五話 休息
あの後、私は一両目にあるトイレに寄り、水道で腕に付いた血を洗い流した。
窓と並行になっているトイレの扉を開けると、眼下にはおかしな方向を向いた洋式の便器。向かって右の壁にはトイレットペーパーのホルダーが、左の壁には小さな水道が設置されている。個室の幅は、大体一・三メートルといったところだろうか。奥行きは一メートルほどであるため、便器を足台にすれば簡単に個室から出ることができる。
ぴちゃぴちゃという音を立てながら白い壁を跳ねた水が、脚を濡らした。初め、透き通っていたはずのそれは、いつの間にかその姿をおぞましい色に変えている。
真っ白だったワイシャツの袖は、赤ワインにでも浸したかのようになっていた。ふと見れば、肘から垂れたのだろう、紺青色をしたチェック柄のスカートにも墨を垂らしたような点ができていた。
着替えが無いため、ワイシャツとスカートは我慢するしかないようだが、靴下は捨てた。ねっとりと指に絡みつく感触も、歩く度にぐちゃぐちゃと鳴る音も不快で仕方なかったのだ。
爪痕と圧迫痕が生々しく残る左足首からは、出血は無いようだ。あの時窓に垂れていたのは、運転手の血だったのだろう。
「捻挫かな」
運転手の死体を放置し、二両目に戻ってきてから数分。私の右足首の様子を聞いて、ザビエルさんはそう言った。
腫れてはいないし、痛みを我慢すれば歩けるのだが、それでも痛いものは痛い。彼に手伝われて座席の背もたれに仰向けになる。狭く、でこぼことしているが、硬くて冷たい窓をベッド代わりにするよりはマシだろう。
「取り敢えず安静にしてな。固定するから」
私の足元に胡座をかいたザビエルさんは、柔らかそうな黒い布地のリュックからテーピングパッドや包帯を取り出した。だいぶ用意がいいようだが、運動部にでも入っているのだろうか。
「……いつも持ち歩いてるんですか?」
「……ん? あー、うん、そうだね」
ザビエルさんの歯切れの悪さが気になったが、たまたまだろう。不意に質問をされると、そうなることもある。
「痛かったら言って」
先にそう告げて、ザビエルさんは私の右足首に触れた。患部にテーピングパッドを充て、その上から弾性包帯を強く巻いていく。慣れた動作で患部の圧迫を終えると、彼は再びリュックの中を漁り始めた。
少しして取り出されたのは、幾つかの瞬間冷却材だった。それは、叩くことで水の入っている小袋が破けて、共に入れられている硝酸アンモニウムと化学反応を起こし、冷たくなるものである。冷却時間はそれほど長くないのだが、急場をしのぐことができる優れものだ。それを包帯の上から患部に充て、彼はふう、と溜め息をついた。
「ピリピリしてきたら、そのうち感覚が無くなる。それまで大体二十分程度かな。あとは俺が見てるからゆっくり休んでいいよ」
無感覚になってきたら、挙上といって患部を心臓より高い位置に保つ処置が必要となる。こうすることで内出血を防ぎ、痛みを緩和することができるのだ。そして足の痛みが戻ってきたら、再び圧迫と冷却を行う。大きな痛みや熱を放っていないと確認できるまで、これらを繰り返し行うことになる。
やがて感覚が無くなってきて、近くに何か足を乗せられるものがないか探していると、座席の肘掛けが目に入った。冷却材と包帯を外し、再びザビエルさんに手伝われて肘掛けに足が乗るように体を動かした。だが、その直後、膝の上に黒のカーディガンがばさりと放られる。私はその意図がわからず、彼を見た。
「……掛けとけ」
わざとらしく咳払いをしてぼそりと言ったザビエルさんに、私はようやくその真意に気がついた。途端に顔が熱くなり、耳まで赤く染まったのが自分でもわかる。
膝頭が覗く長さのスカートだから、高さ三十センチの肘掛けに足を乗せてしまえば、奥まで丸見えとはいかなくても太股までは見えてしまっていただろう。特に意識はしていなかったが、とても恥ずかしいことをしていた。
ザビエルさんの顔も、熟れた林檎のように真っ赤になっていた。ぎこちない動きで私の頭のほうへ移動し、そこに腰を下ろす。
「…………」
初め、無表情だった彼のことだ。こんな顔を見せてくれるとは思ってもみなかった。羞恥心を押し退けて、甘酸っぱいような喜びが顔を覗かせる。
そっと顔を動かしてザビエルさんの様子を窺えば、乱暴に頭を掻いた彼と目が合った。
「…………何」
「いいえ、かわいいなと思って」
不機嫌そうな声でその二文字を吐き出したザビエルさんをからかうようにそう言うと、彼はさらにその色を強めて、「バカか」と悪態づいた。
まもなくして、その場の空気を変えるようにザビエルさんが口を切った。
「……結城。脱出できればの話だけど……なるべく早いうちに病院に行くこと。これは絶対だ。いい?」
「……はい」
ふと、言い知れぬ寂しさに襲われた。
ああ、そうだ。元々、脱出という共通の目的を果たすために私達は協力を誓ったのだ。目的が達成されてしまえば、他校の生徒であり、友人でもなんでもない私達が一緒にいる理由は無い。せっかく打ち解けたと思ったのに、これきりになってしまうのだろうか。
時刻は十五時五十二分。脱線事故が起こってからまだ四時間半ほど。独りだったら、不安で狂っていたかもしれない。そんな私を安心させるのは、一見冷たいようで実は優しく、子供っぽくて不器用な、この男の子だった。
上体を起こして鞄から取り出した水筒に口をつけ、僅かに傾ける。緊張と疲労で渇いた口中に、桃の爽やかな甘みが広がった。トイレの水道からは、車両に搭載されているタンクの水が流れているのだが、飲用する基準には達していないと聞いたことがある。電車からいつ脱出できるのかもわからないこの状況では、所持している分だけが貴重な飲み水だ。私はのどを潤す程度にして水筒をしまった。
「……もう夕方ですね」
再び仰向けに寝転がった私の視界に広がるのは、灰色がかった空。橙と灰が混ざったような色の雲。太陽は私達を置いてどんどん西の方角へ向かってしまった。季節は秋。あと二時間もすれば、あたりは真っ暗になるだろう。
「……そうだね」
ぼんやりと呟いた私に、平坦な声が返ってくる。そうして、沈黙が落ちた。
訪れた静寂は、耳が聞こえなくなったのではないかと思うほど何処までも広がり、疲れた私の目蓋を重くする。
「眠いの?」
「ん……」
「……もう少し緊張感とか無いの」
既に落ちた目蓋の向こうで、ザビエルさんがふっと短く笑った。だが、私にはその言葉に答える気力はもう無く、ずるずると夢の中に引きずり込まれていく。そして、何もわからなくなった。




