三話 異変 ※
彼は私の顔と手を交互に見てから渋々と握り、「よろしく」の四文字をぼそりと呟くとすぐにその手を離した。
「結ぶ城って書いて結城、円は一円二円の円です。……それじゃあ、あなたのお名前も教えてください」
スカートのひだを整えるように手で撫でつけながら、少年の隣に腰掛ける。
さっきと同じように名を聞くと、彼は少し悔しそうな顔をしてぶっきらぼうに答えた。
「……剥岩郁。剥げるに岩で剥岩、有効の有におおざとで郁だ」
「…………はげ……禿げ?」
私は人差し指で頭を指して、頭頂部を囲うように円を描いた。その動きに彼――剥岩さんは固まった。
「……違う。髪じゃなくて、物が剥げるの“剥げ”だよ」
一拍置いて彼はそう訂正した。気がつけば、心の声が漏れていた。
「なんだ、そっちか……」
「……なんか凄く残念そうなんだけど」
「え、ああ、はい。頭が禿げるの“禿げ”にぴったりな渾名を思いついたところだったんです」
「……何」
剥岩さんは嫌な予感がするとでもいうような、面倒そうな表情を浮かべながらも先を促した。
「ザビエルさん。どうです?」
「……くだらない」
こんな絶望的な状況だが、バカなことを言っていたら少しは元気になれるような気がしたのだ。
吐き捨てるように言った彼だったが、満更でもなさそうな顔をしていた。私達は仲良くなれるのではないか。そう思った。
「……好きに呼べば」
「はい、ザビエルさん」
私が笑顔でそう呼べば、剥岩さん――ザビエルさんは、呆れ顔で溜め息をついたのだった。
その時だった。ガラスの割れる甲高い音が私を現実に引き戻した。続けて、ガタンという大きな物音が聞こえた。どうやらそれらは、一両目のほうからしたようだ。声を出さずにその方向を指差し、隣を仰ぎ見ると彼は頷いた。
「救助でしょうか……?」
「いや、それなら、まずパトカーとか救急車とか……場合によっては消防車のサイレンが聞こえるんじゃないかな。それに二度目のは、何か物が落ちたような音だ。救助とは違う気がする」
「そうですよね……。私、ちょっと見てきます」
立ち上がり、一両目へ向かおうとした私の腕を、ザビエルさんが強く掴んだ。
「待って、俺も行く」
私達は窓ガラスを踏みしめ、歩き出した。
横転した電車の中を歩くというのは、実におかしなものだった。壁を歩いているかのような感覚に、私は目眩を起こしそうになる。
私達は、互いを落ち着けるように手を握り合っていた。異性と接している緊張からなのか、それともこの先にどういった光景が広がっているのかわからぬが故の不安からなのか、私の手はひどく汗をかいていた。おそらく、ザビエルさんには不快な思いをさせていたことだろう。だが、頼りがいのあるザビエルさんの手を離すのは不安で、私は彼の手をより強く握りしめた。
「私が目覚める前、全ての車両を見てきたんですよね。一両目はどうなってたんですか?」
こういった状況下におかれていると、音や声というのは聞こえるだけでひどく安心するものだ。
私は不安を払うように、疑問に思っていたことを口にした。
「ああ、うん。三両目からは死体があったけど、一両目はいつもと変わらない。血痕とかも無かった」
「ここと同じ状態ってことですね。そういえば、この車両に乗ってた人は何処に行ったんです?」
そう。電車が横転する前、私とザビエルさんの他にも、男子高校生が二人、初老の男が一人、それに、四十歳くらいの女が一人いた。
「……それがさ、四人とも三両目にいたよ」
「……移動したってことですか?」
「さあ? 俺が気がついた時にはここにはいなかったよ。理由はわからないけどね」
「そこなんですよね。何かあったんでしょうか」
会話をしているうちに、私達は二両目の前方まで来ていた。
身を屈め、ガラス越しに一両目を覗いてみるが、二枚の扉のすぐ向こうには個室のトイレがあり、死角となる部分は当然こちらからは見えない。前へ前へと視線を滑らせ、運転室のほうへ目を向けると――……。
「……!」
粉々に割れて散らばった運転室の窓ガラスと、それの上にうつ伏せに倒れる一人の男性。ところどころ裂けてはいるが見覚えのある制服に身を包み、血にまみれた腕が前方に伸ばされている。
男性の着ている制服が鉄道会社のものだと気がついたその時、助けを求めるように彼の手が宙を掻いた。
――……生きている。私達以外に、生存者がいたのだ。




