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十六話 利用価値 ※

大変お待たせしましたm(__)m

 赤黒く濁った右目が、私を見ている。


 ――今度こそ、殺される。


 生きなくちゃ。いや。生きたい。生きて、帰らなくちゃ。家族の待つ、温もりのある場所へ。

 金城妙子の復讐なんて知ったことか。彼女に殺されなければならない理由は無いし、私には関係のないことだ。恨むなら、村上一郎ただひとりにしてよ。私を巻き込まないで。

 生への渇望は、私の手に、足に、体に、力を漲らせていく。燃えるような熱さ。体が小刻みに震えた。

 剥岩さんの切羽詰まった声が聞こえてくる。


「おい! 誰がここまで手引きしたと思ってる! 俺が教えてやらなかったらあんたはとっくに死んでた!」

「そんなの……! 元はと言えばあなたが……!」


 そこまで言いかけて、私は続く言葉を飲み込んだ。

 もういいや。言ったところで何かが変わるわけじゃない。この人の心には、私の言葉なんて響かない。

 結局、私もあなたと同じ。中途半端な覚悟だった。

 恐怖を煽る運転手の視線も、刺すような剥岩さんの視線も、二度と見ることはないだろう。私はふいと顔を逸らすと、扉だけを見据えた。


「……さよなら」

「おい……! 待て……!」


 剥岩さんの制止を振り切って、私は一気に体を押し上げ、扉を開けた。そして、希望の光に向かって身を乗り出した――のだが。


「え……嘘……でしょ……?」


 うっすらと上空を覆う靄の間から、ぼんやりと覗く陽光。ひんやりとして湿った空気。まもなく午前九時を迎えるはずのこの世界は、早朝のように穏やかで。

 そして、見渡す限りの平地。何処までも一直線に続いている線路の他には、何も無い。

 駅を発車しておよそ二分。脱線事故が起きたのはそのくらいの頃だった。二分ほど走った距離なら、三階にカラオケ店のある古びたビルが見えるはずだ。なのに。

 剥岩さんの推測は当たっていたということか。


「やだ……そんなの……」


 無意識のうちに、そんな声が漏れていたようだった。


「ゆう――」


 怪訝そうな剥岩さんの声がしたかと思えば、それは不自然に途切れる。

 瞬間、何かの気配を感じた。全身に走った、虫が這い上がるような感覚。私の中で危険信号が鳴り響いた。

 ばっと振り返れば、こちらへ身を乗り出す運転手の姿があった。窓枠を掴む指先は白くなり、そこから血がダラダラと伝っている。

 氷を踏みしめるような音。荒い鼻息。細かく震える体。


「アア…………ス、コ……ス……」


 運転手は何やらブツブツと呟いている。だが、原形をとどめていない唇からその言葉を読むのは、困難に等しかった。

 彼はどう仕掛けてくるのか。足場を破壊するのか、それとも、私と同じように座席に上ってくるのか。

 運転手の左手が鷲のそれのようになった。

 心臓がドクンと胸の内を突く。殺気がゴリゴリと皮膚を抉る。

 ――来る……!

 運転手の攻撃を確信し、私は電車の屋根に足をかけた――つもりだった。


「い……っ」


 だが、現実はそれを良しとしなかった。

 右足に違和感を覚えたのだ。皮膚を裂く冷たい感触。それとは裏腹に、ベットリと絡みつく液体は人肌と同じ温もり。

 覚えのあるその正体を確認しようとした瞬間、視界がぐるりと反転する。


「……あっ!」


 咄嗟に伸ばした右手は、虚しく空を掻いた。

 何度も味わった、落下する感覚。鼓動がリズムを乱す。ぶわっと嫌な汗が吹き出る。

 地面が遠い。そう感じた次の瞬間、私の体は激しく叩きつけられた。内臓が跳ね上がる。蛙の潰れたような声が漏れる。

 体の内側を通じて頭蓋に響いたのは、ボキッというくぐもった音。背中を突き破った熱く鋭い痛み。

 おそらく、私は窓枠に背中を打ちつけたのだ。その証拠に、じわりとした感触がゆっくりと背中いっぱいに広がっていく。ワイシャツの上からぬるま湯をかけられているような、そんな感覚だった。

 思い出したように息を吸えば、肋骨が胸の裏を刺した。


「アア……アア……」


 天井だったはずのものは、いつの間にか、運転手のおぞましい顔へと変わっていた。その距離僅か、十センチメートル。

 締まりの悪い唇から吐き出された、噎せ返るほどの臭気。そして、唾液の混じった血がたらりと溢れ、私の頬をねっとりと舐めていく。

 気がつけば、私は大きく目を見開いていた。

 これを悪夢と言わずして、なんと言おうか。中年の男性に見下ろされるほうが遥かにマシだったと思うほど、それは醜悪で、恐怖で。

 退路は断たれた。絶体絶命だ。

 ――と思った、その時。足元のほうから、焦りを含んだ革靴の音が聞こえた。


「アア……?」


 幸運か、好機は訪れた。

 どうやら、剥岩さんが何かに躓いたようなのだ。

 運転手が剥岩さんを振り返った。上体を起こした運転手との間に、逃げられるだけの余裕が生まれる。

 ――今しかない!

 この機会を逃せば、死ぬ。そう直感した。

 私は背中を浮かせ、投げ出すようにして体を後転させた。世界がぐるりと回る。ビュッと傷口から血が噴き出す感覚。だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。

 猫が伸びをする時のような格好で客席へと転がり、顔を上げた。一、二メートル前方には、睨み合う剥岩さんと運転手の姿。

 剥岩さんはこちらに気がついて、悪態づいた。


「くそが!」


 その言葉を合図に、運転手は飛び上がり、腕を振り下ろした。耳を劈くような金属音がした時には、私は走り出していた。


「おい! 結城、てめぇ……!」


 怒号が背中を追いかけてくる。私は走った。とにかく走った。

 弾けるような高音が時代劇さながらに響いて、重たい空気を震わせた。

 激しく揺れる視界は、船に揺られている時のそれ。血が止まらない。冷や汗が止まらない。浅瀬を漂う呼吸。正常さを取り戻す術はなく、意識は流砂に足を取られたかのように沈んでいく。運動神経は人並みだが、今日は調子がすこぶる悪かった。

 なんとか一両目の中間まで差しかかる。もう少し、もう少しだ。早くあのトイレの中に逃げなくちゃ。

 そう思考した瞬間。


「逃げてんじゃねぇぞ、くそアマ」


 ドスのきいた声が耳を貫いた。後ろから髪を強く引かれ、意識は引き上げられる。


「ひゃあっ!」


 首が操り人形のようにガクンと動き、景色が急降下する。私は腰を強かに打ちつけた。


「い……っ」


 夢は音を立てて崩れ去り、無情にも現実だけが醜い姿を現した。

 見上げた先に立っていたのは、剥岩さんだったのだ。赤く染まった二本のナイフ――おそらく運転手の血だ――を携え、私を見下ろしている。その表情は、たった今、人を殺してきたかのようなものだった。


「……立て」


 短い命令と共に放たれた殺気。私の意思とは裏腹に体はひとりでに立ち上がり、剥岩さんに襟首を掴まれた。そのままくるりと反転させられて、彼の胸に人質のように抱かれる。

 そうしてから、私は気がついてしまった。すぐそこまで迫っていた、化け物の姿に。

 口裂け女のように不気味な笑みが視界を埋めつくした。頬を切った風。這い上がる蠕動。間、髪を容れず、腹部に違和感を覚えた。


「……っ!?」


 ぼうっと、音が遠ざかっていく。運転手が私の横を駆け抜ける。

 景色がゆっくりと左へ移動していく中、飛沫が上がった。それはまるで、鯨の潮吹きのよう。だが、叫びたくなるほどに赤かった。

 私は、文字通り盾にされたのだ。

 右半身を、頭を窓に打ちつけるころには、時間は元の速さを取り戻していた。直後、焼けるような激痛が私を襲った。とっさに傷口を押さえた手を塗りつぶしても、血はとどまることを知らない。

 いつの間にか、背中に守られていたものは跡形もなく消えていた。

 私は、私は……このまま死ぬのだろうか。そんなのって、ない。そんなの――。


「……いやだ……いや……」


 熱を出した時のような、喘ぐような呼気が、掠れた声と共にヒューヒューと漏れる。

 霞む視界に映るのは、鮮やかな血溜まり。真っ赤な運転室から足跡のように血痕が続く光景は、まさに地獄絵図そのものだった。

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