四話 もう一人の生存者 ※
「生きてる……!」
「待て!」
――私達以外にも、生存者がいた。あれはおそらく、この電車の運転手だ。
扉を開けてその男性の元へ駆け寄ろうとした私は、しかし、ザビエルさんの制止の声に振り返った。
「だって……!」
「冷静に考えろ! 客席の死角にいたんだとすれば、俺が見逃していただけなのかもしれない。だけど、扉が上側になっているとはいえ、ガラスを体で突き破って出てくる必要があったのか? 危険が迫っているのでもない限り、運転室で待機していればいいんだ。危険から逃れようとしてあんな行動を取ったんだとすれば、それは本末転倒だろう……。怪しすぎる」
「じゃあ……じゃあ、なんだって言うんですか? この状況にパニックを起こしてるんだとしたら、正常な判断なんてできませんよ!」
助けを求めている人がいるのに、怪しいからと言ってこの状況を見過ごすことなど、私にはできなかった。
ガラスの破片が全身に突き刺さり、痛みに苦しむあの男性には、一刻の猶予も無いのかもしれない。医療に携わったことのない私が行ったところで、何の助けにもならないだろう。だが、人が一人で苦しむ姿を遠くから眺めているのは御免だった。
私はザビエルさんの手を離し、扉の向こうへ駆け出した。自分の不安など、あの男性が今感じているものからしたら、いかにちっぽけなことか。
「結城!」
ザビエルさんの悲痛な叫び声が後方でした。私はそれを振り切り、不確かな足下を勢いよく駆けていく。だが、男性の許まであと少しというところで足がもつれ、私は走った勢いそのままに転げた。
「……っ!」
両手を前に出すことで顔から転ぶのは防げたが、その衝撃で手首を痛め、体は窓ガラスに叩きつけられた。もつれた時に捻ったのだろう、右足首に走った激痛に、私は転んだ体勢のまま起き上がることができなかった。電車の窓は私が転んだ程度では割れず、幸い切り傷はできなかったのだが、打ちつけた部分がところどころ痛い。
男性との距離は、僅か一メートルほどだ。私は痛みに顔を顰めながら、彼に声をかける。
「運転手さん、聞こえますか?」
彼の返事は無かった。さっき宙を掻いた手も今ではだらんと横たわり、ぴくりとも動かない。
男性の周囲に広がる夥しい出血が、彼の命の灯火が消えかかっていることを物語っていた。
「……運転手さん?」
私は四つん這いで、右足を引きずるように彼に近づいた。
男性の喉頭の側面に触れ、脈を測ろうと試みる。手首よりも簡単に測ることができると思っていたが、私の指に彼の脈拍は伝わってこなかった。
「結城、戻ってこい! 救助は来ないんだ、どのみちソイツは助からない!」
ザビエルさんの再三の忠告を無視し、私はなおも男性の脈を探り続ける。だが、やはり脈拍は感じられなかった。彼の背中を見るが、呼吸で上下する様子もない。
嘘だ。そんなはずはない。さっきまで確かに生きていたこの男性が、こんなにあっさりと死んでしまうものか。そんなこと、信じたくない。
「運転手さん……! わかっていたら返事を……!」
絶望を感じて、私が叫んだその時だった。男性の手が動いたのだ。
それは、獲物を前にした蛇のように私の手首に飛びかかった。とても死にそうな人間の動きとは思えないほど速く。私は驚いて、声にならない悲鳴を上げた。
「結城!」
男性の手は、鳥肌が立つほど冷たかった。反対に、私の手首にねっとりと絡みつき、腕を這う暗赤色の液体は生温かい。水やお湯が伝うのとは違う、恐怖を覚えるその感触と色彩に逃げ出したくなる。
だが、男性の力は強かった。私は手首を捻ることで彼の手から逃れようとしたのだが、びくともしなかった。死にかけている人間に、これほどの力が残っているものだろうか。
男性は、伏せていた顔をゆっくりと上げる。その顔は――……。
「いやああああああああああっ!」
私の悲鳴が電車の中に響き渡った。直後、音の煩いゲームセンターから出てきた時のように、聴覚が鈍る。
男性の顔は、窓ガラスを突き破っただけとは思えないほどひどいものだった。ずるりと落ちた帽子から、割れて脳漿の垂れた頭が覗く。額から首までは血で赤く染まっていた。皮膚は火事にでも遭ったかのようにひどく爛れているようで、その様がはっきりとわかる。顔の左半分にはまるで人喰いバクテリアに喰われたかのような大穴が開いており、赤黒く濁った右の眼球はおかしな方向を向いてだらしなく飛び出ている。鼻はぐしゃりと潰れ、耳は削ぎ落とされていた。上唇は抉れているが、下唇と顎は影も形もなく、ところどころ血に濡れた骨と黄ばんだ歯が剥き出しになっていた。
目を背けたいのに、背けることができない。金縛りに遭ったかのように、私は身動きひとつ取れなかった。漫画で血まみれのグロテスクな描写を見ても平気だったのに。医療番組で手術の様子を見ても平気だったのに。やっぱり、メディアは現実とは違うんだ。現実のほうがずっと、何倍も、何十倍も、何百倍も恐ろしい。
男性の手が私に向かって伸ばされる。壊死しているのか、親指の先は黒ずんでいて、その根元の骨が剥き出しになっている。
「…………いや……」
辛うじて、絞るような掠れ声が漏れた。
「結城、立て!」
後方から聞こえたその声で、私をその場に縫いつけていたものが解けた。小刻みな波のように震える足に鞭打って立ち上がると、さっき捻った右足首がズキリと痛んだ。
「……っ」
伸ばされていた男性の手が、逃げ遅れた私の左足首を掴んだ。濃紺の靴下越しに濡れた感触がじわり、じわりと伝わってくる。次第に足首がギリギリと締めつけられ、彼の爪が皮膚に食い込んでいく。
「うう……あああああっ」
やがて、皮膚を裂かれたような熱い痛みを感じて下を見れば、窓に赤く小さな染みが這っていた。それが男性のものなのか、私のものなのかはわからない。
足首を引きちぎられるのではないかと思ったその時、不意に男性の力が緩んだ。逃げようと、後ずさるような格好でザビエルさんの方向に力を入れていた私は、その反動で9/26尻餅をついた。痛みを振り払って男性を見れば、彼は力尽きたように腕を下ろしていた。
――……死んだのか。
ほっと安堵すると、全身の力が抜けて、私はその場にぺたりと座り込んだ。
今のは、なんだったのだろうか。男性の脈拍は既に止まっている。呼吸をしている様子もない。死んでいるはずなのに動いた。そんなことが有り得るのだろうか。
「大丈夫?」
頭上に、もう何度も聞いた声が落ちる。
「ザビエルさん……」
振り返ると、手を差し出したザビエルさんが心配そうな表情で私の顔を覗き込んでいた。
「……戻ろうか」
彼の手を取って立ち上がってから、私はふと気がついた。
何故あの時、ザビエルさんは男性のことを怪しいなどと言ったのだろう。確かに彼の言うことにも一理ある。だが、あの場面で咄嗟にそんなことを考えられるだろうか。ただの怪我人だと思うのが普通ではないだろうか。
「あの、ザビエルさん」
疑問に思ってザビエルさんに聞こうとしたが、私を振り返った彼は「ん?」と首を傾げた。眉尻を下げ、僅かに口角を上げたその表情は、嫌なできごとがあった人に対して向ける同情というか、慰めというか、そういった類のものを含んでいた。
「あ……いえ、なんでもないです……」
私は頭を振った。そんな表情を向けられてしまっては、聞くに聞けない。
私もザビエルさんも、それきり無言になった。彼に手を引かれ、私は右足を引きずりながら歩き出す。少しでも早くこの場から立ち去りたくて、気がつけば早足になっていた。




