼はふん、と鼻を鳴らした。
「だったら聞けば良かったじゃん。なんでそんなもの入れたのかって」
崩れた口調は、今までのザビエルさん――剥岩さんのものではなかった。きっと、これが彼の本性なのだろう。
「……やっぱり入れたんですね」
「ああ」
これっぽっちの躊躇いも無い肯定に、頭を殴られたような気分だった。
私だって、本当は信じたかった。確かに何度も疑いはしたけれど、気のせいであってほしいと思っていたのだ。それなのに。
「俺とあんたは所詮他人なんだよ。簡単に信じるもんじゃないって、よくわかっただろ」
「…………」
その通りだった。
運転手に襲われた後のことだ。剥岩さんは所詮他人なのに、私は自分の荷物を全て置いたまま、血を落としに行ってしまった。隙を与えてしまったのだ。
自業自得と言われてしまえば否定はできないが、彼のしたことは非人道的な行いだ。私が謝る義理は無い。だが、長い物には巻かれろとはよく言ったものだ。
剥岩さんは探るように私を見ている。彼は単純ではない。きっと、私とは正反対――全てを疑ってかからないと気が済まない性分なのだろう。
「……ふぅん、なるほどね。それが目的か」
「!」
私の心の内などお見通しだとでも言うように、剥岩さんは嘲った。謝罪には気持ちを込めたつもりだったが、どうやら下心を見抜かれていたようだ。
「これが欲しいんだろ」
そう言って彼が懐中電灯で示した先――彼の傍ら――には、食料の入った袋があった。中にはおにぎりやお弁当、菓子パン、惣菜パン、パスタ類、サラダ、菓子類、おつまみ、スポーツドリンク、コーヒー、牛乳、酒類……。
日持ちはしないだろうが、無いよりはマシだ。多少お腹を壊したとしても、空腹に苦しむよりはいい。
剥岩さんはにやりと笑った。
「随分と見上げた根性だな。いいよ、気に入った」
彼はリュックから大きめのビニール袋を取り出すと、各種半分ずつになるように詰め始めた。ざっと、ひとりあたり五日分といったところか。一回の量を減らせば、もう少しもつ。
――良かった。目論見はバレたが、結果的には上手くいったのだ。
ガサガサという音が緊張を煽る。疑え。全て疑え。毒は? 異物は? 無理やりお酒を飲ませられることはないだろうか。
詰め終わると、彼はビニール袋をこちらに寄越しながら言った。
「……ただし、どっちかの食うもんが無くなったとしても盗むのはなしだ。わかったな」
「…………はい」
――嘘だ。自分の分の食料が無くなれば、彼は確実に私の分へ手を伸ばすだろう。油断はできない。
カサ、という音と共にズシリとした重みが手にかかった。これは、私の命。盗まれてしまえば、あとは死を待つのみ。
「それで? 他には?」
剥岩さんは、他に要求が無いかどうか聞いてくる。
この際だ。一番疑問に感じていたことを聞いておこう。
「……睡眠薬を入れた理由、教えてください」
おおかた、私に眠っていてもらわなければならない事情でもあったのだろう。錯乱させないためとか、自分に疑いの目を向けさせるためとか。前者であれば、失敗に終わったのだが。
視線がぶつかる。感情の読めない顔は、何処か不穏な空気を感じさせた。
やがて、静まり返った空気を裂くように彼の口から吐き出されたのは、予想外の言葉だった。
「……あんたを殺したかったからだよ」




