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十七話 game over? ※

 その時だった。


「うわっ!? ……がっ!」

「……っ!?」


 沈みかけていた意識を水面まで引き上げたのは、すぐ近くで聞こえた剥岩さんの声と、顔がひしゃげるような鈍い音。

 おそるおそる肩越しに後ろを見れば、そこには凄惨な光景が広がっていた。

 その距離、僅か二メートル。制服の足元にあるのは、潰れて伸びた灰白色の脳味噌。視線を上へ上へともっていけば、黒髪にべっとりと絡みついた赤が覗く。赤は、それだけに飽き足らず、あぶくの立った池をつくった。


「はぎ……い、わ……さん……?」


 彼の体は人形のように動かない。だらんと横たわった腕。生気を失った青白い顔。転がるナイフ。スタンションポールに残された、歪なキスマーク。

 剥岩さんはクズだ。最低な人間だ。私は、彼に死なれても構わないと思っていた。むしろ、一度死んでみるべきだとさえ。

 それなのに、どうしてか今は動揺している。と同時に、自分の奥底に眠る負の感情を改めて認識し、自身が恐ろしい存在に思えた。命がなんだ、死がなんだと偉そうに語っておきながら、そのことについて安易に考えていたのは、本当は私のほうだったのかもしれない。

 気がつけば、私は手を伸ばしていた。


「はぎいわさん……し……っかり……しっかり、して……剥岩さん、剥岩、さん……聞こえますか…………お願い、お願いだから……返、事…………」


 ガサガサとした虚ろな声が耳にまとわりつく。

 脇腹がちぎれるような痛みを感じたと同時に手に触れたのは、制服越しの足だった。まだ温かい。だが、これでは生きているかどうかが確かめられない。


「は……ぎいわさんったらぁ……。ねぇ……!」


 吐き出した声と共に勢いよく上体を起こせば、傷口が収縮して、肌が焦げる。彼の体に手をかけながら地面を這えば、熱が私を貫いた。

 それでも構わず、私は叫んだ。子供が駄々をこねるみたいに、ただただ叫んだ。


「脱出、するんでしょう……!? ねぇ! 帰らなきゃ!」


 ろくに力の入らない手が、剥岩さんのそれを握ったまま、ぶるぶると震えている。

 死んだらダメ。生きて。生きなきゃダメ。

 あなたを利用して、私も利用されて、そこで初めて現実になるかもしれないこと。私はあなたを蹴落としてでも、裏切ってでも、生きていたい。死にたくない。


「剥岩さん!」


 神に祈るような気持ちだった。結果はどうなってもいいから。私さえ、私さえ助かるなら、あとはどうでもいいから。だから、今だけは。

 そう願った、次の瞬間。手のひらをつつっと這うものがあった。


「……! 剥岩さん……っ!?」


 弾かれたように身を乗り出すと、剥岩さんは苦しそうに顔を歪めていた。

 生きている。彼は生きていたのだ。

 簾のように下りた睫毛が小刻みに揺れて、その下からぼんやりとした瞳が覗く。のろのろと開かれた唇は、声変わりし始めた時のような掠れ声を漏らした。


「……ゆう、き……」

「…………良かった……」


 ――道具がまだ生きていて。

 私は心の中でそう呟いた。

 舞台は整っている。完璧だ。自分の口角がだんだんと吊り上がっていくのがわかった。

 剥岩さんがそうしたように、盾にしてやってもいい。どうせ死ぬなら、役に立ってくれたほうが助かるもの。

 ねぇ、妙子さん。あなただって、“村上一郎の身代わり”を存分に苦しめてから殺したいはず。そうでしょう?

 頃合いを見計らっていたかのように向けられた怨嗟を、利用しない手はなかった。


「……さようなら」


 とっさに半身を引いた私の影をすり抜けて、それは無残にも別のものに振り下ろされた。

 はっきりとした瞳。ひゅっと鳴ったのど。爪が震えながら皮膚を掻き分ける、ヌチャヌチャという音。だが、絡みつく筋肉がそれの進行を阻む。一拍。

 断末魔の叫び声が響き渡った。窓が割れるのではないかと思うほど、空気はビィンと震えた。

 そして、それは太い針となって、私の鼓膜を刺し貫いたのだ。体内のあちらこちらを巡り、やがて、肉を食い尽くして顔を覗かせる。まさしく、ピラニアのそれだった。

 爪は抵抗の消えた豆腐の奥深くへ、するりと滑り込んだ。


「……かは……っ」


 数拍遅れて、剥岩さんの口から飛沫が上がった。

 目玉がポロリと落ちてしまいそうなほど、これでもかというふうに開かれた目蓋。宙を掻きむしる手。

 運転手が立ち上がると共に軽い音がして、根の生えた植物のように、爪は剥岩さんの胸に残された。

 腕は次第に脱力していく。フッと息を吹きかけるまでもなく、命の灯火が消えるのは明らかだった。


「……ゆ……うき……て、てめ……」


 血と血の間から押し出されたその声はひどく乾いているのに、涙のにおいがした。ああ、身勝手で非人道的なあなたにふさわしい最期だ。私は彼が弱っていく様を、瞬きひとつせずに見つめていた。

 あのままの体勢でいたら、胸を刺されていたのは私だっただろう。悪くない。私は悪くない。どのみち、剥岩さんは死んでいた。だから、彼の人生がちょっと短くなっただけ。そう、ほんのちょっと。私は悪くない。何も悪くない。

 恐怖と苦痛に染まった顔の下で、非情にも、腕は地面に叩きつけられた。

 剥き出しになった歯茎。年齢とは不相応に、たっぷりと刻まれたシワ。まさに鬼の形相と言うにふさわしい。今までの余裕ぶった表情からは想像もつかないほど、そして、いつか見た死体によく似ていた。

 サァッと頭上に影が落ちる。体を反転させれば、次はお前の番だ、そう言わんばかりに嗤う化け物の姿があった。


「ひっ」


 剥岩さんの血に濡れた、その顔で、その体で、その爪で。全身を口にして嗤っていたのだ。

 私はへたりと腰を落としたまま、ずりずりと後退った。魚拓を引き伸ばしたような赤がスカートの裾から現れる。


「……本当……なんなの……。私何も……なんっにも……悪いこと、し……てない、のに……」


 私が後退れば後退るほど、運転手は一歩、また一歩と近づく。

 折れた爪は鋭さこそ失ったものの、凶器としての質は健在である。あれで殴られたら、ひとたまりもないだろう。


「勝手に浮気されて、勝手に自殺したのは、あなたじゃない! 私関係ない! 関係ないもの……! ……っ」


 口をついて出た言葉は、運転手の――いや、金城妙子の怒りを買うであろうものだった。

 運転手は一瞬、驚いたように体を震わせて、足を止めた。おぞましい見た目にすっかり隠されてしまっているが、その中に戸惑いと微かな焔が見える。

 ――今だ!

 私は軋む体に鞭を打って立ち上がった。

 焔が燃え広がってしまう前に。この身が怒りに焼き尽くされてしまう前に。

 身を翻し、走り出す。そして、一直線にあの場所を目指した。

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