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六話 錯乱 ※

 肌を撫でる冷気に、私は目覚めた。

 視界に広がった景色に太陽の気配は無く、胸から向こうは闇に飲み込まれている。夜になったのだ。

 いつ寝たのかはよく覚えていないのだが、頭がはっきりしていた頃、まだほんのりと明るい空を見ていた気がする。


「ザビエルさん……?」


 全てが闇の中に消えてしまいそうに感じられて、傍にいるはずの彼の名を呼ぶ。だが、返事は無かった。

 頭痛と倦怠感を覚えながら起き上がると、独特な臭いがツンと鼻をついた。それは、足元から漂ってきているようだった。湿布の臭いだ。痛みや無感覚になった確認をしなくても良いように、処置を変えてくれたのだろう。


「…………」


 闇を掻き分けるように、微かな月明かりが差し込んだ。それを頼りにあたりを見回すが、ザビエルさんの姿は無い。

 彼は何故か、簡易トイレも所持していた。気遣ってくれたのか、互いに車両の前方か後方で用を足せばいいと言われ、幾つか渡されている。声を発して聞こえないのなら、この二両目に彼はいないということだ。

 唯一考えられるとしたら、水道で手か何かを洗っている、ということ。きっと、さっきここを離れたばかりなんだろう。そう思うことで、私は平静を保とうとした。

 ――だが、目覚めてから十分が経過しても、彼は帰ってこなかった。


「ザビエルさん……」


 たった一人しかいない仲間が帰ってこない。横転して、未だ救助も来ない電車の中。視界を覆う闇。しんと静まり返った、恐ろしいほどの静寂。一両目には今も転がっているであろう運転手の死体。背後の三両目から微かに漂ってくる腐敗臭。足元から這い上がる冷気。不安がつのる。恐怖が私の体を支配する。寒さのせいか、恐怖のせいか、体が小刻みに震えた。握りしめた拳も、ぎゅっと結んだ唇も、情けなく震え出す。雲の切れ間に見え隠れする月の光が、私を嘲笑うかのように躍る。車外で荒れ始めた風が、ダン、ダンと窓を打つ。それはちょうど、誰かが扉を叩いているような。


「いや…………やだ、やだ……」


 うわ言のように漏れる声。恐怖と不安を煽る光景に、私は目と耳を塞いで俯いた。

 それからどのくらいの時間が過ぎた頃だろうか。近くに何かの気配を感じて、私はそっと目を開けた。視界の端に、誰かの足がある。


「……っ」


 ザビエルさんだろうか。耳を塞いでいた手を退けて顔を上げると、すぐ傍にぼんやりとした人影が見えた。はっきりとは見えないのだが、男の人だというのはわかった。彼は、スラックスのようなものを身につけている。


「……ザビエルさん……?」


 ザビエルさんが戻ってきたのだろう。ほっとして、安堵の声が漏れる。


「良かった……戻ってきてくれたんですね」


 それから一拍置いて、躍り狂う月光が一瞬だけ、その人物の顔を照らし出した。そこに浮かび上がったのは、待ち焦がれていたザビエルさん――ではなく。


『――……あたしだよ』


 ホラー映画さながらおぞましい女の声と不吉な高笑いが耳に響いたのと同時に、真っ赤な血に染まった、あの運転手の顔が浮かび上がったのだ。恐怖が私の全身を駆け巡る。


「うああああああああああ! ああああああああああああ! あああああああああああああああ!」


 血を吐くように幾度となく絞り出した叫び声が、耳を鋭く切り裂いた。再び耳を塞いで俯き、狂ったように叫び続けなければ、どうにかなってしまいそうだった。

 私の肩を、運転手の手がトントンと叩く。


「いやあー! やだ! やだぁ! 来ないで! 触らないでぇ……っ!」


 やがて両肩を掴まれ、前後に揺さぶられる。目の前の運転手はそうしながら何か叫んでいるようで、微かに声が聞こえた。けれど、そんなものは聞きたくない。私は、痛くなるほどぎゅっと耳を押さえ、のどが裂けるのではないかと思うほど、電車が壊れるのではないかと思うほど、声の限りに叫び続けた。突き刺すような痛みがのどを貫いても、叫び声が次第にザラザラとしたものに変わっても、私は構わず叫び続けた。

 恐怖の時間は、両頬を鷲掴みにする生温かい感触によって終わりを告げた。


「いやあっ!」


 絹を裂くような短い悲鳴を遮って体を打ったのは、ずっと聞きたかった声だった。


「結城、しっかりしろ!」


 ザビエルさんだった。ずっと帰りを待っていた、ザビエルさんだった。どうやら私は、運転手の幻覚を見ていたようだった。恐怖のあまり、そんなものが見えてしまったのだろう。安堵し、それまで私の中でピンと張りつめていた糸が切れて、目の奥がじわりと熱くなる。

 ただでさえぼんやりとしていた彼の姿がさらに霞んでいく。もっとしっかりと彼の存在を感じたかったのか、自分でも無意識のうちに、私はザビエルさんに抱きついていた。


「……結城……?」


 頭上で上擦った声が聞こえた。だが、ザビエルさんの動揺も束の間、すぐに背中に腕が回される気配がして、私は彼の胸に顔をうずめた。温かい。トクトクという少し速い鼓動が伝わってくる。


「ザビエルさん……ザビエルさん……っ」


 情けないほど震えた声で、存在を確かめるように繰り返し彼の名を呼ぶ。そうしていないと、ザビエルさんはまた何処かに消えてしまうような気がした。

 彼はぎこちなく、だがとても温かい手で私の背中を撫でた。


「……ごめん、怖がらせたね」




 ザビエルさんは私が目覚める数分前に、手持ちの懐中電灯の明かりを頼りに他の車両へ向かったらしい。

 目的は、食料調達。脱線事故で亡くなった人達の鞄を漁ったのだという。死人から何か物を盗むなど、あまり好ましいことではないのだが、生きるためだ。そう割り切るしかない。

 時刻は十九時二十六分。窓に転がった懐中電灯の明かりに照らされながら、私達は夕食をとることにした。

 彼が差し出した幾つかの袋のうち、パンの入った黄緑色の袋を開けると、ふわっと甘い香りが私を包んだ。Uの字をつくった指に沿うほどふっくらとしたクリーム色の生地には、方眼紙のような網目模様が描かれている。給食などで出されると、皆が自然と笑顔になる、あのメロンパンだ。ごくりと唾を飲み込んだ私のお腹が、きゅう、と切ない声で鳴いた。催促するようなそれを抑えるように、私はメロンパンに勢いよく噛みついた。粒状の砂糖が散らばったカリカリとした生地は、中は柔らかく、ジュッと頬の落ちそうな甘みが口いっぱいに広がる。


「よく噛んで食べな」


 限りがあるんだから少ない量で満腹にしておけと、ザビエルさんに窘められる。

 その時だった。


 ――……あたしだよ。


 ふと、ほんの少し前のことを思い出して、頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。運転手の幻覚を見たと同時に聞いた、幻聴だ。地を這うような、低い女の声だった。あれは怨みのこもったような、だがそれとは反対の、狂気を感じるような悦びをも含んでいた。

 ひとたび思い出してしまえば、あの薄気味悪い高笑いが耳の中でこだまする。だんだんと気持ち悪くなってきて、私は噛んでいたメロンパンを飲み込んでから、おえっと嘔吐いた。


「……大丈夫?」

「あ……はい……いえ、あの」


 首を傾げて先を促すザビエルさんに、私は確認の意味を込めて聞いた。


「……ザビエルさんと私以外に、生きてる方っていないんですよね?」

「……うん、いないけど」


 何故今さらそんなことを聞くのかというふうに、困惑した声が返ってくる。


「どうかした?」


 ザビエルさんの顔が運転手のそれに見えたこと。同時に、何故か女の人の声がしたこと。

 叫び出す前に見たこと聞いたことを話すと、ザビエルさんがはっと息を飲むのがわかった。彼は微かに目を見張り、固まっている。


「……ザビエルさん?」


 私の声に、ザビエルさんは我に返ったように顔を上げた。


「ああ……いや、なんでもないよ。……それより結城、熱でもあるのかもしれないね」


 捻挫をすると、発熱するケースがある。そのせいで幻聴がしたんじゃないか、とザビエルさんは言った。

 私は、何処かすっきりしない感覚を覚えた。何かがひっかかる。考えれば考えるほど、沼の底に沈んでしまうような、糸がこんがらがるような、そんな感覚だ。このまま考え続けていても光は見えそうになかった。


「…………」


 一向に冴えない頭が煩わしい。まだ眠いのだろうかと、顔を洗おうとして立ち上がった、その時だった。

 思うように体に力が入らず、私は前につんのめるようにして倒れた。素早く反応したザビエルさんによって、全身を強打するのは防げたのだが、私の思考は一気に晴れた。

 その感覚に、覚えがあった。――睡眠薬だ。不眠症に悩まされている私は、よく睡眠薬を服用しているのだが、それを飲んだ翌朝は、決まって頭痛や倦怠感、脱力などの症状が出る。ちょうど、さっきのように。だが、今日は飲んでいない。だとすれば――。

 私は横目に自分の鞄を見た。その中には、桃の天然水の入った水筒がある。確かに、眠ってしまう前に飲んだものだ。強い睡眠薬などには、幻覚や幻聴、錯乱といった副作用があると聞いたことがある。そして、私の水筒に睡眠薬を仕込める人物がいたのだとすれば、それは私が自分の鞄から目を離していた時にこの場にいた人間だ。でもまさか――。

 可能性のある人間は、一人しかいない。でもそんなこと、信じたくはなかった。

 心に差したひとつの陰が、この後私を奈落の底に突き落とすことになろうとは、この時はまだ、知る由もなかった。

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