七話 疑心暗鬼
考え直せ。頭痛も倦怠感も脱力も、疲労や睡眠の取りすぎからくることもあるのではないか。
考え直せ。あの状況では、ただ単に精神的に追いつめられて錯乱しただけとも考えられる。一概に睡眠薬のせいだとは言えない。そして、その錯乱が故の幻覚と幻聴だったのではないか。
考え直せ。たった一人の仲間だ。ここで疑って、もしも関係が拗れてしまったら、後々困るのは自分ではないのか。
考え直せ。彼はこんなにも私に良くしてくれた。優しい彼が、私を騙すような真似をするのか。
だが、これまでのザビエルさんの言動には怪しいものが幾つも見受けられた。彼は、きっと何かを知っている。
一度疑ってしまうと、なんでもないことすら疑問に思ってしまうのは私の悪い癖だ。良く言えば、慎重なのだが。
「……無いな」
私の額に触れていたザビエルさんは、ぼそりとそう呟いた。
昼間の気温からは想像もつかないほど冷え込み、私の体は額のみならず、指の先から爪の先までひんやりとしていた。ザビエルさんは熱のせいにするつもりだったのかもしれないが、それには無理があるのだ。
動揺しているのではないか。そう思い、彼の瞳を探ってしまう。だが――。
「大丈夫?」
ザビエルさんの瞳は、温かな光でいっぱいだった。
「あ……はい……」
「寒いでしょ。俺ので良ければ、ジャージ着る? ぶかぶかだろうけど」
友達でもなく、恋人でもない私に、彼はどうしてこんなにも優しいのだろうか。協力を誓ったからだと言われてしまえば頷けるのだが、そうである前に私達は赤の他人なのだ。放っておいても良いはずなのに。
彼を一瞬でも疑った自分が、恥ずかしいと思った。
「ありがとうございます……」
語尾は吸い込まれるかのように消えた。
彼の差し出した、黒のジャージと懐炉を受け取る。ジャージは裏起毛になっており、かなり暖かいであろうことがわかる。懐炉は掌に収まるほど小さなもので、まだ冷たい。きゅっと握りしめた拳の中で、それはシャリシャリと音を立てた。
俯いていた私の顔を、ザビエルさんが覗き込んだ。彼の瞳は何処までも澄んでおり、私の中で渦巻いていた疑念になど気がついていないようだった。だが、そのことが余計に罪悪感を募らせる。
「他のものも探してこようと思うんだけど……ここで待ってられる?」
ザビエルさんの口から吐き出されたのは、まるで幼い子に問うような、心配と躊躇の混じった声。
この二両目以外には死体がある。私を気遣って、見せまいとしてくれているのだ。だが、私をここにおいていくことで、さっきのように気をおかしくしないか心配なのだろう。
「大丈夫ですよ」
私は、ザビエルさんを安心させるために精一杯の笑顔をつくる。一瞬の逡巡ののち、彼はほっとしたように息をついた。
「わかった。行ってくるよ」
立ち上がってこちらに背を向けた彼が闇に消えるまで、そう時間はかからなかった。扉の閉まるパタンという音がした直後、あたりがしんと静まり返る。
急に、不安や孤独感が舞い戻ってきた。どのくらいの時間が経てば、どのくらいの恐怖を味わえば、彼は帰ってくるだろうか。
さっきの運転手の顔が脳裏を掠めた。体がぶるりと震える。また、見えてしまうんじゃないだろうか。また、聞こえてしまうんじゃないだろうか。
「……ううん、大丈夫だ、私は大丈夫。冷静でいればそんなもの、見えもしないし聞こえもしない……」
私は、自分に言い聞かせるようにひとりごちた。
腕を埋めつくした悪寒をごまかすように、ジャージの上着に袖を通した。下から這い上がる恐怖をごまかすように、ジャージのズボンで脚を覆った。サイズの合わないそれは、私の手足をすっぽりと覆ってしまっているが、とても暖かい。その温もりがザビエルさんそのもののように感じられて、少し安心する。気がつけば、私の頬はすっかり緩んでいた。
いつの間にか、月はその姿を隠してしまった。
黒々としてずしりと重くのしかかるような色の中で、視界の隅に転がる懐中電灯だけが箱庭に色を添えている。たとえるなら、それは夜道を照らす車のライトのよう。暗いと怖いだろう。そう言って、ザビエルさんがおいていったのだ。
何もすることがないと、思考ばかりがぐるぐると回る。私は、いつまでもこうしてザビエルさんに甘えていていいのだろうか。私に、何かできることはないのだろうか。
「…………」
けれど、何もないのだという結論に辿り着く。
食料調達、衣服の強奪、使える道具があるかどうか。他の車両に行くのなら、いやでも死体が目に入るだろう。耐えられるとはとても思えない。
救助という第三者の助け、もしくは、窓が割れるという偶然がないのなら脱出するのは不可能だとわかった今、私にできることなど何もないのだ。
私は、自分の無力さを思い知った。そして、それと同時に疑問が浮かぶ。
「……あれ……そういえば……」
ふと思った。彼は、食料以外の何を探しに行ったのだろうか。
お金など今は必要の無いものだし、携帯やパソコンを盗んだところで何になるだろう。どうせ、圏外に決まっている。
貴重品ではないのだとすれば、防寒具……? だが、電車の向かおうとしていた方角にあるのは、人の住む街ぐらい。おそらく学校帰りの人間が多いのだから、皆、帰宅途中だったはずだ。そして、夏のような昼間の気温。まっすぐ帰るのであれば、防寒具など要らない気候だったのだ。つまり、その線も無い。
では、窓を割ることのできるような器具や、ロープなどはどうだろう。ある程度の硬さをもったものであれば、私も持っている。水筒だ。つまり、これも無い。ロープなら、強度さえあれば何かに使えるかもしれない。だが、出かけるのに必要のないそれを、誰が持っているというのか。これも無いだろう。
ならば、何を――? そして、再び同じことをしに行くというのは、あまりに非効率的ではないのか。
一度おさまりかけていた疑念が、むくむくと頭を擡げる。
「…………」
眩しいほどの光の先には、座席に置かれた彼のリュック。
私は、ごくりと唾を飲み込んだ。今からやろうとしていることへの罪悪感で、心臓がバクバクと暴れ始める。人として、モラルとして、やってはいけないことなのだから。
――本当にする気なのか。私の中の善の部分が言った。
――自分の身のためだ。私の中の悪の部分が言った。
拮抗していた理性は、しかし、本能の前に砕け散った。
「…………」
四つん這いで足を引きずりながら、リュックへと近づく。
私と同じくテスト帰りだろうに、それは今にもはち切れそうなほどパンパンに膨らんでいた。警戒するように、ぴたりと隙間無く閉じられたチャック。
私は深呼吸をしてから、周囲の気配を確認した。ザビエルさんはまだ帰ってこない。大丈夫、バレなければいいのだ。
ドクンドクンと鼓膜にまで轟く警鐘。背中を伝う冷たいもの。干上がっていく口中。私は罪悪感を切り捨て、チャックに手をかけた。
ジジ、といやに大きく響いたチャックの下から、ぎゅうぎゅうに詰められた荷物が姿を現した。最初に覗いたのは菓子類。それを退けると、先に見たテーピングパッドや弾性包帯、瞬間冷却材、複数の簡易トイレや懐中電灯、湿布薬。そして、それらとは別に、次々と不可解な物が出てくる。
軍手、携帯のバッテリー、マッチ、乾パン、折りたたみ式のナイフ、絆創膏、胃腸薬、消毒薬、ロープ、ビニール袋、タオル、ヘルメット、水の入った数本のペットボトル。およそ、高校生が学校へ行くのには必要のないものばかりが入れられていた。まるで、この事態を予測していたかのような。
だが、肝心なものが見当たらない。
「無い、無い……なんで……? あるはずなのに……」
睡眠薬である。バラで持ってきたのでないのなら、薬瓶かシートがあるはずだ。だが、それすら見当たらない。その時、私の頭の中にふっとひとつの可能性が浮かんだ。
まさか、証拠隠滅……? 私が覗くことをわかっていて――。
まずいと思った時には、遅かった。
「どうかした?」
後ろのほうで、不気味なほどにこやかな声が響いたのだ。
ザビエルさんが帰ってきてしまった。私の背中を冷や汗が伝う。
「……結城?」
窓にぶつかった革靴の踵が、カツン、カツンと音を立てる。近づく音。近づく気配。私は、振り向くことができなかった。
「安静にし――」
声は、すぐ真後ろで響いた。
――ああ、終わった。私はバカだ。
不自然に言葉が切れたことからして、私の手元が見えたのだろう。温かく優しかった声は、これまでとは正反対のものに変わった。
「……何やってんの?」
「……っ」
軽蔑するような冷たい声。心臓が、ぎゅっと掴まれたかのように縮み上がった。
「こ、これは違うんです!」
ばっと振り返ると、咄嗟にそんな言葉が口から飛び出した。
素直に謝るべきだと思う反面、もう言い訳をするしかない、そう思う自分がいる。だが、この状況で言い逃れなど、できるわけがなかった。
「何が違うの」
ザビエルさんの声にはさっき以上に怒りが滲んでいた。
「俺の鞄だよね、それ。許可も無く勝手に他人の鞄を漁るって何」
頭が真っ白になり、金縛りにあったかのように動くことすら忘れた私から、ザビエルさんの手がリュックを攫っていく。
「あっ」
その時耳を掠めた彼の低い声は、ぴしゃりと私を殴っていった。
「……最低だな」
「……!」
浴びせられた軽蔑と失望。実感する衝撃と絶望。
私は、そうされるべきことをやってしまったのだ。たとえそれが、罠だったのだとしても――。




