一話 幕開け
十月の蛇は乱暴だった。
定期考査二日目の放課後は、風が激しく吹き荒れて、陽射しが強かった。特急通過を告げるアナウンス。停車した駅のホームで、枯葉と空き缶が暴れていた。
目の前の優先席には、脚を組んで座る、髪をゴテゴテに固めた男子高校生が二人。その向かいには、痩せた初老の男が一人。私の後ろでは、スラックスに革靴を履いた脚が重なっていた。さらにその向かいでは、鍔の狭い帽子を目深に被り、半袖のティーシャツにジャージというラフな格好をした四十歳くらいの女が座っている。二両目にいるのはその五人だけで、立っているのは私だけだった。そして、皆一様に携帯を弄っていた。
時刻は十一時半。特急が新たな風を起こしながら通り過ぎていった。閉まる扉にワイシャツの袖が連れて行かれそうになって、咄嗟に腕を引いた。ゆっくりと電車が動き出す。だんだんと加速していく、心地よい感覚。ジェットコースターのようで嫌いじゃない。昼下がりの車内は、ガタガタという車輪の音を除けば、閑散としていた。
台風が近づいているせいか、車体は時折横に大きく揺れた。その度にバランスを崩してよろめいたが、鞄がずっしりと肩に重く、何処かにつかまる気にはなれなかった。脚を開くことで衝撃を最小限に食い止めようとした努力も虚しく、続く蛇行に私は呆気なく飛ばされる。
「うわぁ……っ」
体は、右に崩れるようにして倒れた。
「……っ」
尻餅をついた私を、周囲の人間の目が鋭く射抜いた。だが彼らは、一瞬こちらを見ただけで、またすぐに手元の世界に目を落とした。
「…………」
そんな世界を、私は嫌う。
よいしょと、床に手をついて体を起こそうとすると、再び蛇は暴れた。まるで、立つのを許さないというように。
「……大丈夫?」
頭上に落ちたしっとりとした少年の声に顔を上げると、スラックスに革靴を履いた脚が目の前にあった。私が立っていた時、真後ろに座っていた人物だ。
差し出された手は骨張っていて、少年ながらも既に大人の色香を放っていた。ワイシャツの首を濃紺のネクタイで締め上げ、シャープな輪郭の中には、心配の言葉とはおよそかけ離れた、冷淡な表情が放り込まれている。目まで覆いそうなほどに伸びた前髪に反して襟足は短く、ファッションのようにつけられた緑青のヘッドホンが首にしがみついていた。
私は、力強い少年の手に引っ張り起こされた。その細身な体躯には似合わない力に、私は彼に覆い被さるように倒れ込んだ。
咄嗟に電車の窓に手をついて突撃は免れたが、なんとも恥ずかしい格好をしていることに気がつく。
「……何やってんの」
慌てて離れようとした私の臙脂色のネクタイを少年が掴んで、乱暴に引き寄せた。意図せず、彼の膝に跨る形になる。
耳を掠めた彼の声は、確かこんなことを言っていた。囁き声で。
「……気をつけろ」
「…………え?」
彼の腕が私の背中に回った。異性と密着する機会などあまり無いため、こうして抱きしめられるだけで心臓が煩く騒いだ。
私と少年は、初対面だ。人柄も知らない。名前も知らない。だけど何故か、初めて会った気がしなかった。
その時、緊張で機能が停止しかけた鼓膜の奥に、静寂を奪う騒々しい物音が響いた。霞む視界の隅で、隣の車両から銃を構えた男達が飛び出してきたのがわかる。迷彩柄の軍服を着て、今から毒ガスでも撒くかのように黒いマスクを着けて、私達乗客に拳銃やライフルの銃口を向けていた。
男子高校生も、初老の男も、四十くらいの女も、皆手元の世界を捨てた。他人のことには無関心でも、自分の命に関わることとなると、大抵の人間は無関心ではいられなくなる。
拳銃を持った男の一人が、天井に向かって威嚇射撃をした。銃声はキーンと耳に鳴り響いて、麻痺したように聴覚が鈍る。乗客の間から絹を裂くような悲鳴が上がった。
突然、車体が大きく傾いた。少年の腕に力が入ったが、直後、私達は引き離される。混乱の中で、胃の水分が上に移ったり下に戻ったりしているのを感じていた。
走馬灯というやつだろうか。私は昔のことを思い出していた。そういえば幼い頃の私はよく、 母にこんな質問をしていた。
『バスジャックとかハイジャックはよく聞くけど、トレインジャックってないの?』
母の答えは覚えていない。だけど。
……あったんだ。
背中に強い衝撃を受けたのを最後に、私は意識を手放した。




