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二話 絶望と希望

 目蓋に照りつける眩しさで、私は目覚めた。


「ん……」


 窓から差し込む陽射しが、舞い上がった塵を透かしている。埃っぽい空気。眩しい。暑い。確か今日は天気予報で、二十八度だとか二十九度だとか言っていた気がする。近づいている台風は二十三号だっただろうか。つい先日、その前の台風が去ったばかりだというのに。

 髪に絡むザラザラとした不快感。きっちりとポニーテールに結んでいたそれは、鬱陶しく首にまとわりついている。

 どうやら意識を失う直前に背中を強打したらしく、起き上がると鈍い痛みが走った。


「いててて…………あれ……?」


 床に触れたはずの手に違和感を覚えて目を向ければ、それは電車の扉。妙に近い右手の壁を見れば、それは電車の床。

 ぼんやりとしていた頭が覚醒するのと同時に、背中を冷たいものが伝った。


 ――電車は、脱線したのだ。


 ふと、微かな異臭が漂ってきていることに気がついた。血の臭いだ。

 周囲にあの粘ついた赤が、おぞましい死体が転がっているのではないだろうか。そう思うと、視界を覆う乱れた髪は都合が良かった。


 二年前のことが頭を過った。二○○八年。中学二年の頃のことだ。あの日、今通っている高校のある街へ、私は偶然遊びに来ていた。

 突如、鞄から包丁を取り出した男が、私の目の前で人を刺した。被害者は七人だとのちに知った。

 きっと恐ろしかったからだろうけれど、当時のことはよく覚えていない。多分、逃げることに必死だったんだろう。

 でも、なんとなく、そう、なんとなくなんだけれど、パズルのピースみたいにバラバラになったあの映像が、組み合わさることを知らないまま、脳裏にしっかりと焼きついている。誰かの血痕とか、犯人が握っていた刃物の形とか、殺された人の濁った目玉とか。けれど私は、そのパズルを完成させることができない。完成させてしまったら、その風景が、人々が、たちまち動きを取り戻して、またあの日の悪夢が始まるから。犯人が、私の背中を追いかけるから。連続通り魔殺人事件だった。

 あの日の私は無傷だった。刺されはしなかった。無事で良かったと、私を抱いた母が泣いていた。肉体を裂かれることはなかったけれど、私の心は抉られた。空虚な瞳に、灰色の空が映った。カーマインみたいなのだけが色を付けて、爛々と地面を這っていた。誰かの悲鳴だけが、不気味な背景を伴って、ずっと耳にこびりついて離れなかった。誰の悲鳴だったかなんてわからない。知らない。雑踏の音は遠ざかっていった。テレビがニュース番組に切り替わると、電源を消した。あれ以来、私はニュースを見ていない。

 あの場所からはもう血痕は消えた。事件の一ヶ月後には消えていた。けれど、私には今でも見える。幻覚なんかじゃない。あの人達の悲鳴ごと、地中深くまで根を張って、今もまだ、生き続けている。


「……いつまでそこに座り込んでる気? 死ぬよ」


 背中を、さっきの少年の声が打った。恐怖も忘れて振り返った私の目に映ったのは、全身を土埃で汚した少年の姿。そして、あたりには血痕も死体も無かった。

 だが、非日常的な空間だった。頭上を仰げば、天井に窓のある車みたいに、この箱庭みたいな空間とは裏腹に、何処までも続く青い空。そして、その右側には、今にも落ちてきそうなほど重い赤色をした座席。

 そんな中、一点の希望にも思えた少年は、しかし私の期待を裏切った。


「……後ろまで見てきたけど、全員死んでる。皆、乗客だ」


 ゾクリとした。鳥肌が立った。

 五両編成の短い電車だし、田舎だからそれほど乗客の数は多くないだろうが、それでも二十は下らないはずだ。決して少ないとは言えない数の人間が、死んだというのか。


「生き残ったのは俺とあんただけだよ、おまけに何故か無傷で」


 そう言った後で、少年は首を傾げた。


「ただ、さっきの武装集団だが……何処にもいない。奴らの死体すら無いんだ」

「……トイレは見ました? もしくは、逃げたんじゃ……」

「うん、見たよ。逃げたって線は薄いんじゃないかな。乗客の死体には、銃で撃たれたような跡は無かった。つまり、彼らは皆、脱線事故で死んだんだ。あれがテロリストだったとして、人質となるはずの乗客が死んでしまったらテロを起こす意味が無い。だったら、ここにいる意味も無いわけだ。いずれ救助が来るなら、武装を見られるわけにはいかない。当然、逃げる。だけど、電車は横転したんだ。仮にドアコックを作動させられたとしても、あのドアを開けるのは難しいだろう。逃げられるはずがない」


 饒舌に語った少年の考えは、正しかった。

 他の可能性を模索して私が上を見上げると、少年もそれにつられた。


「……ああ、なるほどね」

「いえ……あの武装集団がそれなりに運動能力のある方々、と仮定しての話ですが……。ジャンプして何処かに掴まったまま、片手で窓を開けることはできるんじゃないかって」


 都市部とは違って一部の地方には冷房の無い車両がある。そのため、夏には窓を開けることができるのだ。


「……でも、あれ全開にできるの?もしできるならかなり危険だと思うんだけど」


 私は屈んで、窓の上部に付いている取っ手を自分のほうへ引いた。


「…………」


 少年の言う通り、窓を全開にすることはできなかった。開いたその隙間は、頭すら出せないほどだ。


「無理だね」

「はい……」


 僅かな希望も打ち砕かれ、私は肩を落とした。窓というのは様々な要因で突然割れることもあるらしいが、偶然を期待しないほうがいいだろう。

 未練がましくもう一度見上げた空はやはり澄みきっており、真上から少しズレた位置に浮かぶ太陽が私達を見て皮肉っぽく嗤っていた。

 少年はふう、と溜め息をついて腕時計に目を落とした。


「武装集団が何処に消えたのかは謎だけど、脱出できないなら救助を待つしかない。……だけどどうしたものか……来る気配が無いね」


 腕時計の針は十四時二十五分を指している。電車が脱線してからおよそ三時間だ。駅を出てからそう時間は経たずに脱線事故は起きた。


「俺が気がついたのは確か十二時半ぐらいだった。あれから二時間経つけど、電車は一本も通ってない。つまり、脱線事故には気がついてるはずなんだ。……何かがおかしい」


 二人の間に沈黙が落ちた。恐ろしいほど静かな空間に、チク、チクという秒針の音だけがやけに大きく響く。

 ふと気がつくと、少年の目が私に向けられていた。だが、彼は無言で、そのことが私の緊張を煽る。耐えきれず、沈黙を破った。


「あの……何か?」


 すると少年も口を開き、予想外の質問をしてきた。


「……高校生?」

「……はい」

「何年?」

「一年です」

「一年か。同い年かと思ってた」


 少年は手近な座席に腰をかけ、無表情のまま話し続ける。普段なら膝裏が当たる部分で、もちろん背もたれは無いのだが、立ちっぱなしでは疲れる。そんな時にはちょうど良いものだった。


「……いや、もしもこのまま救助が来ないなら、なんとか方法を見つけて、あんたと協力して脱出するしかないだろうからさ。話でもして多少あんたのことを知っておこうと思ってね」

「……はあ……」


 私の口から気の抜けたような声が漏れた。今日はいろいろなことが起こり過ぎて疲れているのかもしれない。


「目を覚ましたらパニック起こすんじゃないかと思ってたけど、冷静だね」

「……状況が変わらないなら、冷静でいたほうが周りがよく見えると思うんです」

「ふぅん」


 少年はさして興味無さそうに相槌を打った。

 なんだか、変な人だ。見た目は無気力なふうなのに、初対面の私に対して考察をペラペラと喋るし、知っておきたいと言いながらこうしてつまらなそうな反応を返す。


「……そうだ、携帯……ワンセグで何か情報がわかるでしょうか」

「ああ、その手があったか」


 ふと思いついてそう言うと、同調して少年も頷いた。

 放られたように転がっていた鞄から、紫色の光沢を放つ折りたたみ式の携帯電話を取り出して開くが、電波は圏外となっていた。ワンセグメントは回線の電波状況に関わらず視聴することが可能だが、私にはひとつ気がかりなことがあった。


「圏外……ですね。外と連絡が取れない」

「……圏外? こんなところで?」

「はい。一時的なものかもしれませんが……」

「取り敢えず、ニュース」

「……!」


 ニュース。促した少年の言葉に、息の詰まるような心地がした。気がつけば、私の拳は強く握りしめられ、目は大きく見開かれて、体は小刻みに震えていた。二年前のことが、再び頭に蘇る。


「……?」


 少年からすれば、私の反応は理解し難いものだっただろう。

 問うような視線を向けられる。無表情な仮面の上に微かな不可解の色を貼りつけて、だが少年は、ちょうだい、というふうに掌を見せた。


「……見ていい?」


 彼は、何故ニュースを見ようとしないのか、とは聞かなかった。他人の事情になど興味が無いと言われてしまえばそれまでなのだが、どうしてだろうか。彼の優しさを感じた。そのことで、私の中で張りつめていたものがプツリと切れて、ひどく安堵した。

 私は、少年に携帯電話を手渡した。


「……嫌なら耳でも塞いでおけば?」


 なんでもないことのように少年は言った。その後すぐに視線を落として、私のことなど構わずニュースを見始めたようだった。

 それから十分ほど経った頃だろうか。彼は顔を上げた。


「……やってない」

「どうして……気がつかれていないってことなんでしょうか……」


 自分でも情けないと思うほど、頼りない声が漏れた。


「さあ? どうだろうね」


 彼の返答は実に冷めたものだった。続けて、こんな質問を投げかける。


「……ここで救助を待ち続けたとして、もしも来なかったら……あんたなら、どうする?」

「え……それは……あなたと協力して脱出するのでは……?」


 私は、少年のさっきの言葉を思い出していた。


「俺が言ったことは気にしないで」


 少し思考を巡らせた後、私は今度こそきっぱりと答えた。


「それ以外には、私も思いつきません。一人よりも二人のほうがアイディアは浮かびますし、何より、脱出するという目的は同じですから」

「うん、その通りだ」


 その時、少年は初めて笑顔を見せた。僅かに目が細くなって唇が孤を描く程度で、笑顔というよりは微笑という言葉のほうが合っているのかもしれない。だが、それまでずっと無表情だった彼が微笑うというのは大きな変化であり、私も嬉しくてつられるように頬を緩めた。


「……お名前、教えて頂けませんか?」


 今なら聞くことができるだろうか。彼の、人を寄せつけないような雰囲気はだいぶ薄れたように見える。警戒の解けた今なら、それが僅かだったとしても、聞くことができるのではないだろうか。そう思って私は問いかけた。

 彼の動きが止まった。その顔からは、もう微笑は消えていた。ゆっくりと口を開いた少年は、心を閉ざしたような無表情に戻っていた。


「……断る。理由が無いなら教える義理は無い」


 彼はピシャリと言い捨てた。

 私は、声をかける時や会話をする時に名を呼んだほうが話しやすいからだと、自分でも白々しいと思うような弁明をした。


「この空間には俺とあんたしかいないのに?」


 ――その必要は無い――彼の冷たい瞳が、そう雄弁に語っていた。

 それはあまりにも悲しいことだと思った。横転した電車に閉じ込められるなど、あまり愉快な話ではないが、こうして巡り会ったのだ。もっと彼のことを知りたいと思った。

 けれど、彼は私との間に壁をつくり、そっぽを向いた。これでは最初よりもひどい。本当に協力して脱出することなど可能なのだろうか。そんな思いが私の胸の中にポトリと落ちた。

 もういいですと、少年と同様に壁をつくろうとした私よりも早く、彼はひとりごちるようにこう聞いた。


「人に名前を聞く前に、自分から名乗るべきじゃないの?」

「あ……」


 彼は、心を閉ざしたわけではなかったのだ。

礼儀としては確かに彼の言うことは正しいのだが、ひねくれた、少し子供っぽい人なのかもしれない。それがおかしくて、私はふふっと笑った。

今日初めて会った人だけれど、一見冷たそうな彼のことを少しは理解できたのかもしれない。

 私はにこりと笑んだまま、手を差し出した。


結城円(ゆうき まどか)です、よろしく」

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